台風五郎の思い出 [タイムスリップ忘備録]
【台風五郎の思い出】
<台風五郎> 昭和30年代の貸本ブームの中で、大ヒットした劇画の人気シリーズ。関西の劇画家さいとう・たかをの出世作でもある。
もはやリバイバルは不可能であろうと思われる昭和30年代の貸本屋ブーム。このブームを共有した者たちには何故か同時代を生きた、一種の幼馴染みのような感じを抱いてしまう。
本屋に行けば、立ち読みで人気の少年雑誌を読む事は出来たが、一泊10円程度の貸本にはそれとはまた別の世界があった。地方に暮していた私にとって、都会から送られてくるマイナーな情報のひとつが貸本の世界でもあったのだ。
ジャンルもアクションのみならず「時代劇」や「SF」など、当時の劇画作家としては異色の才能を発揮していたが、私はやはり彼の原点としての「台風五郎シリーズ」を忘れられない。
最終回までおよそ二〇刊ほどシリーズ発行されたと思うが、貸本の世界でシリーズを続ける事は余程の人気と実力がなければ出来ない事だったと思う。浜慎二や横山まさみち等、数人がシリーズ物を手掛けてはいたが、私はやはりさいとう・たかをのファンだった。
当時の劇画の大御所は辰巳ヨシヒロで、描写のタッチやキャラクターの顔つきなど彼がそのベースを築いたとも考えられるだろうが、それらを完全に取込んで自分のモノにして洗練させたという意味で、さいとう・たかをは“劇画界の手塚治虫”のような存在だと私は思っている。
台風五郎は最終回で死んでしまうが、これは当時の私にはちょっとしたショックだった。なんとなく悲しかった事を覚えている。劇画は児童漫画と比べると、比較的ドライで非情なエンディングをするものだったが、台風五郎は明るいヒーロー的存在だったのでまさか殺してしまうとは思っていなかったからだ。
敵のアジトで闘い残されて時限爆弾の仕掛けで犠牲となって死んでしまう台風五郎の笑顔が、大空いっぱいに描かれたラストシーンは今でもはっきりと覚えている。
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<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。
ピアスゲームの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【ピアスゲームの思い出】
<ピアスゲーム> 昭和30年代初めに流行した携帯サイズのテーブルゲーム。プラスチックの丸い容器に穴が空いていて、そのままゲームの盤になる。代表的なものはダイヤモンドゲームと呼ばれるもので、10個のピンを自分の陣地から対極の陣地に早く移動させ終えた方が勝ちというものすごく単純なルールのゲーム。
子供の頃の体験というのは兄弟との関係で色々変わって来るものだが、私の場合、上に歳のかなり離れた姉がいたために、その影響はいたるところにあった。外では同年代の男友達と遊ぶのだが、家に帰って来ると姉が遊び相手のために遊びの道具から根本的に違っていた。「少女」や「りぼん」といった女性雑誌の付録とか、「平凡」「明星」などの芸能雑誌に付いている歌本などがたくさんあった。正月の遊びとなると、凧上げやコマ回しもするが、羽根つきやコタツを囲んでのミカン釣りなども定番だった。しかしよく周りを見てみると、連れの男友達でそんな遊びをやっている者は珍しかった。
▲盤面が木造りのハイグレード版
ピアスゲームというのはそんな我が家の遊び道具のひとつだった。囲碁や将棋と違って、そのプラスチックで出来たゲーム盤は何だか都会的な香りがして大人っぽい気分を感じさせた。木造の貧相な借家で幼年期を暮していた私だが、今にして思えば感性を育む様々な環境は周りにいっぱいあって、ピアスゲームは共に暮した姉との無邪気で暖かだった日常をあぶり出す、記憶の中の団らんでもある。
▲ダイヤモンドゲームにはピアス形状以外にもボード形式の普及版があった。
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小学生画報の思い出 [タイムスリップ忘備録]
【小学生画報の思い出】
<小学生画報> 昭和37 年頃に発売された月刊漫画雑誌。秋田書店の「漫画王」が改名されたものだが、何故か一年足らずで再び「まんが王」に戻された。
漫画雑誌に明け暮れていた少年時代、何故か記憶の片隅に残る超マイナーな思い出がある。当時の子供たちには紙模型(今で言うペーパークラフト)の付録のついた月刊漫画誌が人気で「少年」「少年クラブ」「少年ブック」「日の丸」「ぼくら」「少年画報」などなど多種類の雑誌が発行されていたのだが、この「小学生画報」の誌名が記憶にある人は非常に少ないのではないかと思う。
秋田書店からは「冒険王」「漫画王」の2誌が発行されていたが、その「漫画王」が何故か突然「小学生画報」という名前に変わった。理由は多分、販促効果を考えての事だと思う。確かに他の雑誌に比べて「漫画王」はイマイチ人気がなかったように、子供心にも感じていた。どの雑誌にも必ずテレビ化されて看板となっている人気連載があるものだが、例えば「少年」の「鉄腕アトム」や「鉄人28号」、「少年クラブ」の「月光仮面」、「少年画報」の「まぼろし探偵」、「ぼくら」の「少年ジェット」・・・。しかし、「漫画王」は何故かそういうヒット作品に乏しかったのだ。
月刊漫画雑誌の目玉の「付録」においても「漫画王」はパッとしなかったように覚えている。私などは付録目当てで買っていたものだから、付録に対してはかなりシビアな目を持っていた。付録では「少年」と「少年クラブ」が群を抜いていたが、「漫画王」はその作りといい色使いといいもうひとつ垢抜けしなかった。
とにかく、そんな状況から脱出するためか誌名を変えてみたのだろうが・・・改名創刊の表紙を見て私の受けた第一印象は「なんかカッコ悪くなったなあ~」だった。
案の定、数カ月間発行されただけで一年も経たずに元の「まんが王」に戻ったが、私にとっては明治製菓とキンケイ食品が合体して発売した短命商品「明治キンケイ・ミルクカレー」と同じくらい印象度の強いものとして、心の片隅に残っている。(もしも「小学生画報」をお持ちでしたら、どれくらいの稀少価値、プレミアがつくのか調べてみると面白いでしょうね)
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<ご注意>
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透明ランナーの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【透明ランナーの思い出】
<透明ランナー> 昭和30年代に少年たちの間で行なわれていた草野球の“特別ルール”。2~4人で野球をしようとした場合、打者がヒットで出塁してしまうと途端に人数が足らなくなるため、とりあえずランナーが居るという設定にしておいてそのまま試合を続行するという、子供らしい無茶苦茶でアバウトなルール。
嘉門達夫のコミックソングの中にも登場するので、経験がなくとも言葉だけは聞いた事のある若者もいるかも知れない。「透明ランナー」の名称は当時よく流行っていたスリラー物語に登場する「透明人間」から生まれたのだろう。空き地でのソフトボールが定番だった時代。小学校の上級くらいになると人数も集まり、きちっとしたルールの元で他校生との交流試合なども出来るようになるのだが、小学生になるかならないかの年齢の頃は何しろ近所のガキ連中を無理矢理集めてするものだから、中にはルールなんて全然知らなくて集まって来る者もいたりした。それでもまだ、人数がそこそこに集まればいい方で、どうしても足らなくなるとこの特別ルール「透明ランナー」の登場となる。
4人でやる場合は、守備側チームの二人はA:ピッチャー、B:内野兼外野手。攻撃側のチームはA:バッター、B:キャッチャーといった具合になるのだが(これでも何かヘンな感じなのに)3人になった場合は、ピッチャー、バッターに加えてどちらの味方ともならない“永久に守備の人”というのが現れる。そしてそういう役は必ずと言っていい程、最年少の者かおとなしい性格の者がやらされる事になってしまうのだが、それではあまりに可哀想という事でたまにピンチヒッターの役で打席に立ったりもした。(打つ事が楽しくてやっているのが殆どだったから)しかし、外野の守備がいないものだから、その彼はどんなに大きな当たりを打ってもワンベースしか行けないルールになっていた。そしてヒットを打つとさっそく「透明ランナー」と交代して彼はいそいそと守備に廻る事になる。
「透明ランナー」は通常はアウトにならない。(それでも時々、内野手をファーストに張り付かせて牽制を投げるという馬鹿馬鹿しいピッチャーがいた)常に“本物のランナー”の前を走っている事になっているので“本物”がホームに生還すれば当然「透明ランナー」もセーフという事になる訳だが、かつて“本物”が3塁で止まってしまって送球がバックホームされた時には大問題になってしまった。 「今のはクロスプレーでアウトだ」「いや、ギリギリでセーフだった」などと、子供ならではの真剣さで解決の糸口のない不毛の討議が延々と続けられた事を覚えている。
それにしても今思えば、あの頃の子供達は遊び方を自分たちで工夫して考え、ルールや賞罰を合議制で生み出していたものだ。やれ“手作り”だとか“コミュニティ”だとか大人に音頭を取られなくても自由に勝手にやって支障もなく成り立っていた。なんと自主的で創造的だったことだろう。
▼YouTube に、こんな歌がありました!
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チャンピオン太(ふとし)の思い出 [タイムスリップ忘備録]
【チャンピオン太(ふとし)の思い出】
<チャンピオン太(ふとし)> 昭和37年に放映されていた少年向けのテレビ活劇。原作は梶原一騎で少年マガジンに連載されていたマンガをテレビ化したもので、後に「タイガーマスク」を生み出すに至るプロレス漫画の初代作品。
力道山というヒーローはいたものの、当時のプロレスはまだまだマイナーで胡散臭い部分のあるスポーツだった。映画化やドラマ化されるスポーツといえば、国民的スポーツである「相撲・柔道・野球」が殆どで、プロレスなどというものは‘下品で野蛮でキワモノ的’な扱いだった。(ま、確かに実際もそんなものでしたが・・・)ちなみに、空手にしてもブルース・リー(正確にはカンフー)と大山倍達が現われるまでは完全に悪者の使う格闘技だった。映画「姿三四郎」や人気漫画「イガグリくん」に登場してくる悪役の多くは「空手家」ばかりで、何故か皆、着ている空手着が黒いのばっかり・・・。もともとが韓国や琉球から伝わって来た舶来ものだから、その破壊的な激しさは日本人のメンタリティにあまり受け入れられなかったのだと思う。本来日本人って、あんまり過激で露骨なものは好きじゃないみたいですね。
私は子供の頃からプロレスが大好きで、当然「チャンピオン太」は欠かさず見ていたけれど、TVドラマに対しては、子供ながらに何となく腑に落ちないものを感じていたのも事実だった。
「普段、試合であんなにいがみ合って流血にまで発展している外人レスラーと、どうして一緒にドラマに出られるのだろう?」という、すごく当たり前でシンプルな疑問だった。試合と言うより殆ど喧嘩で、反則はする…罵り合う…地球上から相手を抹殺せんとばかりに遺恨を持って戦っている相手と、まかり間違っても会釈なんか交わす筈はあり得ない・・・と当時の私は思っていたからだ。ドラマの中では確かに実際の試合と同じようにブラッシーとかの悪役外人レスラーが登場して、チャンピオン太や力道山に反則をしかけたり流血をさせたりしているのだが・・・でも、この撮影が終わった後は同じスタジオ内でどうするんだろう?まさか「お疲れさん」なんて挨拶しないだろうな?・・・などとつい、いらぬ心配をしてしまう私だった。
当時の日本のプロレス界は現在と違って、力道山を頂点に一枚岩にまとまっていたから番組に登場するレスラーはすべて力道山の門下生で総出演していた。「豊登」「吉村道章」「遠藤幸吉」たちに混じえて若き日の「ジャイアント馬場」の姿もあった。が、何故かこの番組の中には「アントニオ猪木」の姿がない!馬場と同期だからすでに門下生としては存在していた筈なのに?? 実は…後に分かった事だが、猪木だけは悪役の外人レスラーの役で出ていたのだった!外人選手の数が足らなかったのか、真意は分からないが、架空のインディアン・レスラーとしてモヒカン刈りのカツラをかぶり顔にはペイントをして登場していたらしい。猪木にしてみれば屈辱の極みだっただろうと推測する。
その後「BI砲」としてコンビを組みタッグ・チャンピオンに成長する彼等だが、読売ジャイアンツの投手出身としてエリート扱いで入門したジャイアント馬場と、片やブラジル移民時代にたまたま見そめられてプロ入りしたアントニオ猪木とではスタ-ト時点でかくも差が付けられていた。日本のプロレス界で永遠のライバルとなって今日の隆盛を築き上げる事になる、二人の黎明期であった。
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ボーイズライフの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【ボーイズライフの思い出】
<ボーイズライフ> 昭和40年代前半に小学館より発行されていたティーンエイジャー向けの教養娯楽雑誌。「平凡パンチ」や集英社「プレイボーイ」の狭間にあって光を放っている雑誌だった。
団塊の世代が大学生から高校生くらいの位置を占めていた時代、世の中は高度成長の真っ只中で若者文化全盛期に入っていた。それまでハングリーだった若者達が場とチャンスを与えられた感じで、まさにバイタリティ溢れるエネルギーが充満していた感じだ。ライフスタイルも多様化し始め、職業の選択もかなりバラエティに富んできた。絵画や音楽などアートな世界をめざす者、F-1ドライバーや航空機パイロットをめざす者、そして海外留学をして世界をめざす者などなど。まさしく“百花繚乱”の雰囲気が渦巻いていた時代・・・そんな時代の若者にモチベーションを与えるオピニオンリーダー的存在の雑誌、それが「ボーイズライフ」だった。
確か、若かりし頃の小田実氏や落合信彦氏などの執筆もあったと記憶している。国会議員となった糸山英太郎氏や『レストラン・ベニハナ』で成功した日系人のロッキー・青木氏そして日本マクドナルドの総帥で孫正義氏のお師匠さんでもある藤田田(でん)氏のサクセス・ストーリーも記憶にある。そしてグラビアには小山ルミやジュディ・オングといった当時のアイドルの、今から見ればそれほど露出度も高くない水着姿だったが、それでも中学一年生だった私には充分刺激的だった(苦笑)。そう言えば後に『ゴルゴ13』で売れっ子作家になる関西の劇画家さいとう・たかお氏がメジャーデビューしたのもこの雑誌だった。『イアン・フレミング原作「007/死ぬのは奴等だ」画=さいとう・たかを』のコピーを目にした時、貸本屋時代からファンだった私は大いに胸躍らせたものだ。
その後、青年誌ブームが隆盛期を迎え、マンガ雑誌でも「ヤング・コミック・カスタム」(後の「スピリッツ」)「漫画アクション」などが続々登場して来ると、いつの間にかその役目を果たしたかのように「ボーイズライフ」は姿を消してしまった。私はいつの日かあの「ボーイズライフ」が再評価され、復刻版で再び陽の目を見る事を待ち望んでいる。
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このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。
【追記】 海外の未知なる文化に憧れ、未来への希望を掲げながら国内の閉塞感を打破しようとアピールし活動してきた筈の若者たちだったが、それがいつの間にやら『天下り』『利権まみれ』『強欲のエセ思想』を習得した醜い大人たちになってしまっていた。それは挫折か敗北か?それとも元々そんな希望なんて本気ではめざしていなかったのだろうか? しかしいずれにしても、誇り高き希望を抱えた“若者のバイブル”のような雑誌が存在した時代だったことは事実である。
忍者部隊「月光」の思い出 [タイムスリップ忘備録]
【忍者部隊「月光」の思い出】
<忍者部隊「月光」> 昭和39年頃、フジTV系で放映された人気ヒーロー番組。原作は「少年キング」連載のマンガで太平洋戦争中の日本軍諜報部隊の物語だが、何故かTVでは時代背景は曖昧なものになっていた。
数年前に007シリーズが登場して、世はまさにスパイ活劇ブーム。子ども達の間ではアメリカ輸入の「ナポレオン・ソロ」や“アストンマーチンに対抗して車を空中に飛ばした(苦笑)”TV映画「スパイキャッチャーJ3」(川津祐介・主演)などスパイ物が氾濫して、その後その流れは和製スパイとも言える「忍者ブーム」に移って行った。映画では「忍びの者」、TVでは「隠密剣士」が代表的なものだったが、その中で私が注目していたのが、やや小太りになった往年の二枚目俳優・水木譲演じる「忍者部隊・月光」だった。
主題歌もなかなかシブくて、デューク・エイセスというコーラスグループの低音を効かせたサビが魅力的だったが、何と言ってもリーダーの月光をはじめとする現代の忍者スタイルが、子供番組のレベルを越えたカッコ良さでとりこになった。
テレビでは大人気となって第二部が制作されたり、東映で劇場用映画として公開もされて好調だったが、何故か原作の漫画の方はパッとしないまま終ってしまった。吉田竜夫のこの漫画では、太平洋戦争末期の東南アジアが舞台となっていたように思う。アメリカの戦闘機を爆破したり、米軍のアジトに忍び込んだりという活躍をしていた筈なのだが・・・何故かTVではそんな時代背景とはまったく関係ない現代のどこかの国での諜報活動をしているようだった。それにしては敵方と思えるグループが冠っているヘルメットが、どう見てもドイツ兵のようなデザインだったのも不思議だった。
当時は、大ヒットのアメリカTV映画「コンバット」の影響もあってか、悪役のヘルメットは「ドイツ型」というのがお約束だったから、悪い奴にはやたらとドイツ軍のヘルメットを被せたものだ。(そう言えばスターウォーズのダースベーダーのヘルメットも何となくドイツっぽいデザインですが、これは日本の兜がヒントになっているらしいです)
なるほど良く考えてみれば、輸入モノのアメリカ番組ではヒーローがドイツ兵をガンガンやっつけているのに、片や別番組で日本のスパイ・ヒーローがドイツと肩を組んでアメリカ兵をやっつけているなんてやれば、見ている方は何がなんだか分からなくなるものね(笑)やはりテレビ向けには“曖昧なシチュエーション”でやるしかなかったのでしょう。
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シスコーンの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【シスコーンの思い出】
<シスコーンの思い出> 昭和38年頃発売され、今でも健在のご存知シリアル食品。その後、砂糖がけとかチョコ・コーティングとか様々なバリエーションが開発され発展した日本のシリアル食品の先駆け的存在である。
「♪エンヤカヤカヤカヤ~・・・」の音楽に乗ってテレビCMが放映され、今まで見た事もない食べ物が日本の茶の間に登場した。東京オリンピック開催よりまだ少し前の事である。
私は雑誌などで既に発売される予定である事は知っていて、ずっと以前から楽しみにしていた。雑誌広告では美味しそうに牛乳のかかっているカラー写真と、可愛らしい『シスコン坊や』のアメリカンなキャラクターが紹介されていて、日本であってどこか日本でないようなアットホームな感じに仕上がっていた。
テレビのCMは先のリズム音楽に乗ってシスコン坊やと女の子のインディアン(確か『チョコちゃん』という名だったような記憶がある)が踊って登場するのだが、これがまた良く出来た人形アニメでイメージを印象づけるには成功だったと思う。当時、CM人形の傑作は“ミツワ石鹸の女性トリオ”だったが、それにも勝るものだった。私はシスコン坊やの人形が欲しくてたまらなかったものだ。
シスコーンが食べてみたくてたまらなかったのは、その新しいインパクトと共にもうひとつの訳があった。それはキャッチフレーズの「頭の良くなる朝食」という言葉。どこかの栄養学博士の推薦の言葉があって『朝食をしっかり採れば脳が活性化され、授業にも集中出来て成績が上がる』という、当たり前と言えば当たり前の話なのだが「別にシスコーンでなくとも良いのでは」などというツッコミもなしに受け入れていた。「アメリカの子供達は毎朝こんなものを食べて生活しているのかあ~」と雑誌やテレビに映し出されるアメリカの家庭風景を頭に描きながら、箱を開けて皿に盛り、牛乳・砂糖をかけて“アメリカンな朝食”を体験したものだった。
はっきり言って、当時は美味しいとはとても思えなかった。何となく文化人の朝食のような気がして半ばヤセ我慢気分で食べていたものだが、たまに購入するシスコーンをひと箱完全に食べ切った記憶はついになかった。今でこそ平気で食べているが、実際は当時の日本人の食生活から言えばちょっと無理があったのだろう。
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【追記】
上記の宣伝ポスターのコピーを見るとスゴイです。
『おいしくって、栄養があって、スタミナがつく』は、まあ良いとして。『美人になれる。アタマがよくなる。アメリカでもヨーロッパでも朝食はほとんどコレ』って断言しちゃってます。今の時代なら完全に“公共広告機構”に引っ掛かっちゃうでしょうね(苦笑)
冒険王クラッチの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【冒険王クラッチの思い出】
<冒険王クラッチ> 昭和40年頃フジテレビ系列で放映されていた、アメリカ産のアニメ。土日を除く毎日、夕方6時55分頃放送されていたが、たぶん殆どの子どもは7時からのゴールデンタイムに始まる番組がお目当てで、この3分ほどで終わる連続アニメをまともに見ていた者はいなかっただろうと推測される。
アメリカン・コミックが原作だろうと思われる連続活劇アニメ「冒険王クラッチ」は実に不思議な存在だった。月曜から金曜まで連続で放送されていて、私も毎日のように見ていたのだが、その内容はさっぱり覚えていない。7時から始まるお目当ての番組が早く見たいものだから“早く終わらないかな~”などと思っていたくらいだった。そうかと言って他のチャンネルに変えると「ヤン坊・マー坊の天気予報」くらいしかやってないので、仕方なく見ていたような気がする。
別段見るべきところのないアニメではあったが、ひとつ印象に残っている事があった(だからこうやって記憶の中に残っているのだろう)それは“人物の口元だけが実写合成されていた”という事だった。動きが全体にギコチない割に会話の場面だけが妙にリアルで、私は子供ながらにアメリカの技術の高さというよりもその滑稽さに感心していたものだった。アニメーションのセル枚数の加減からか、目とか表情の動きが乏しい割りにやたらと口だけがスムーズに動くために“もっとアクションシーンに力入れろよ~”とも思ったものだ。(もしかすると実写合成ではなく、口元だけが異常に丁寧にドローイングされていたのかも知れない。だとすると、益々私にはこの作品の意図が分からなくなる)
それに引き替え和製アニメは制作コンセプトが実にはっきりしていた。当時は「鉄腕アトム」や「狼少年ケン」なども放送されていて第一期アニメ黄金時代だったが相変わらずお金がなく低予算で製作されていた。走ってる場面などは2~3枚のセルで処理されてるんじゃないかと思う程安易な感じで、会話にいたっては適当に口をパクパクしているだけで全然セリフに合ってはいなかった。しかし当時のアニメに求めるものは決してリアリズムではなかったので“異常な口元”の「冒険王クラッチ」よりも、私は満足していた。
日本のアニメの神様・手塚治虫は低予算の中からなんとしてもアニメ番組を作りたいために、実に色々な事を考えたようだ。当時アニメのコマは1秒間に36コマといわれていたのを24コマにコマ落としを工夫したり、なるべく同じセルを使い廻せるように制作行程管理に力を入れたりもした。そしてそれらは、その後のアニメ制作会社のシステムのベースとなってゆくものだった。今やデジタル時代になって、アニメの制作方法もすっかり変ろうとしているが、当時の日本の過酷な制作環境が世界に名を馳せる『ジャパニメーション』の独自性につながったのかも知れない。もしも日本のアニメが最初からスムーズな口元を表現する合成技術やそれに見合う予算があったなら、これ程のオリジナリティを生み出す事はなかったのではないだろうか。
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森永スパークガムの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【森永スパークガムの思い出】
<森永スパークガム> 昭和37年頃発売されたコ-ラ味のガム。中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりのハイハイ三人娘がCMに出ていて若者向けの商品だったが短命で消えた。当時はまだコーラの味覚が日本人にとってそれほどポピュラーではなかったために評価が低かったように思える“登場のタイミングを間違ったチューインガム”
私の記憶では、コカコーラが全国的にTVCM登場した頃と同じ時代の商品ではないかと思う。(但し筆者は少年時代を地方の僻地で暮らしていたため流通には多少のズレが有り得る)とにかく、まだコカコーラがそれ程認知されていない頃だったので、私は初めてこのガムを食べた時「変な味のガムやなあ…」と思った事を覚えている。しかし、決して美味しいとは思わないけれど何故か妙に印象に残るエキゾチックな味だった。しかし二度と買った記憶がないところを見ると、やっぱり美味しくなかったのだろう。同じ頃に初めて飲んだコカコーラも最初は「なんだ、こりゃ!?」と感じたのに、その後すっかり慣れ親しんだ経過を考えると森永スパークガムは“早過ぎた商品”だったのかも知れない。
▲CMキャラクターのハイハイ三人娘
「S&Bモナカカレー」「松永とのさまラーメン」「日清カップライス」などなど、歴史の影に埋もれてしまった名品は数々あるけれど、私はこの「森永スパークガム」のフロンティア精神を讃えたい。当時はチュウインガムといえば「ハリス」と「ロッテ」の独壇場だったように思う。しばらく後になって、不二家が『ポパイガム』(なんと!うたい文句は“ホーレン草入り”ガム)カネボウがハリスを買収して宇宙エースのキャラクターを使った風船ガムで市場参入して来たが、まだまだ当時はチュウインガムに手を出すのは無謀だった。しかし森永だけは『チュウレット』という“食べられるガム”(色とりどりの美味しいお菓子だった)でそこそこの人気を得ていたので敢えてチャレンジしたのだろうと思われる。最強の二大メーカーを相手にする訳だから当たり前の商品では駄目だという訳でインパクトを狙ったのだろうが・・・結果は惨敗。
その後カネボウに吸収された「ハリス」の名は姿を消して、結局お菓子業界ではしばらくの間“ガムの「ロッテ」、チョコレートの「明治」、キャラメルの「森永」”の勢力構図が出来上がる事になる。
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<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。
【追記:2012年8月】 本文途中に登場した「日清カップライス」はコラムが書かれた頃は完全に“忘れ去られた商品”だったが、その後レトブームで脚光を浴びて復活認知された商品のひとつとして現在では立派にコンビニに並んでいます。
椿三十郎の思い出 [タイムスリップ忘備録]
【椿三十郎の思い出】
<椿三十郎> 昭和38年に東宝で公開された三船敏郎主演、黒沢明監督作品。大ヒット「用心棒」の続編とも言える時代劇で、ラストの居合対決シーンで血しぶきの飛ぶ仕掛けは、その後の時代劇映画に大きな影響を与えた。映画「羅生門」や「七人の侍」で不動となった黒沢・三船のコンビはその後も「天国と地獄」など数々の名作を生み続けたが、当時小学生だった私にはこの「椿三十郎」が理屈抜きに楽しめる映画だった。
前作の「用心棒」で主人公の三船が出まかせに名乗った「桑畑三十郎」という名が、そのまま「椿三十郎」というタイトルとなって(椿の花が映画の中で重要な役割を果たすためでもあるが)髭ヅラで汚れ袴の素浪人キャラクターで登場する映画なのだが、これが実にカッコ良く、肩を揺さぶって歩く後ろ姿を私は真似たものだった。この薄汚い浪人剣豪のスタイルというのは三船の看板のようになって、その後の映画「座頭市と用心棒」やTV番組「荒野の素浪人」などで何度もお目にかかる事になる。
そんな娯楽作品とも言える「椿三十郎」ではあるが、さすがは黒沢作品で、この映画の中で行なわれた実験は後の映画界にいくつかの影響を残している。
ラストで仲代達也との決闘シーンで飛び散る血しぶきに、当時は誰もが驚かされたものだが、この頃はアメリカ映画でもそんなエフェクト技術はなかった筈だ。(当時のアメリカでは流血などの残虐シーンは御法度だった事もありますが)殺陣も「逆手斬り・弧刀影裡(ことえり)流」という特殊なスタイルで、このシーンを見るために映画館に居座って何度も見るという人もいたくらい、前代未聞の決闘シーンだった。
そしてこの映画が後の時代劇に大きな影響を与えたもうひとつの出来事は、殺陣のシーンで人を斬る度に響く「バシッ!」「ブシュッ!」という効果音。いつの間にか殺陣の音は当たり前になってしまったが、実はこの「椿三十郎」以前には殺陣の音というものは無かった。無声映画がトーキーになった事は画期的な事として記録されているが、殺陣に音が入った事は誰も気にも留めていない。しかし、これこそ黒澤監督ならではの画期的発明のひとつだと私は思っている。その後は剣の交わる音とか血しぶきの飛び散る音とかが、やたらと音響によって作られる事となるが、当時の黒沢監督はその音を創造するために、野菜を斬ったり薪を斬ったりして苦心惨憺したらしい。結局、牛肉の吊るしを真剣で斬る事によってよりリアルな音を作り出す事になるのだが、改めて聞いてみると現在の派手な効果音とは違って「バスッ!」というような意外と鈍い音がしている。確かにその方がリアルかも知れない。何しろ本当に肉を斬っているのだから。
その後テレビの時代劇では「三匹の侍」で初めて殺陣に音を入れる事になるのだが、この頃から時代劇の殺陣の音はオーバーなものになってゆく。
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<ご注意>
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仁丹ガム・コルトケースの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【仁丹ガム・コルトケースの思い出】
<仁丹ガム・コルトケース> 昭和35年頃に販売されていた仁丹『野球ガム』の別売ケース。テレビ映画「怪傑ハリマオ」のスポンサーであった森下仁丹は、折しも日本中のガン・ブームに乗って拳銃型のガムケースを販売した。
森下仁丹の大ヒット商品、プロ野球選手名鑑カードがオマケの野球ガムを覚えている人は多いと思うけれど、別売で販売されていたコルトケースを覚えている人はどれくらい居るだろうか? アメリカ映画の西部劇が流行して日本中がウェスタン・ブームとなり、日本の人気映画もそれまでの東映時代劇から、小林旭の『渡り鳥シリーズ』に代表される無国籍映画と呼ばれる日活アクション映画に移行していった。 拳銃と言えば、当時は「コルト45」が流行していて、銀玉の飛び出す子供の玩具も殆どがコルト45だったように覚えている。(勿論、全盛期には様々なガンが流行して、ドイツ製のルガーやモーゼルそしてジェームズ・ボンド愛用のワルサーPなんかも人気がありましたが)そしてその頃に登場したのが仁丹野球ガム専用のコルトケースだった。
今尚、語り継がれる伝説のヒット商品・野球ガムは私も懸命に選手カードを集めていた覚えがあるが(最近のオークションではオマケに付いていた選手カードが高値で売買されているらしい)それと対になって記憶に残っているのが幻のガムケースだ。ケースに収納されたガムは引き金を引くとローラーでスルスルと銃口から出てくる仕組みになっていた。ケースの色は、白だったか水色だったかでプラスチック製のものだったと記憶している。大人が拳銃型のライターで火をつけて楽しんでいたように、私たち子供はコルトから出てくるガムを噛んで喜んでいたものだ。ガムの入った拳銃を持っている自分をテレビのヒーロー怪傑ハリマオとシンクロさせていたと考えると、なかなか森下仁丹も商売上手だったなあ~と感心してしまう。(ちなみに「ナショナル・キッド」のスポンサーだった松下電器は、ナショナル・キッドの光線銃とそっくりのライトのつく“拳銃型懐中電灯”を売っていました。これも覚えている人は少ないでしょうね)
今では殆どウケなくなった玩具の鉄砲だが、まだまだローテクでアイテムに乏しかった子供時代にガン・ブームを迎えた私の廻りには、拳銃にまつわる様々な商品が氾濫していた時代でもあった。
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<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。
クチンスカヤの思い出 [タイムスリップ忘備録]
【クチンスカヤの思い出】
<ナタリア・クチンスカヤ> 1968年メキシコ・オリンピックに登場して、日本の若い男性に大人気だった旧ソ連の女子体操選手。次回のミュンヘン五輪出場にも大いに期待されたが、バセドー氏病にかかって二度と競技に姿を現わす事はなかった。
メキシコ五輪に登場した彼女は実に天使のようだった。当時中学生だった私は中間試験の準備勉強もせずに、彼女見たさに“ど~でもいいような”女子体操に連日チャンネルを合わせていたものだ。
当時の日本は高度成長期の真っ只中で海外旅行ブームも起こってはいたが、まだまだ来日する外国人タレントも少なくダニエル・ビダル、ナディア・コマネチ、アグネス・ラムといった金髪アイドルが日本中を席巻する以前の開国前でもあった。
この頃のオリンピック女子体操の華は何と言っても『東京五輪』以来の根強い人気を持つ旧チェコスロバキアの“ベラ・チャフラフスカ”だったが(多分日本人の多くは東京オリンピックのチャフラフスカを見て初めて“チェコスロバキア”という国を知ったと思う)どっちかと言うと彼女は、私たち少年にとっては熟女すぎてイマイチだった。(と、言っても当時26歳くらいだったかな?)それに引き替え19歳になったばかりのクチンスカヤは初々しくて、『平凡パンチ』や『ボーイズライフ』といった当時の若者雑誌のフォトグラビアの恰好の対象だった。
私は結構マセガキだったので、小学校の頃からシルヴィ・バルタンとかペギー・マーチとかのレコードを買っていて外タレ(注※外国人タレント)には慣れていた方だったが、それでもクチンスカヤの無垢な可愛さには相当ショックを受けたものだった。何しろ旧ソ連というイメージからは腕っぷしの強い男みたいな女性しか知らないもんだから、彼女のように華奢でピュアな感じは驚きだった。それに名前も、外人といえばルーシーとかエミリーとか欧米系の名前に慣らされていた私には“クチンスカヤ”という何となく気の抜けた音韻が、その可愛い風貌とは大きなギャップがあって妙にそそられた。
結局私は完全にナターシャ(“ナタリア”のロシア風愛称・・・そういえばトルストイの『戦争と平和』のヒロインもナターシャだったなあ・・・)にぞっこんイカレてしまって、ソ連大使館にまで資料を貰いに行ったり、『今日のソ連邦』なんていう雑誌を購入したり、すっかり“ロシアびいき”になってしまい、ついには何と!4年後のミュンヘン五輪の会場で本物の彼女に会って握手をしようと、ヨーロッパに行く決心をしてしまったのでした。
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