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[覚書]我思う故に我在り/2021年 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2021年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。


今年はそろそろ終活を意識しようかと思っている。終活と云っても何も特別な準備や行動をする訳ではなく、そろそろ物事の限界を見極めながら人生の終着の在り方を実感してみるのである。
私が終活を考え始めるに至った理由はいくつかあるのだが、そのひとつに「堂々巡り」というのがある。
これまで様々な事態にも遭遇して、考え悩みながらもそれなりに答えや結論を出して生きてきた訳で、この先新しい局面に出会ってもこれまでの応用で考え対処する事は出来るものだ。そう考えると物事に対する答えは既に出ていて、その結果は常に変わらないものだと痛感してしまう。答えが出てしまっているのに再び答えを求めて道を歩むことはない。必要以上にものを考える蛇足な行為は往々にして正しかった答えを間違ったものに変えてしまうものだ。同じところを何度も巡って同じところに到達するのは、残された時間の少なくなった私には意味の無い事だと認識した。
何かに縛られながら自身を高める必要は感じなくなった。これからの私に求められるものは “私を越えた次の世界”に向かう勇気なのかも知れない。
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終わりの向こう側に顔を向ける事が私の「終活」なのである。
<令和3年1月・記>
このところ絵を描くことから心が離れていた。全く違う世界で仕事をしていた事もあって、日常の忙しさにかまけて絵を描くという意味を忘れていたようだ。
考えてみれば私の人生の原点は「絵を描くこと」にあったわけで、それから完全に離れてしまっては自身を逸脱したと云っても間違いではないだろう。気持ちを戒める。
私くらいの年齢になると絵を描くことは自分の人生の総括的表現になるようだ。これまでの人生、それぞれの時代時代に応じて当然考え方も変化して絵を描くテーマやそこに現われる生き様のようなものも移り変わって来た。私などは同じひとりの人間とは思えぬほどの変幻自在な生き方を環境も含めて移り変わって来たものだが…ここにきてついに終焉を感じ始めたように思える。
改めて絵を描く気持ちに立ち返って、果たして私はどのような生き様をしてゆくのだろうか…。
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最近、岡本太郎の作品と生き方を再認識した。かつては多少の偏見もあってそれほど評価をしていなかったのだが、改めて彼の偉大さに気づかされた。もっと若い頃に気づいていれば私の絵に対する姿勢も変わっていたかも知れないと思った。それほど脳髄に届く程のショックでもあったが、遅ればせながら気づけて良かったとも思った。
作家も芸術家も生きた時代によって表われ方は異なり甲乙はつけがたいものだが、受け取る者の心の琴線に触れるものが素直に良いものなのだろう。そんな気がする。しかし私は評論家ではない。どんな絵や作品が良いものなのか語る必要もなく、ただ終活の行為として素直に絵を描ければ、それが本来の最良の一枚なのだ。
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<令和3年2月・記>


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[覚書]我思う故に我在り/2020年 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2020年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。


病院で年を越すというなかなか貴重な経験をした。
街がクリスマスムード溢れる時期に入院、イブに手術という素敵な贈り物でそのまま年の瀬を迎えた…なんて言うと楽勝ムードの入院生活の様に聞こえるけれど、実は術後の一日目はきつかったのです。
全身麻酔の手術は二度目だし、以前は難病指定されていた頚椎手術だったので、それと比べれば軽いもんだと甘く見ていたのだが思ったよりはハードだった。痛みはほとんど無かったのだが術後の集中治療室での一日が体中にパイプを繋げられて苦痛だった。
摘出した前立腺を詳細に調べた結果、当初よりも進行していた事が分かった。レベル2になっていたらしく(レベル4は末期症状)ガン細胞は切り取った前立腺の端っこの方にあったらしいので100%取り除いたとは断言できないという事だった。(医者のコメントには絶対大丈夫というものは無いですから)今後も月一回のPSA検査で様子を見てゆくらしく、完全に癌の心配とはオサラバという訳にはいかなかった。
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しかし何はともあれ前立腺の問題が一段落して新年を迎え、めでたしめでたしという事で今年一年の抱負でも考えましょうか。
<令和2年1月・記>

私が海外に出て、知人も友人もなくたった一人で枯れ葉の様に漂う旅をしていたのは、その時代の空気のせいだったのだろう。
思えば '60年代は学生だった私にとって、政治や社会問題を突き付けられて逃げ場のない時代だった。そして文化面ではいわゆる前衛芸術がパワーを持って社会にテーゼを投げ掛ける時代でもあった。そんな時代の嵐が過ぎ去ろうとしていた頃 '70年代初めに日本を飛び出して何かを求めて海外に向かってから、もう半世紀が経とうとしている。
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ビートルズがいた、ボブ・デュランがいた。ベルリンの壁は幾多の悲劇を生み、ソルボンヌ大学で始まった学生運動は瞬く間に世界中に拡がった。ポップアートやサイケディリックアートが席捲し、プロテスタント・ソングやプロテスタント・アートで世の中に抵抗し物申す事が若者の特権でもあった。今はそんな空気もそんな若者もお目にかかる事は少なくなった。どこかには居るのだろうがマイナーな存在として埋没しているのだろう。
こんなに激しく動く時代の中で揉まれながら青春を過ごした私たちには、今の時代がもうひとつ掴み切れず納得しがたいものがある。かつては世の中に対しての距離感というか、理想と現実がぶつかり合い混沌とした中での“今を生きる気持ち”の切実さがストレートに感じられた。今時こんな事を言っていても始まらないだろうが、何かの拍子に口をついて出てきてしまう事がある。同世代を生きてきた者すべてが同じだとは言えないが、あの時代の中で何かに歯向かってがむしゃらに叫んできた暁に、時代の変化に付き合えず調子はずれの不器用な生き方を続けるしかなかった者どもが…この社会の片隅にまだ棲息しているという事を信じていたいからなのだろう。
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思えばあの時代に海外に飛び出した若者たちは、どこかアナーキーな雰囲気を携えていた。当時の海外で無銭旅行、ヒッチハイクと云えば月並みな社会からドロップアウトした若者のひとつのスタイルでもあり、時代劇で云うところの“旅から旅への股旅暮らし”というヤツだ。ヤクザな気質たっぷりで野放図な輩も多かったような気がする。後に流行った「傷だらけの天使」でショーケンが演じていたキャラクターを彷彿とさせる、そんな今の時代には見られない若者像が巷に溢れていた。
歴史が連続性で成り立っているのなら、今の時代も激動の過去の積み重ねなのだろう。そう考えてこの世の中を眺めてみると少しばかり罪悪感めいた心苦しい気分になる。
あんなに怒涛の時代を生きて来た筈の、歪んだ社会に抵抗をして生きて来た筈の私たちの多くが世の中に迎合してゆく姿には恥ずかしいものがある。そしてそれ以上に恥ずかしいのは世の中の抱える問題に対して無関心だった者たちが、いい大人になってからそれなりの肩書を背負って立派に社会問題を評論している事だろう。世の中はいつの時代も“既成概念という古ぼけた偽り”に騙されながらそれと葛藤している。
激動の時代に闘って来た情熱も“一期一会 夢幻の如くなり”
<令和2年2月・記>

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[覚書]我思う故に我在り/2019 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2019年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。


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【↑ '70年・大阪万博会場マップ】
6年後の2025年、EXPO'25 が大阪で開催される。'70年の大阪万博から55年ぶりとなる国際イベントは果たしてどんな未来像を描いてくれるのだろう。
EXPO'70 では「人類の進歩と調和」がサブタイトルとされて、そのテーマに沿った数々のパビリオンが展開されていた。会場のシンボルとなる岡本太郎の「太陽の塔」もそのテーマに対する問題提議的なアートとして強烈な存在をアピールしていた。もちろんパソコンも無ければ携帯電話も無い時代で、コンピューターと言えば冷蔵庫よりも大きくてパンチ穴の空いたテープが回る仕掛けのもの、モバイルでは自動車電話が一部のVIPや富裕層に普及していたのみで、肩からかけるトランシーバーより大きなモノが未来の携帯電話として紹介されていたのを覚えている。
当時は世界がベトナム戦争や米ソ冷戦の最中で厭戦気分が覆っていた時代でもあり、人類は生活向上と世界平和を望んでいたが21世紀の今日は核エネルギーの環境問題やヘイト差別が争いの種となっている。果たしてこれからの世界をリードしてゆく先進国の取り組むべき課題とはどの様なものなのだろうか?
70年代には「人類の進歩と調和」だった万博のメインテーマが2025年では「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに題して掲げるらしい。この変化と移り変わりには興味深いものがある。21世紀型コンセプトは抽象的で曖昧な形をしているというところに今世紀の世界の混沌とした状況が伺える。ホスト国である我が国がはっきりとした建設的なテーマを打ち出せないところが今の時代の世界の状況を表わしている気がする。20世紀にアメリカと共に高度成長して、それまでの19世紀イギリス・フランス・欧州勢に代わって世界に存在を示してきた日本の国威も、今21世紀には一旦落ち着きを見せる様になった。人類史上にも前例の無い程の「超高齢化社会」を迎えようとしている我が国こそ、明治から平成の今日まで追従してきた欧米型資本主義社会の優等生モデルから転換して、未来の情勢にフィットする価値観の発想が求められているのかも知れない。我が国が貢献できることと言えば、実は文化的な側面が大きいのではないだろうか?高齢化社会の指針を提示するには日本がふさわしい国なのではないだろうか。今世紀の覇者を中国が狙っているがそんな事は尻目に、これまでの成長路線を新しい成熟路線に変更する機会なのかも知れない。
平成も終わって新元号に切り替わる年・2019年が始まった。
<平成31年1月>

ネガティブ・ケイパビリティ。それは現代版「逆転の発想」。

これまで久しく、否定的な思考や発言はマイナス思考として煙たがられてきた様に思う。
どんな時も明るく楽しそうに肯定的な見解で語る事が正しいとされて来た。

しかし本当にいつもそうだろうか?
一個人の性格にしても伸び伸びと成長し続ける事だけが正解だろうか?
民主主義と多数決の原則は整合性があるだろうか?(私たちはとんでもない誤解を教え込まれて来たのでは無いだろうか?)ものの考え方や個人の行動には“同調”なんて本当は必要ないに違いない。本来は足並みなんて揃える必要はない筈なんだが、団体行動を主軸とする組織ではやはりそれが規範となる。
異端だとか異色だとかいう呼び方は形容として仕方ないかも知れないが実に失礼な言い方の様に思える。「みんな違って、みんな良い」というフレーズもあってダイバーシティという考え方も啓発されている割には、綺麗ごとだけで実際には少しの承認も実践もされていない。みんなが一斉に声を上げるものは常に変色して本道からずれてゆくもので、だからこその“みんな違って、みんな良い”なんですけれどネ。

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視点を変える事で様々な問題が解決される事が多い。世の中には沢山の難解な問題が蓄積されている様に思われているが、それは人々が本気で解決するための行動を起こしていないからなのだ。本当は殆どの問題は解決可能なのだが…。
問題解決の切り口のひとつのヒントとして“ネガティブ・ケイパビリティの視点転換”を推奨します。
<平成31年3月>

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[覚書]我思う故に我在り/2018 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2018年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

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往く川の流れは絶えずして かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし
徒然なるままにカメラに向かいて そこはかとなく何をか写し出さんとや
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郷愁の中に見る風景は 夢か現(うつつ) か幻か…
輪郭のぼやけた世の中は もはや混然の墨絵の様だ
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「現在」は「過去」の延長線上に在る。今では見ることも無くなった風景の中に、生き続ける何かを発見することがある。
<平成30年1月>

往く川の流れは絶えずして かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし
徒然なるままにカメラに向かいて そこはかとなく何をか写し出さんとや
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古いガラクタ入れの箱から未整理の褪せた写真が出て来た。50年近くも昔の執り止めのないものばかりだったが、その殆どがハーフサイズの写真で、そこには個人的な自分史として焼きついている時代の空気が流れていた。
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 ▲後楽園遊園地/昭和43年頃
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 ▲羽田空港/昭和43年頃
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 ▲NHK放送センター/昭和43年頃
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 ▲ 横浜港桟橋/昭和46年頃
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その昔、私が小学生の頃ハーフサイズのカメラが流行した。当時カメラは高級な嗜好品で写真が趣味という人も今ほど多くはなかった。一般的には撮影したフィルムを現像所(D.T.P.)に渡してプリントしてもらうのだが、そこそこのコストが掛かるものなので無駄な撮影はしないように心掛けていたものだった。(自宅で現像・紙焼きする暗室を持つ様な趣味の人は少なかった)
そこで登場したのが件のハーフサイズ・カメラという訳だ。フィルム半分のスペースに被写体が収まる仕組みなので撮影できる枚数は二倍になり、フィルム代や現像料は約半額にカットされて経済的。一眼レフカメラが20万円もした時代だったから、ハーフサイズでコンパクトなカメラは庶民に受け入れられて大ヒットした。

 

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▲ 一世を風靡した「リコー・オートハーフ」
<平成30年3月>


 

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[覚書]我思う故に我在り/2017 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2017年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

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2020年から小中学校で導入されると言われているプログラミング教育。
21世紀の子ども達の必須項目として注目されています。
私も少しばかりかじってみようと文部科学省が運営する『プログラミン』サイトに登録しています。

このサイトは文部科学省が広く一般に啓蒙するための体験用ウェブアプリケーションで、自分のパソコンからアクセスしてお絵描きやゲームをしながらプログラミングの基本が学べ実感する事が出来ます。

 

とりあえず無理せずに出来る範囲での習作をアップしておいて、もう少し慣れてくれば音などを入れたものを後日更新のテストも兼ねてやってみようと思います。

昨年に大きな転換期のようなものがあり、年が明けた現在でもまだ空白状態が続いている感じで、年が明けてもしばらくブログの更新もしていませんでした。
ブログ以外にもあまり積極的な行動をしていなかったのは、当面の日課が病院通いで忙しかったせいもあります。

2月中旬に手術が決定して、そのための準備検査が続いています。年が明けてからすでに2回、脳MRIと眼底検査を行いました。
今回のロボット手術という選択は総合的には一番リスクの少ない方法だという事で決めたのですが、唯一の問題点としては、身体を逆さにして施術するためにそれに耐えられる肉体的機能を検査されるというわけです。
次回の検査では前立腺MRIということで造影剤を注入して癌の進行具合を調べるそうです。現在得られている画像データが半年ほど前のものなので、手術直前の状態を見ておくためなのでしょうね。

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これまでの掛かり付け病院の紹介を受けて、近くでロボット手術の出来る病院として大学の附属病院を選んだのですが、初めて受診する病院なのでなかなか勝手が分からず院内では苦労しています。
IT管理された現代的なシステムなのですが、窓口には勝手が分からず戸惑っている高齢者が結構いるように見受けられます。

<平成29年1月>


 新聞雑誌、テレビやネットなど多くの情報に接するたびにふと頭をよぎる事がある。

「私たちはこれらの過多な情報にまつわる論評をどこまでまともな気持ちで聞いているのだろうか?」
真に受けて信じ込んでいるとしたらそれは危険な事でもあり、反面また単に聞き流して真に受けていないのならその風評は何といい加減に世間に垂れ流されてゆくものなのだろう。

時代が今のような様相になってからは、言葉の真意が曖昧で取りとめのないものに変色してしまったような気がする。
改めて自分の幼かった頃に周囲の年配の人たちが話していた内容を、とりわけ父親との話を思い出してみると何か本質的な部分で違いを感じずにはいられない。

私の父親は明治44年生まれだったので、最後の一年間の明治時代を含めて大正、昭和、平成と四つの時代を生きたことになる。
その父は34歳の頃に召集令状が来て戦地に赴いたという事だったが、この年齢では高齢の部類で身体検査も下のランクだったので、まさか軍隊に召集されるとは思っていなかったらしく、昭和19年で戦争も末期の頃だったから周りの知人たちからは「お前が兵隊になるようでは日本の軍隊も終わりだな」などと冷やかされたらしい。

戦前の日本で現代と違いを感じるのは、社会がまだ整備されていなかったせいもあるが、アウトロー的な知識層が多かったという部分だ。一匹狼とか無頼とかいう言葉が生きていてそれを自負する作家や芸術家も多かった。
学校制度も戦後のGHQ指導とは違っていたから、父の通っていた学校では能力に応じて自由に上級に上がれる合理的な学年編成のシステムを採用していたらしい。

「末は博士か大臣か」という言葉が流行った時代があって田舎出身の父も外交官を夢見て東京の大学に進んだのだが、帝都の文化的な刺激に魅了されていつしか文学や芸術の世界に足を踏み入れてしまったという多情で意志薄弱な親父でもあった。
昭和初期という時代は立身出世というビジョンで単純に社会的向上心を煽られる反面、呑気で刹那的な享楽を求める厭世感も浸透していたのは今の日本社会ともそれほど変わらないのかも知れない。

社会は未成熟でインフラもシステムもまだ未整備だったが、人々の気質は自立心の強い無頼の精神が見受けられた社会だったように思える。
最近よく言われる『空気を読む』といった慣れ合いの生活感覚などとは程遠く、意外と自分の領域を自覚して迷いのない生き方をしている市井の人々も多かったようだ。

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新聞やラジオでしか世間のニュースを得ることもなく、その情報量の少なさから戦前の日本人は文化的水準までもが遅れていたようにイメージされがちだが、確かに社会生活基盤といったインフラの部分では未開発部分が多かったものの、民族的な文化水準はある意味で今よりもオリジナリティが高かったようにも思える。
欧米の“リーガル・マインド”は浅かったかも知れないが、“法の基準”としての日本的な任侠や道徳の意識は幼児期から培ったものとして一般社会・日常生活のコンセンサスとして根付いていた。

そういった自覚あった筈の人々がいつの間にか戦争に取り込まれ邁進していったのは、やはり人間本来の「力」への憧れと一般世論から外れて独自に社会的に生きることの難しさというものなのだろう。
父から聞いた戦前の話を思い出し改めて振り返ったとき、今の時代の意識が“強い者の力に屈する軟弱な思考”で、生きる権利や万人平等といった綺麗ごとで受け売りの善人願望などはオセロの駒のように一気に裏返ってしまうような気がしてならない。
丁度戦前の市井の人たちが戦争を避けたいと思いながらもいつの間にか同調して受け入れるに至ったような社会的ムードに近いものが今日の私たちに迫っているような気もする。

戦前の日本人のものの考え方として私が憧れるのは「気骨ある精神」というヤツだ。情報量が少なかったことも事実だし、知識が洗練されていなかったことも事実だろう。しかしそんな事を自覚はしていても頓着はしない懸命な一途さがあったように思える。
現代ではあまり聞かれなくなった「無頼漢」「一匹狼」という呼称は、“長いからといって巻かれない、強いからといって屈しない”毅然とした生き様の象徴であり、戦前の社会では大衆から求められていた何かがあったのだろう。

単なるひねくれ者や暴力に媚びるやくざ者とは根本的に違う「無頼漢」は今の社会では認められにくいストイックな美学なのだろう。

<平成29年2月>



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先日、前立腺がん手術前の心臓検査と前立腺MRIを行なった。
最後のMRIが一年程前だったので、その後の状態を手術直前に確認する為だった。
そうしたところが…何と!PSA値20.39ng/mL で手術の準備をしていたものが、2.79ng/mL と摘出の必要のない程度で消滅に近いくらいに収縮していた。

担当医師曰く「もう手術の必要性ありませんね。と言うよりこの数値では手術が認められません」
検査の翌日にその結果と手術段取りの説明を受けるために妻と同行で病院に伺ったのだが、医師からの言葉を聞いて呆気に取られた。(妻は嬉しくて心の中で万歳を唱えていたらしいが)

前立腺写真.jpg

こんな事ってあるんですねぇ。
運がイイというのか何というか…今週末には全身麻酔で手術入院と覚悟を決めていたのですっかり拍子抜けしてしまいました。
「癌細胞って場合によっては消えてしまう事もあるんだ」世の中というものはとにかく自分で経験してみなければ分からない事ばかりです。特に大事な事は他人の話を鵜呑みにしない事ですね。

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考えてみると私はどうやら運の良い人間のようで、これまでも幾度となく奇跡的な幸運に救われたという経験があります。
例えば、鉄柱にあと1mもずれていたら即死だったような自動車事故や、喉が乾いてろれつが回らなくなり急いで病院に駆け込んだら血糖値が530でヘモグロビンA1Cが14.5というとんでもない数値で昏睡状態に陥る一歩手前などなど…。
今回も癌の宣告を受けてから手術が嫌で何だかんだとズルズル引き延ばしていた事が、私の場合は自然消滅につながったという訳で迅速な行動が必ずしも良い結果を導くとは限らない“世の名言 必ずしも的を得ず”という事ですね。

とりあえずこれで前立腺ガンとの闘いは一段落した訳で、改めて根本体質となっている高血糖の糖尿病に向き合うことにします。実はこちらの方が厄介なんですけどね。

<平成29年2月>


私が風景を描く時は、きまって落書きのような気分でスケッチブックを弄(もてあそ)ぶ時だ。

童心に帰って憧れの風景と向き合っている時間、それが魂の開放された時間の様に思える。
だから私の風景画はまったく個人的な感情移入と意味付けがされていて作品と言うものではないと思っている。

近頃では自分にとっての風景画が“原風景を探索する手段”のような気がしてきた。
幼い頃の風景の中にはノスタルジーに浸れる部分もあるけれど、それ以上に人生の謎を解く鍵が埋まっているようにも思える。

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二十代の頃に描いたスケッチを見つけたので、その場所に行ってみた。
周囲の風景はすっかり様変わりしていたが、スケッチした周辺だけは時間が止まっているかのように変わらぬ空気が流れていた。

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過去のスケッチを通して何となく若き日の絵描きの魂にタイムスリップした。

そこは心落ち着く空間だった。
そこには紛れもなく未来に希望を求める生命感あふれた若者がいた事を知った。
そして時が過ぎた今、そこに私が発見したものは再生という希望の姿だった。

少し辺りを散策してみたら、腰掛けるには丁度いい切り株を見つけた。
何だか昔に見たことのあるような懐かしさを醸し出している。
あの頃もこんな風にぼんやりと座って未来へのイメージを膨らましていたのかな…。

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ふとしたことから原風景を求めて、そして辿り着いた処は憩いの空間だった。
心機一転、再生をイメージさせる憩いのひと時はタイムスリップのその先にあった。

家に戻ってからさっそくスケッチブックを取り出して頭に浮かんだ切り株を素描してみた。
今日のこの一枚が新しいテーマと創作意欲を生み出す再生の一枚のような気がした。

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<平成29年2月>


 

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[覚書]我思う故に我在り/2016 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2016年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。



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今年は年頭に「運気について」の暗示的な初夢をみました。
そこで運気についての考察を私的な覚書きとして記述しておきます。


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[運気の考察]


  • 運不運というものは気の流れのようなもので、宇宙空間の法則の基に在り続ける現象である。
  • 幸運も不運もひと所に留まるものではない。常に変化し、河流の泡のように生まれては消える自然現象である。 
  • 幸運であり続ける事も不運であり続ける事もない。延々と続くように思うのは人間の錯覚で、誤まった解釈が苦痛の根源となる。森羅万象不変なものは存在せず、それは運気に関しても同じである。

 


[運気との付き合い方]


  • 運気とは引き寄せたり切り離したりと、人が操作出来るものではない。その流れにどの様に対処して行くかが人として精一杯出来る範囲である。
  • 運気は向こうからやって来るものである。運気を迎え入れる態勢の無いところにはやって来る余地がない。
  • 幸運を持ち続けない事。これが運気を迎え入れる賢者の法則である。
    (古い革袋の酒を飲み干さない限り、新しい葡萄酒は注がれない)
  • 運不運に一喜一憂することは仕方がないが、そこにいつまでも留まっていてはいけない。幸福だからといって、いつまでも抱えていてもいけない。「手放すこと」が運気の新陳代謝を促し健全な循環を為す。
    (しかしエセ託言者の薦める、何かに対して貢ぐ行為は間違いです)

<平成28年 正月・記>


 


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般若心経は“言葉に出来ない悟りの世界を言葉で表わしている”らしい。だから普通に言葉で理解しようとしても困難なものなのだろう。


ある種の絵画も同じである。
目に見えない世界を絵に表わそうとしているのだから、それを美の観点やリアリティの視点からでは捉えにくいものである筈だ。ましてや社会的評価は別世界のもので、評価を求めるのならその様な絵を描いていてはいけない。



およそ全ての行為は留まることのないものと心得ている。
絵を描くという行為もまた然り。
これで完成というものは無い。便宜上、一旦筆を置くだけで慢心することなど無いだろう。


どこまでも描き直しを続ける…これが絵を描く道というものだろう。
人生に完成がない様に、絵を描くという行為にも終わりはない。


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何度も手直しをしては視点を変えて同じテーマを描こうとする。
そんな不器用な生き方も、あったっていいじゃないか。
それが正道だなんて大見栄切って言うつもりはない。
どこかに置き忘れて来た生き方を…
誰もが忘れ去った生き方を…
まだ繰り返している奴がいたっていいんじゃないか?


<2016年2月・記>



 「楢山節考」…かつて遥か昔の我が国には、姨捨山(おばすてやま)と呼ばれ伝えられて来た因習がありました。


 一見残酷の様ですが是非を問うより前に、老人を家族の一員として待遇・対処する姿勢がそこには見受けられます。
 社会的インフラも整備されていない時代ですから当然福祉政策のお世話になるなんて事は考えもしませんが、それでも老人を身内の一人として看取る覚悟(スタンス)はしっかりしていたように受け取れます。


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 ▲中野正・画「散りゆく花」/油彩(30号)


 高齢者の位置付けは国によって様々ですが、諸外国の多くは社会からリタイアした存在であるところが多いです。
 戦時中の国や、貧困に喘ぐ国家などでは兵士や労働力として駆り出されるところもありますが、政策の見地からは国勢に貢献するものとして組み入れないのが一般的なようです。
 しかし世界でも稀な高齢社会の日本では、まだまだ老人の力を必要としているため(特にその財力を…)やたらと社会貢献や社会進出に期待をかけようとしています。
 国家や地域に貢献する生き方はそれはそれで構わないのですが、その大義名目に便乗して都合よく人心をコントロールする巨悪に騙されない様にしたいと思うわけです。
 特に現代の若者たちにとっては未経験ゆえに想像することが難しい歴史の事実ですが、昭和初期に日本全国が不況の嵐に巻き込まれた時、新天地をめざして満州開拓を推奨されて出て行った農家の人たち。彼らは皆普通の善良な人々でしたが、時の権力に利用されて知らず知らずの内に“侵略と呼ばれる政策”に加担する事になって行った…例えばそんな事実がある訳です。


 社会にとって役に立つ存在であることは、恩恵も受ける代わりに貢献も求められます。
 役に立たない存在で生きてゆくことは社会の生み出す成果を蝕む存在として何の権利も与えられません。(そもそも人権も国民主権も権力によって与えられるもので自然発生するものではありませんが)


 社会に役立たなくては生きている権利がないとは、なんとこの世は棲みにくいものでしょう。
 一体この社会とは誰にとって何のための組織体なのか考えたことがあるでしょうか?よしんば、社会組織は私たちの暮らしに必要なものであるとして、それが望み通りに運営されているのでしょうか?
 ジョージ・オーウェルの寓話「アニマルファーム」の様に、まるで誰かに牛耳られるが如くに都合よく生かされているのかも知れない…なんて想像したりはしませんか?



 私は決してペシミスト・厭世主義というわけではありませんが、人間社会の集団的な性癖には閉口する事が多いです。
 高齢者が巨大な集団を形成する日本の未来社会では、高齢者の・高齢者による・高齢者のための不自由な世界が展開される事だろうと今の内から、社会との付き合い方を考えさせられてしまいます。
 人間は環境や教育によって形成されてゆく生きものなので、この国の民族文化的風土や戦後学校教育によって育った団塊老人がシェアを占める“社会の性格”をしっかりと把握して居たいと考えます。


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 ▲中野正・画「老人は何処へ」/油彩(50号)


<2016年3月・記>



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※平成22年・春、血糖値が異常に上がった私は糖尿病患者として2度目の入院を強いられた。
事の始まりは、3年ほど前の頚椎手術にさかのぼる。


 


頚椎後縦靱帯骨化症という難病指定の手術を受けた後、自宅でゆっくり療養している間に私の血糖値は上がっていったようだ。 
頚椎手術の為に削ぎ落とした首の筋肉を取り戻そうと肉食を積極的に取っていたのは間違いだったようだ。もともとメタボの傾向があった上に、運動もせずに寝ては食っての日々だったので血糖値は日増しに上がっていったのだろう。


 


それまで40代の頃の生活は、連日朝まで飲み明かしたり暴飲暴食の毎日だったが比較的タフだったのか全く体に支障はなく糖尿病などは考えたこともなかった。


 



 


糖尿病と診断されてから8年ほどが過ぎようとしている。
初めはピンとこなかったが、時間が経つにつれて「厄介なものになったなぁ」という気がしてきた。
何が厄介なのかと言えば、いつも自分が糖尿を抱えているという事を意識していなければならないからだ。
無頓着に横着に生活するわけにはいかない。普段は自覚症状の少ない病気だから、食事制限もついつい忘れてしまう。(カロリー計算をきちんとして血糖値の適正数値を心配している人も多くいるが、私は自分の感覚で独自の考えで調整しているので、他人にお勧めは出来ませんが…)
本当はそんな事にとらわれず気にせず生活していたいのだが、そんな態度は症状を悪化させる原因なので厳禁なのだ。


 


そうこうしている内に今度は「前立腺ガン」が発見された。
これまでの経験から、「病気を克服するには、その病を見据える・受け入れる・付き合う」というのが私の考え方でもあるので、糖尿病、前立腺癌の生活を綴ってゆくことは認識を新たにする克服の一環と捉えて綴り始める事にした。


 


 -----------------------------------------------------------------------------------------


血糖値の異常な上がりように2度目の入院・集中治療を強いられた時には、背負ってしまった症状の重さと逃れられない覚悟を本当に自覚させられた。


それから6年近くが過ぎた現在、糖尿病はどの様な状態で治まっているのかと言うと、相変わらず一進一退を続けている。
指先が痺れた様な感覚が1年ほど前から始まった。時折りそんな感じはあっても常にというわけでは無かったのが慢性的になってきたので、さらに進行したのかな…などと思ったりする。


糖尿に関しては「とにかく合併症を引き起こさない様に注意する事」としている。全快しようなんて思わない何事も完璧をめざさないような生き方を悟らされた。
勿論さじを投げているというのとは意味が違うが、逃げない姿勢という感じで背負うしかない。
例えば味気ない食事療法を実践しようというのなら、その食事が大好物になるように意識を変える、それが私流の対処法だ。


…とか何とか言っている内に、今度はなんと前立腺ガンの宣告を受けてしまった。
「オレの体は病気のデパートか?」なんて冗談を言えている内は良いのだが、前立腺肥大で苦しんでいる上に経済的にも高額なホルモン注射を続ける生活が始まると思うと…
まるでキリストが十字架の上で神に問うた心境だ。「主よ、貴方はまだ私に試練を与えようとされるのか?!」
善循環・悪循環という言葉があるが、悪い時には悪い事がかさなるものだ。
まあ、艱難汝を玉にするという言葉もあるので、これはこれで何かの役には立つのだろうと気持ちを切り替えるしかないのである。


そういった訳で、様々な課題を与えられるのは「生き抜くことのトレーニング」なのだと思う事にした。ひとつクリアすれば、ひとつアイテムをゲットして確実に強くなる…そんなものなのだ。


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<2016年3月・記>



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A4サイズで仕上げる「いちまい絵本」は自分の世界をコンパクトにまとめた一種のコンセプトアートのようにも思えます。


バラバラに描いた自分の世界をまとめる事によって、そこに何らかのテーマ性が在ることを発見します。
そして時には俯瞰する事で、“別の視点”からこれまでの自分を見ることに気づいたりもします。


バラバラな場面を手づくりで編集してゆく絵本制作は自分自身に問いかける「ひとりワークショップ」のようです。


☆ 


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すでに描き上げたバラバラなカットの編集で作り上げる方法のほかにも別の方法があります。


例えば、Q&A形式で「私のやり残しているものは?」「私の恐れているものは?」といった感じの自問自答を重ねて、自分の内面を綴る“ワークシート”のつもりで描き上げれば、自分を取り巻く世界の探究にもなっていて面白い発見があったりもします。



まだまだ技術的にも未熟で偉そうなことは語れませんが、ブラッシュアップして価値あるコンテンツのひとつにしてゆきたいと考えています。



<2016年6月・記>



'72年・初夏。私は迷いながらヒッチハイクを続けていた。
「アルバイト先を見つけてこの先もヨーロッパでの放浪生活を続けるのか?」それとも「当初の目的は果たせなかったが、見切りをつけて帰国して日本のデザイン学校に入って勉強をするのか?」
そういった自問自答を続けながら、スイスからドイツを経て北欧に向かってのヒッチハイクの日々だった。


北アフリカ・アラブ諸国でのヒッチハイクやスペインやオランダでのドラッグ体験という、シッチャカメッチャカ体験はして来たものの、まだ日本を出てから一年余りの新参者だった私はまだまだ海外生活の経験も乏しく、とてもこんな中途半端な状態で帰国する気にもなれなかった。
デンマークやノルウェーなど北欧のユースホステルに働き口の打診をしながら(当時はメールなど無かったから郵送で、返信は先に滞在予定のユースホステル宛てにしていた)、パンと牛乳の食事でお金を切り詰めながら文字通りの貧乏旅行で、豊かな気分で観光など出来る余裕はなかった。


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 ▲スイス・チューリッヒの風景 (絵葉書より) 


そんな時に起こったのが『テルアビブ事件』だった。
日本赤軍の一人、岡本公三によるイスラエル・テルアビブ空港での無差別乱射事件。日本人が外国で起こした最大級のテロ事件としてその反響は海外に暮らす同胞にとっては大変なものだった。
背中にリュックを担いで薄汚いジーンズに無精ヒゲの様相で放浪している私などは最も怪しまれる対象で、これまでヒッチハイク中に一度も無かった国境での厳しいチェックを初めて受けるようなこともあった。
この2ヵ月ほど前はアラブ諸国をヒッチしていてパスポートには入国ビザの印があったから余計に疑われたのかも知れない。リュックの中の下着から胃腸薬の類いまで全部放り出して調べられた。
(※余談だが医薬品に関して、後に北欧に暮らしていた時に風邪薬を他の荷物と一緒に梱包して日本から送ってもらった際、税関の許可証が添付されていなかったために薬物違法持ち込みに引っかかって全部捨てさせられた事があった)


以前に真夜中のヒッチハイクで、ワーゲンのボックス車にイタリア、フランス、アメリカのハイカー達が乗り込んで国境を越えたことがあった。国境の警備員が自動小銃を構える中を国際色豊かな面々が通過する様はまるでスパイ大作戦のドラマのようなスリルがあったが(別に何も悪い事をしていないのだけど…)今回は実際に起きた乱射テロ事件の後だったので緊張感は全く違っていた。


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 ▲ドイツ・ケルンの風景 (絵葉書より) 


この頃、日本では「よど号ハイジャック事件」に次ぎ「あさま山荘事件」など日本赤軍による破壊活動が頻繁に起こり、国家公安はかつての東大紛争や70年安保などに関わった学生運動家リストをもとに不審者をしらみつぶしに探していた。
そんな状況の中で、高校を退学して海外を放浪している私などは当時としては珍しい部類らしく、どうやら何らかの形でマークされていたらしい。


後日、親から聞いた話によると、突然に警視庁公安から二人の刑事がやってきて色々と聴収して行ったらしい。
「息子さんは今どこにいるのですか?」「政治的な信条は?何か活動をしていませんか?」「海外では何をしているのですか?」といった事を細かく聞かれて、身がすくむ思いだったと言っていた。
それは確かにそうでしょうね。子どもが海外に居て、今何処で何をしているのかもさっぱり分からないのに、テロ事件の参考人であるかのようにわざわざ警視庁からやって来て質問攻めをするのですから、たまったもんじゃありません(笑)
私はこの頃から自分の個人データは完全に国家に掌握されていると自覚しました。40年以上も前の話しです。



 


さて、本当なら海外で働きながらデザイン学校に通学して、今風に言うならグローバルなキャリアを磨いて凱旋帰国する筈が…いつの間にか日々の飯にも困る放浪のボヘミアンになってしまった。
でも正直言って心の奥底では、こんな生き方をしてみる事に少しの好奇心のあったことも確かだった。
国を発つ時に友人たちから「大学進学も棒に振って何でわざわざそんな苦境に向かうのか?」と嘲笑まじりの言葉を受けたものだったが、還暦も過ぎた今確信できることは“これが私の生き方だったのだ”ということだろうか。
何はともあれ、私の1972年は異国で職を求めてひたすら北に向かう青春の日々だった。


<2016年7月・記>



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[木洩れ日の旅人(習作)]


美しい風景は人に勇気や希望を与えてくれる。不安におののき恐れに震えていても、美しい風景に出会ったとき人はこの世界が共に生きていることに感謝する。
そんな風景に出会いたくて、人はさすらい続けるのかも知れない。



もう30年以上も前のスケッチだが、こんなイメージを描いていた。この頃はかなり落ちこぼれた貧困生活をしながらも、印象派の画家たちの魂に触れながら青春を謳歌していたように覚えている。
そんな私の心象風景は「陽だまり」や「木洩れ日」といった形で表わされていたようだ。


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[木洩れ日の道/1978]


 


<2016年8月・記>



気になった発見があったのでメモすることにした。


オランダのデザイナーによる『老人ホームのドア』のデザイン。
画一的で殺風景な施設のドアを個性を尊重した思いのあるデザインに変えた実例。
ここには認知症老人の個性を尊重する重要なヒントがあると思った。


まずは、紹介されているサイトをご覧ください。


 http://tabi-labo.com/279173/truedoors



私が感心したのは、老人個人の持っている記憶の中からデザインモチーフを引き出している事。
一人一人違うドアのデザインを“思い出の宝庫~アイデンティティ”として捉えている事です。
?


これには軽いカルチャーショックを受けました。
そんな視点があったんだ!


『認知症を患ったおじいちゃん、おばあちゃんたちのドアが以前、自分たちの住んでいた家とそっくりのものに変わる。すると、彼らは昔の想いで話を楽しそうに語り始めるんだそう。
心に大切に留めておいた記憶のドアを開ける手伝いも、もしかしたら、この生まれ変わったドアが担っているのかもしれない。』(true door_アートプロジェクトより)



こういったアイデアや事例を見るたびに私は“世界はまだまだ可能性を秘めている”と感じます。
私たちの思いや能力が至らないだけであって、『世の中を良くする発想のきっかけ』というものはいたる所にあるようです。
そのためには私たちがもっと自由に思いを馳せるようになることが大切なんでしょうね。


 


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 ↑ 「true doors」Web サイトより転載[レジスタードトレードマーク]


<2016年11月・記>



考えてみれば、この世界や宇宙のすべては不思議な事ばかりで、それらの殆どを解明しないままに人は自分の一生を終えてしまいます。
結局何も分からないままにこの世から去って行ってしまうという事です。


でもそれでいいんです。生きている間は人には探究心というものがあり真相を知りたいと渇望するのが自然の姿なんですが、全体像を把握できずに死んでしまうというのも今生の必然なのでしょう。


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以前に“病を抱えた身の振り方”として「気」をとらえる生き方の話をしましたが、私は「気」という言葉を「魂」の別称という感覚で使っています。
「魂」は本来エネルギーから成り立っている命の源の一部なのでしょうけれど、その魂の存在を認識・意識するものとして「気」の存在を認めているからです。


人の体を肉体と魂の連携(コラボレーション)と捉えるならば、病を持つ肉体の治癒と共に必要なのが魂の治癒でもあると思うのです。そしてその魂の治癒には「気を入れる」という要素が効果的と考えます。
私は合気道の修練を通して「気」というものが目には見えないけれど様々な効果を生む場面を実感してきました。


合気道の基本は円の動き・円運動にあります。円は丸くて角がありません。円運動の特徴はぶつかり合う直線的な運動とは異なり、全てを巻き込む動きでもあります。
宇宙自体が直線的な構造ではなく球体に近いイメージであるなら、そこに存在する私たちはもっと“円形や球体的な生き方”を洞察することの方がより実態に近づけるかも知れません。


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<※余談追記>
年を越えればいよいよ前立腺ガンの手術です。年末に数回病院を訪れて今後の予定を打ち合わせしました。
病を抱えて暮らす人の事を思えば、手術で摘出できる私の様な者は幸いです。経済的には苦しめられますが、経済的な苦しみというものはある部分で自分のわがままやエゴが反映している事もあるのでその気になれば乗り越えられるものです。
丸く丸く円のイメージで立ち回れば、意外と衝突もなく時間の流れと共にやりすごせる事があります。
 


 


『悩みの世界に立ち止まらないこと』
『周りに取り囲まれずに自分が取り囲むこと』
そうすれば私もガン手術から無事に戻って来れることでしょう。


<2016年12月・記>



 


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[覚書]我思う故に我在り/2015 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2015年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。



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愛猫の行動を眺めていてふと気になった。
昼間はものぐさのように眠っているのだが、夜行性のせいもあり夜になると目を輝かせて外に出てゆく。
一体どこへ何しに行くのだろうか?
それこそアニメ『猫の恩返し』のように、どこかに猫だけで井戸端会議をするコミュニティ世界があるのだろうか?
 


猫の次元を訪問して一度探索してみたい。
だって私も子どもの頃から夜行性で、狭い路地裏が大好きな人種ですから。


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猫は基本的に社交が嫌い。定期的に集まって互いの近況を確認し合ったりもするけれど、飽くまでも自分の肉体的健康や身分的存在確認の為であって、決して人間のように社会的集団を求めている訳ではないようです。
基本的に猫は「無頼」なんです。だからそこが私の気を引くところ。



「猫が無頼だなんて誤解だよ。餌を欲しがったり、ねこじゃらしで遊び相手を求めたりするじゃないか」と言う声が聞こえてきそうですが、それでも猫は“無頼”なんです。決して人に期待はしていません。


野良犬と飼い犬では明らかに人間に対する姿勢が違うように思えますが、野良猫と飼い猫は一見違うように見えていて実は同じスタンスを維持しているように思えます。
愛猫を観察していると、我が家に入り込もうとする野良猫を威嚇して自分のテリトリーを固持しようとはするのだが、夜になると住み家を離れて何処か探索に足を運んでいる様子なのです。
犬は人に付き、猫は家に付くと言われますが、愛猫にとっても我が家は単なる餌の得られる生活の基地以外の何ものでもなく、その心は自尊心の高い“猫ポリシー”をヤサグレの野良猫たちと共有しているように思えます。


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今は空洞化してシャッターが閉まったままの商店街をまったりと歩く姿。
滅亡したローマ帝国の廃墟にたむろする猫たちにも共通する、ものの哀れを感受する様は決して犬たちには真似のできない猫の精神性の深さのように思えます。


独居老人宅の門前に誰に断ることも無く禅僧のように黙然と暮らす様は、もはや無頼以外の何ものでもありません。


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もともと昔から路地裏というシチュエーションが好きだった私は、そこに猫を発見すると何だか心まで通じ合えるような気になってしまいます。


【ねこ路地=necology:猫の生態学の意味】 by 扶侶夢


<2015年1月・記>



様々な視点から、「還暦」という節目には大切な意味が含まれているように見える。


12年のサイクルを5周回して60歳にたどり着いたところで、ひとつの人生に区切りを打つ。何とも綺麗な節目のように思える。


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人も60年も生きていれば、そろそろこの世の真髄を悟り始める頃で、もうこれ以上のものは無い事も分かってくる頃なのだろう。


生まれたばかりの頃は全てが新鮮で好奇に満ちているが、社会という枠の中で生きている内に人間の宿命のようなものに束縛されている事を発見してしまう。
若い頃は未来に多くの可能性を感じて胸躍らせて日々を生きたりもするが、ここまで来るとそれらの殆どが幻想であることを悟り、改めた世界観に目を向けるようになる。



数々の人生経験を積み重ね還暦を経た人の、これからの指針はどこに向かっているのだろうか?
何のために、誰のために、何を達成しようとしているのだろうか?


総括には早すぎる熟年世代とは違って、老熟を向かえた還暦世代は様々な反省を基に自身にとっての未来を再スタートさせるべき世代だと思っている。 


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マスコミなどで語られている「元気な世代」として捉える事には疑問がある。何となく全体的政策的な意図を感じてしまって…。
それよりも私は還暦の意味を理解してその先の生き方を模索する、そんな実験的な人生を探究出来る世代として捉えてみたい。


元気な若い時代は真の意味で“探究”などという事は出来ない。
実験は出来るかも知れないが、世の流れに逆らって、世の中の価値観からズレた生き方を試みる者は少なく、
仮に試みたとしても殆どの場合そこに良い結果は待っていなくて、マイノリティの存在を実感する結果にとどまる。


ある意味で現役の社会からリタイアをしたという事は社会通念に縛られずそれらを超えたところに棲み処を構えられる世代になったという意味でもある。
生まれてきた赤子のように固定観念や偏見を知らず、社会性というリスクも軽くして自身の憧れに率直に生きる。そんな「生命の喜び」のような生き方を模索してみる最後の機会かも知れない。


 


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<2015年2月・記>



還暦というのは人としてひとつの時代を生き切って、次の異次元に向かう一種の扉のようなものではないのだろうか?…と、そんなふうに考えてみた。
私の中の世界観(宇宙観)では、存在する生命エネルギーは離合集散バランスの変動はあるが全体量としては常に一定で変わらないという感じで捉えている。
例えば人の肉体に魂が宿り人間社会を生きてゆく訳だが、死を迎えて肉体が滅して魂がエネルギー分解されたとしても、“まったくの無”に帰するわけではないと思っているからだ。


人生の終焉を意識し始めて、初めてこの世に生を受けた事の重みを感じることとなった。 
私が個人的な経験を通して辿りついたまったく個人的な見解であり、決して唯一絶対的な真実であるなどとは言わないが…しかし私は私個人の胸の中で断言する。
「私の魂は私の死によって終わるものではない。」
「私という存在は無くなるけれど、死とは魂が私個人の所有から解放される事なのだ。」


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還暦とは“開眼の機会だ”というふうに理解できるようになった。


人は生まれてから、ほとんど不本意な生き方を強いられて生きる。
様々なしがらみもあれば、不遇な環境に生まれる事もある。
人の一生というものがそういった宿命を含んでいるのだろう。
しかし世間から一歩距離を置いて生きる“隠居生活”に入れば、そういった諸々の拘束から解放された視点を持つことが可能になってくる。


出家という形式をとらなくても、己が囚われている社会通念の枠を取り外すことで魂の解放は出来る。
還暦とは社会通念から一歩退いて、大局的に自己を眺める良い機会、人生における唯一生き直しの機会なのだと思う。
この時期に目を覚まさなければ、人生を知らずして自己を終わることになる。


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偶然と必然のコラボレーション。それが人生ではないだろうか。
…そういった諸々の事柄も、頭脳だけでなく身をもって全霊で自覚出来るようになった。
頭脳を超えた理解と把握、これも一旦人生を締めくくり「還暦」を経た境遇だからこそ得られる感覚のように思える。


自分の能力や意志で物事が叶う訳ではない。
学ぶ事は必要かも知れないが、努力に比例して能力が得られる訳でもない。
自分の存在を無視して無関係に起こる様々な偶然を受け入れる覚悟がなければ
“偶然と必然の綴れ織り”のような人生模様を描くことは出来ない。



…そういった諸々の悟りは、これからを生きてゆこうとしている青年たちにとっては無用であり、時として有害でさえある。
私は未来に希望を託して未開の領域を開こうと考える人たちに、年寄りの訳知り顔で道を諭す事は間違っていると思っている。
還暦を経た者の覚醒は、それより先の人生を生きることに於いてのみ有効な悟りなのである。


 


剣豪・宮本武蔵は60歳を過ぎてから思い立ち、九州・熊本の霊厳洞に入って「五輪書」を執筆したという。
私も宮本武蔵に倣って、人生から学んだ個人史として「還暦・五輪の書」でも記してみたいと思っている。


<2015年6月・記>



 


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セピア色した暖かな記憶が 僕の中には眠っている


目くるめく日常の中で 引き出しの奥にうずくまっているけれど


もしかしたら それはとても大切な思い出なのかも知れない


         ☆


僕がヒトになった頃 当然のように傍にはネコがいた


名前は「ミーコ」 僕が親兄弟の名前よりも先に口にした名かも知れない


寝起きを共にする仲良しだったくせに


時々イタズラで火鉢に突き落としてみたりする 僕は迷惑な家族だったようだ


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そんなミーコも13年間生きて ピカピカの新居に引っ越した年に亡くなってしまった


友だちも居なくなった新しい環境が たぶん暮らしにくかったのだろうね


         ☆


その後も 何匹もの猫たちが出たり入ったり たくさんのメッセージを届けてくれた


そして僕は若者になって 大人になって 初老の扉の前に立ち


ようやく 一冊の大切な絵本を見つけることが出来た


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それは たくさんの猫たちが僕に届けてくれた生命


ひっそりと納屋の奥に仕舞い込まれていた 『猫の描いた絵本』だった。


 


<2015年7月・記> 



私の原風景とシンクロする部分がここに在るのかも知れない。


幼児期を過ごした様々な体験はいつしかノスタルジックな幻想となって、しかし時には現実と見間違えるほど現在のリアルな情景となって私の前に現われる。 



茂田井武という画家…というよりも表現者と呼んだ方がピッタリとくる。 
また一人、画業人生を生き切った、こんなスゴイ絵描きが居たことを知って軽い衝撃と嬉しさが込み上げて来た。 
未来に対する希望と、それを推進させる勇気みたいなものが込み上げてくる喜び。


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ある意味でシャガールにも共通するような、幻想の中にどっぷりと浸かり切ってしまうアッパレ(天晴れ)な勇気を見て不覚にも私は涙ぐんでしまった。


彼の画集に添えられた紹介文の一節。
“私の描きたい絵は印象のレンズを通して焼きつけられた、脳中の印画というべきもので、記憶にひっかかって抜けないもの、過去の印象の鮮やかなものたちである。幼少時に描きためた絵は大震災で、ヨーロッパや中国で描いた画帳やスケッチは戦災で焼失したが、私の脳中の印画は年と共に濃度を増して、思い出の映像は「その時そのままの不死の姿」に近いものになってきた。”


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幼い頃に抱えていた人生に対する期待感や愛情を“幻想”と呼ぶのならそうしよう。
時にはそれを求め、それを信じて生きていた人生を私は決して嘲笑はしない。 
そこに命を吹き込む事こそが、人生の総括に近づいた者たちの“勇気ある生き様”のように思う。


そんな意思表示を作品を通して表現したいと願う日々である。 
我が幻想への回帰。


<2015年10月・記>



夢中になって作品に取り組めた20代の頃の私。
若さとは素晴らしいですね。愚かさも含めて無心になれていた気がします。


その頃に誕生した「ガンバロー号」はご用済みになって、長い間倉庫に眠っていました。


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垢と埃にまみれながら、欲望と打算の世界をくぐり抜けて来て
気がついてみれば五回も周回を重ねた還暦になっていました。


昔の勢いも無いくせに、純粋ささえも失って
鈍い輪郭の人生を抱えて、これから何処に向かおうか…。


そんな時に古びた倉庫で再会したのが、寂れ掛けたあの「ガンンバロー号」の姿でした。


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錆びついた機体にもまだ少しは輝きが残っています。
早速に手入れをして操縦席に磨きを掛けるとウキウキした気分が蘇ってきます。


何だか、あの頃の憧れをもう一度確かめる旅に出られそうな気がしてきました。
もう今度は多少は利口になって、つまらない間違いは起こさなそうだ。


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ガンバロー号から還暦号へ乗り物は変わっても
憧れにときめく冒険心は変わりません。


たくさんの過ちと挫折を繰り返してきた人生を越えて
もう一度純粋に生きてみる決意…
それが還暦号の設計コンセプトなんですね。 


そうやって考えると、まだまだ他にも設計デザインのアイデアが浮かんできます。


もうこの歳になったら、出発はあせらないで
じっくりとお供にふさわしい乗り物を選ぶことにしましょうか。


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   ↑ [還暦号のアイデア・スケッチ]


<2015年11月・記>


 



私の人生はゆで卵の中で息づいている。


それをサーカスのようなものだと言う人もいる。 


本当のところは誰も知らない。


それでいいのだ…そんなものだ。 


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次元の扉は螺旋階段の踊り場に 蛇腹の様子で開いている。


或る日唐突に現われて 進んでみれば時空のラウンジに辿り着く。


特別なことは何も起こらない。


それでいいのだ…そんなものだ。



知恵は次元の扉を、恐る恐る且つ慎重に開いてゆくものだ。


慌ててはいけない。性急なものは大体が間違っている。


駒廻しの曲芸も明日になれば達磨落とし。


歴史輪廻の変わり目は次元の扉の九十九折。


それでいいのだ…そんなものだ。


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良い年が訪れますように…<平成27年・歳末>


<2015年12月・記>



 


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[覚書]我思う故に我在り/2014 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2014年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。



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早朝に目覚めたら 雪が降っていた

 

何層もの澄んだ空気の向こう側に

 

じっと列車を待つ 無人駅が浮かんでいた

 

しんしんと雪を肩に受けながら

 

ことこと列車の足音を ひたすら待っていた


………

 

雪の中に 時間が埋まってゆく。 

<2014年2月・記>


冬の停車場.jpg


[私の昭和/「冬の停車場」] 


 


優しさは強さです。


好きなものと生きているときに、人は優しくなれます。


だから貴方の好きなものは、貴方を強くしてくれる大切な命です。



好きなものを好きと言えること


好きなものの傍で一緒に生きること


そんな勇気を持つことが人を優しくしてくれる。 



「好き」って感じは大切です。


そんな感じ…持ってますか? そんな感じで生きてますか?


 


私は淋しい気持ちも 好きです。 


<2014年・3月>



駅花火スケッチ.jpg


未来に向かって期待を持ち続けることは
毅然とした勇気の要ることである。


斜に構えたり、解かったような事を言ってやり過ごすことは
実に月並みなことで、少しも難しいことではない。 



絶望の淵に立って、それでも明日への期待を捨てない生き様
他人から「大ぼら吹き」と言われるような生き方の中にこそ
未来の可能性が発見されるのかも知れない。


無人駅に立って、
夜空に咲く花火を眺めながらそんなことを思い浮かべていた。


 


駅から花火.jpg


<2014年7月・記>



何も逆らう必要はない


だからこうして描いている。


語り尽くしたつもりでも語り尽くせぬこともある。


だからこうして描いている。 


猫とスケッチ.jpg 


何も惑うことはない


だからこうして描いている。



私のはっきりしている事


それは「マイノリティの視点・ダイバーシティー/多様性価値観の視点」 を
自分のスタンスからずらさないこと。


“表現する意識”を見失わず“与えられた天分”を使い切ること。
つまり自分の運命を“生き切ることだと思っている。


居眠りミカン_b.jpg


…自分の運命を生き切る…ってか。
ん~上手いこと言うなぁと自画自賛(笑) 


☆ 


絵本を作ったり、写真を撮ったり
日常を眺めながら制作をすることは
まさに「日々の背中」を眺めながら生きている実感だ。 


diaries.jpg


日記をつける習慣が始まったのは中学一年生の時。
それから長い空白の期間もあったが、
そんな空白の時代も含めて50年近くの間 日記が綴られていた事になる。


 


私にとって興味深いのは、ところどころに描かれている落書きみたいな挿絵。
今の私自身よりもずっと純粋で真摯な視点を感じるものがある。


<2014年8月・記>



つかの間の人生に充実感を持って、自分なりに価値を感じて生きることが幸せな生き方のように思える。 


人は人以外のものにはなれないし、それを外れて生きることも出来ない。
当たり前の事のように思うけれど、では゛人とは何か?”と聞かれてどう答えるだろう? 


トリ01.JPG


私は最近になって「人とは厄介なものだ」と思うようになった。
鳥や獣や自然の景色などを見ていると余計にそう思う。 


人だけが何かを企てねば生きてゆけないような、そんな存在に思えるからだ。


正直のところ少しばかり人間社会には疲れを感じている。
しかし、だからと言ってこの社会を拒否するつもりはない。
社会から逃避したり生きることを放棄することには少しの納得も得られないからだ。 


トリと花瓶01.JPG


結局また再び泰然のワクから飛び出すことになってしまった。
すべて理解し納得していた筈なのに、悟りの姿でじっとしていられない愚かさを背負っている。


分かっているようでいて少しも捉えてはいない。
結局、生来の無頼の魂がさまよい続けて今生の限りを生きる。
…それでいいのだ。(バカボンのパパの境地ですね) 



すべてが為るように為って、在るように在る。
表面だけで見ればただの現象があるだけの事だ。


だからそこに心の存在が問われる。
それは掴むことも出来なければ、確かめることも難しい。
しかし安易に見えないからこそ、求める人にしか確信が得られないものなのだ。 


トリと花瓶02.JPG


日本の文化で育った者はこの国の文化の物差しで生きることが一番〝ブレる事なく”生きれるだろう。
ブレない生き方を選択するのであれば、それが賢明ということかも知れない。 


しかし人はブレる。ブレて生きる。
だからこそバランスが必要と感じるのだろう。


 


<2014年10月・記>



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何かを描き残したくて絵に向かっているわけではない。
今の私には、日々を生きている行為として、呼吸をするように絵を描かせているだけの事なのだ。


落書きのような位置づけでとても作品と呼ぶものではないが、それでもひとつひとつ描き下ろしてゆくたびに、何だか゛越えてゆく感覚”を得ることがある。


何を越えてゆくのか知らないが、余分なものを削ぎ落としてゆくのかも知れない。 


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若いころと比べると、本当に「逸る気持ち」が無くなったと感じる。 


…とは言っても、一生懸命な気持ちになって絵を描いたり表現物を創作したりするときもある。
それは何故だか分からないが、切実な気持ちになって「何かを言い伝えたくなる時」


そんなモチーフがまだ自分の中に残っているのかと思うと、それはそれで愉快だなとも思う。 


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そして今は、「まだまだ先はあるんだなぁ」という感覚に浸っている。


 


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<2014年10月・記>



猫と私の出会いは、物ごころが付いた頃の幼児期まで遡る。
考えてみれば、生活体験を共有することで私の人間形成の一端を担ってくれていたと言っても過言ではない。

いま改めて猫たちとの一期一会に感謝しながら、彼らとの語らいの中で人生の風景を眺めてみたい。
そこで「ねこ親書」…こんなタイトルをつけてみた。



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人生とは儚く刹那的に見えていて、そのくせなんと重厚で奥深いものなのだろう…
猫を傍らにおいて共に暮らしていると人間世界を別の視点、別の次元から眺める機会を体験する。


絵を描きながら様々な固定観念と対峙し、時にはそれらを乗り越えようと模索していると、ふと自分個人の観念や次元から解放されて自由な魂を得られることがある。
そんな時、私は猫次元の住人になる事があるのだ。


実は、別に猫でなくても良いのだが…
例えば犬でも鳥でも蛇でも良いし、草花や樹木など生命のあるものなら何だって良いのだ。
彼らは自分たちの命をどう認識していのだろうと思う時がある。


猫たちを眺め、時々目線を共有して過ごしていると様々な事にこだわり、呪縛されている人間というものが“苦痛の動物”に見えてくる。
人の社会とはそれなりに素晴らしいものなのだが、それでも完璧ではないし理想ではない。猫の生きている猫社会も不完全ではあるのだが、それでも苛立つこともなく適当に生きている。


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人が猫を眺めて論じているように、猫からの視点で人との共有世界を論じてみるのも面白い。 


ところで、夏目漱石はどうして猫の視点から人間社会を描くことを発想したのだろうか?
「吾輩は猫である」を思い出してそんなことを考えてみた。確かに猫には他の家畜やペットには無いクールな観察眼が備わっているかも知れない。
ある意味で、人間をより高い次元から俯瞰して眺められる唯一の生き物が猫だとしたら面白い。


人は達観すると猫の境地にゆくのだろうか?犬神様は聞くが猫神様は聞いたことがない。
犬は祀り立て崇められるが猫を崇めることはない。猫はこの日本(大和)では恐れ畏れられる生き物なのに違いない。
古代エジプトなどでは玉座などに座って誇り高い地位を確保しているのに、この国では化け猫だとか九回生き返るだとか、怨霊の象徴のように扱われている。たぶんこれは恐れから来るものなのだろうけれど、何故そんなに畏れられるのだろうか?…今後の私の研究課題のひとつである。


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これからも猫たちとの交流を深めたい。…が、私の場合は世間一般のペット愛好家とは違っているようで実に個人的思い込みと偏見の強い付き合い方なのである。


それは子どもの頃から還暦に至るまで猫たちとは様々なエピソードを共有してきたからなのだろうと思う。
ほとんど猫と一緒の時間を過ごしてきた幼少の頃。学生時代に遭遇した、恐るべし「猫殺しの辰」との闘いの日々。新婚時代の借家にやって来た野良猫。そして12匹の愛猫たちとの個性的な生活…などなど。
こうやって振り返ってみると、やはり私の人生形成に少なからずの影響を与えていることに改めて気がつく。


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<2014年12月・記>


 


 


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[覚書]我思う故に我在り/2013 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2013年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。



「侍の心」とは何だろう?「武士の魂」とは何だろう?…
城下を歩いていて、ふとそんなことを考えさせられてしまった。


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城外に出るとすぐ近くに警備を受け持つ武士たちの暮らした「御城番屋敷」が立ち並んでいる。
いざという時の待機をしながら、ここを棲家にして暮らしていたわけだ。


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 ▲前方にお城の石垣が見える。落ち着いた佇まいは武家の生活を物語っている。


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150年が過ぎた今でも実際に人が暮らしている。
ここに流れている時間はまるで別次元のようだ。ゆったりと、それでいてしっかりと確かめながら息づかいをしているように思える。


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 ▲縁側にはお正月飾りが飾られている。誰に見せるためでもない内なる信仰の証しだ。


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奥の間には縁側から障子を隔てて、明治の頃のものだろうかミシンが置かれている。左の押入れの部屋には紋付袴が掛けられている。お役付き武士のごく日常的な生活風景が感じられる。


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☆ 


私は思う。侍と言っても人の子、刀を持っているからと言って決して武勇を求めて生きているだけでもなかっただろう。極ごく人並みの家庭的な暮らしを築いていたことだろう。
武士の日常的暮らしからは、家族や家庭に対して清廉潔白な家父長意識が感じられる。我が身を律して生きる事の強さと優しさを日々実践する気持ちが侍の信条だったのではないだろうか。


主君に仕えながらも決して己の家族や家庭をないがしろにはしていなかったように思える。“己を虚しゅうしてして滅私奉公する”といったような思考が一般的だったとはとても考えられない。
人としての強く優しい生き方を手本として実践する、そんな誇らしい自意識で生きていたのではないだろうか?だからこそ家族・子孫を思いやる心が今日まで受け継がれてきた家の伝統として生き続けているのであろう。


<2013年1月・記>



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一晩中 火を灯し続ける人がいる。


闇の時間に灯火を捧げ 日の出と共に使命を終える。


その魂はきっと 我が身がどの様な道を辿るのかを知っているのだろう。


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今にも年を越さんとする神社の境内で見た光景は、粛々と行なわれる「伝承」の姿だった。


人々はけじめをつけて、禊を経て物事を一新しようと考える。時には歴史を改ざんしようとさえ企てる。
しかし森羅万象すべてアナログの繋がりの中に存在していて、デジタルな発想は虚構のストーリーである。


私たちは永遠の伝承の中に生きているのだ。…『永遠の伝承』


<2013年1月・記>



出家でもしていない限り 多くの人たちはこの社会に暮らしていることになっている。


この社会のこの価値観と物差しの中で 喜んだり悲しんだりしながら暮らしている。


目を逸らすことは出来るけれど しがらみを絶つことは難しい。


この社会にどんな価値を見出して 私たちはどう定義づけして生きてゆくのか?


それが人生を形成し 物語る基盤になるのだと思う。



プラント開発の任務を受けてアルジェリアにまで出掛けていた人たちが、テロリストの凶弾に命を落とすという不条理が起こった。


殺された者の家族や関係者には怒りと失望と悲しみのみが残るのだろう。やり場の無い怒りは誰に対して何処に対して向けられるものなのか…。


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誰が悪、誰が正義というものでもない。裁くことも出来ず一切を清めることも出来ない。 


社会というものはそういった人間の無力さをさらけ出す世界でもある。


もっとお伽噺の様な夢物語を体験したいところなのだが、それは人々の精神世界にかろうじて存在しているのであって、人間の作る社会というものはまったく不完全で愚かしさに満ちたもののようである。


怒りや憤りを生み出しはするが、決してそれを現実に解消する答えはない。そんなまるで暗黒の海洋を彷徨っているかのような社会に、人が生き続けていられる根源は何なのだろうか?



己の身の丈を慈しみ愛すれば良いと思う。


社会などという途方も無い広がりを理解しようとしたり把握しようと考える必要はない。


高さよりも広さよりも…深さを求めることも必要で、社会の表層に流されず深い中心に身を沈めることも必要なのだ。


 


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<2013年2月・記>



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一寸先の目的に向かって生きているのが私たちの現状だ。でもある程度の歳を経て自分の身辺以外にも目をやった時に、一体どんな未来を描き、どんな未来に目を向けているのかと考えてしまう。



何かを遺そうとして遺す必要はない。何かを築こうとして築く必要はない。何を期待する事もなく何から期待される事もなく。ただただ生命を一生懸命燃やし続ける


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私はこれまで、良き未来をかたち作ることが重要だと考えてきた。しかし改めてそういった考えに固執することは間違いだと気づいた。
世の中というものは決してひとつの形で結論づけられて安定的にとどまっているものではない。今の社会に不条理を見出して、それを改善してゆくことで未来をより良いものにしてゆこうと実行してゆく…
それは本来の健康的な思考と生き方だとは思うけれど、しかし、社会というものは永遠に完成しないものであるし、恒久の平和や幸せなどはやって来ないものである。
例えば多くの革命運動がそうであるように、改革も改善もその時点では有意義なものであるけれど人間の作り上げたものなどは時間が経ってしまえば無用の長物に色褪せ朽ち果ててしまうものなのだ。


☆ 


必要なことは「どのような環境にでも対処して生き延びる知恵」を伝授すること。今をどうやって生きてゆくかを体得して、実践によって伝えること。


 


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<2013年2月・記>



『悪』…
それは人間が存在し続ける限り、決して無くならない概念である。


ときには、まるでそんなものが無いかの如く、見て見ぬ振りをして満ち足りた善意の世界を語ろうとするけれど、現実の世界において人間は、もっと強い意志を持って非情の世界を直視し対決する姿勢を培っていかなければならないものだと考える。



もともと中世の日本における『悪』とは、欧米社会の『DEVIL』とは違っていて、日本人は異形で超人的な力を持ったものを畏怖の念も込めて『悪』と呼称していた歴史がある。


だから日本人と日本の文化においては、時には『悪』といったアウトロー的なものを法を超越した存在として肯定しようとする気分があるのかも知れない。欧米社会と比べて、本来の日本文化は法の束縛を嫌う自由な発想から成り立っている事を改めて発見する。


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私は悪というものよりは『偽善』の方が忌まわしく卑怯で軽蔑すべきものだと思っている。「嘘も方便」という考え方には理解を示す部分もあるが、偽善者の嘘偽りはその範疇から外れている。善人を偽った言葉や態度は、悪に対して優越感を持った挑発的な行為とも言えるだろう。


『悪』を徹底的に弾劾し削除しようとするものは、偽善という隠れみのを被った卑屈で強欲な小心者である事が多い。
悪の要素と対峙・直視してその真意を問い見極めること、つまり“悪と同等の位置”に立ってそれを吟味する事が、人間的な捉え方であると考える。



悪のイメージを恐れて忌み嫌って、直視しようとせず背を向けることでタブー視してきたものはたくさんある。例えば「戦争は悪だ。徴兵制度反対」と言って軍事を学ぶ事をしてこなかった国民が、バランスを失った大人になって国際関係の感覚が麻痺してしまう、それも一種の“無菌教育”の結果かも知れない。(確かに、徴兵制度は時の権力を守るための警護団として洗脳される危険性は十分考えられるけれど…)
本当に戦争に反対して戦争を起こさせないようにするためには、『戦争とはどんなもので、どの様にして始まるのか』といった事を学んで実践しなければ、誰もが無力の烏合の衆になってしまうだけであり、これが現実なわけである。


毒は食わなければ免疫力はつかない。偽善で逃げても打ち勝ったことにはならない。『悪』と呼ばれるものは対等に対峙しなければ、その本質が見えてこないものなのだと思う。



世の中はいつの時代でも、未処理のまま放置しておいた重要課題が元となって混迷を生み出す。
現代の私たちの切迫した苦難の正体とは一体どこから来たものなのだろう?私たちが見て見ぬ振りをしてきた数々の事柄の中にその解決策は見つかるのではないだろうか。


<2013年4月・記>



訳あってか人びとは『死』というものを忌まわしいものとして理解し、忌避意識を植え付けながら忌み嫌ってきたように思える。


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『死』を直視せず、考えることも顧みることもなく過ごすという事は「知らないままに生きて、知らないままに去る」に等しい事だと思う。
この世に生まれてきたことに対して自分は少しの関わりもないと考えるが、人生を生きて死に至る際には自身の関わりを無視する訳にはいかないと思っている。生まれ方は意図できないが、死に方は意図できる。


『生』のさらに向こう側にある『死』の概念をもう一度改めて問い直し、直視することによって自分なりの概念を築くことは日々生きている命を己の手に取り戻すことであり、改めて生き直す意味のように思える。



どうすることも出来ない宿命というものを、私たちは多くの部分に背負わされてこの世に生まれ出でた。
思うがままにならない与えられた生命は、遂には最終的に召されてしまう定めにあるのだが、それでも私たちはこのつかの間の掛け替えのない“ひととき”を精一杯の歓びで満たそうとしている。


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生きている命の時間とは、人間の一生とはいったい何なのだろうか?そんなことを考えてしまうのは人間であることの証明であって、考えずに生きる事も出来ない訳ではないが、それでは“人間を放棄したこと”になる。
痛みや苦しみを伴う場合もあるけれど、人は“生きている命の実感”を感じ取り、そして分かち合うということが与えられた能力のひとつなのだ。


ホワイトホールから生まれてブラックホールに去ってゆくような、まるで人生劇場の舞台(ステージ)こそが人の一生とも言えるかも知れないが、たとえ脇役であっても与えられた役柄(役割)をしっかりと務め上げることが全体の調和と完成に近づく。


主役であろうが脇役であろうが、調和を構成する貴重な一片(ワンピース)であることに代わりは無いということを理解しなければ、人生とは空虚な幻想でしかないだろう。



死をもって人生は一応終わることになるが、だからこそ“人生の意味”と“その向こうに在るもの”を理解しようとすることが、人間が人間であることの証しなのだと考える。


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私の縁故に死と直面して今この時を生きている人がいる。医師から余命を宣告されて毎日を生きている。


たくさんの苦労も背負いながら生きてきて、人生の終盤に入ってこれからという時期なのにそんな結末を迎えようとしているのだが、それでも彼女がこの世に生まれて、生きて、過ごしたことの奇跡と深い意義を感じて旅立つことを、私は心から祈っている。


一刻一刻が終わりに向かっての命の刻みなのだ。少しずつ確実に終わってゆく日々がこれほど敬虔に去りゆくことを、私はこれまで本当に知っていただろうか?


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私は決して「死」に対して最終的な結論を得た訳ではない。今は確信を持って語れたとしても、「死」の概念や意味合いは私の命の経過と共に変わってゆくものだろう。


しかし私はこのように思っている。「死」から目を背けず、そこに埋もれた密かな奥義を求め続ける事は、歳を経た者に与えられた最後の仕事なのかも知れない、と。


<2013年5月・記>


 



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日本の一般人は優秀です。頭がいいです。色んな情報や知識をよく持っています。買い物に行ってもおつりの計算が暗算で出来て、シロウトでもサイドビジネスで株式や投機に参加したりも出来ます。外国の大統領や首相の名前を知っていたり、他国の歴史なども知っていたりします。世界の多くの国では、一般庶民がこれほど物事を知っている事は少ないです。我が日本の人たちはなんて頭が良くて勉学に熱心なんでしょう。


これが日本の庶民が後押しして、教育者と教育内容がつくり出した“成果”です。



片や教育授受の格差もどんどん広がる一方です。教育授受の格差とは情報知識量の格差でもあり、情報収集力に大きく差がつくという事はその先の可能性の選択肢にも差がつく結果になって、うだつの上がらない者はどこまで行っても現実的な展開が見えてこないというのが実際の社会になっています。


この様なブログを見たり書き込んだりする機会さえ与えられない、そんな状況に生きている人たちこそが自己の存在アピールを切実に必要としている者なのだという事を、どれだけの人たちが感じ取って知っていることでしょう。


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教育の貧困は、大人たちのつくっている社会の貧困から生まれます。貧困とは“お金が無いこと”だけを意味するものではありません。貧困とは富を生むことすら出来ない社会環境のことなんです。


<2013年5月・記>



時として懐かしい風景に出会うと心洗われるものだ。


何に懐かしさを覚えるのかと考えてみれば、それは“空の広さ”であることに気づいた。


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空の広いことは良い。


遥か向こうにある別世界を想像させてくれる。


そして何よりも体の中から成長の息吹があふれ出す。


これが童心の源であるような気がする。


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街の佇まいが時間の逆流という錯覚を起こさせることがある。


そんな思索遊びの散歩が面白い。


▼ 珍しい鉄造りの蔵/三重県松阪市日野町
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板塀のある風景が心を和ませる。


垣根の曲がり角で落ち葉の焚き火に暖を取っていた風景を


いまではもう見る事が出来ない。


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<2013年7月・記>



一歳3ヶ月になる孫娘が大人たちの会話に混ざって多弁に言葉を発していた。


まだ言葉として成り立っておらず意味不明な単語の羅列なのだが、それでもひと通り文節らしい体を成してはいる。


とにかく、何らかの形で大人たちの会話の輪に加わりたいようなのだ。そのために最近ようやく覚えた“話す技術”を駆使しているらしい。


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声に言葉をのせて、言葉に意味をもたせて、自己を主張することを発見したのは人間ならではの為せる業だ。


生まれたばかりの人間にとっては、声を発する目的は人々の輪の中に加わるためのものに違いない。何故なら人間はひとりでは生きてゆけないものであることを知っているからだ。


人は連帯の中でしか生きる事が出来ない。



それは猫にとっても同じだった。


猫たちは身勝手な集団のようだけれど、連帯の中でしか生きられない事をよく知っている。


だから時々、人間の前では“借りてきた猫”のような態度をとる。


そして“猫なで声”で鳴き声を発するのだが、媚びた真似をしているだけで、そこには何の意味も無い。


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そもそも鳴き声で発した言葉なんて感情があるだけで、何の意味も無いものなのだ。


…私たち人間にしたって、同じ事なのだと思う。


 


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<2013年8月・記>



人間は根本的には不幸になるように出来ている。


すべてを受け入れがたく生きる存在だから、どうしても不幸を感じざるを得ない。



幸せという概念を幻想の中に創造してしまったからこそ、不幸と背中合わせに生きることになる。


不幸は決して誰の意志でもなく、誰の責任でもない。


それは根本的に組み込まれた、人間の生きる世界の概念なのだ。


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人間は根本的には幸せになるように出来ている。


いずれすべてを手放して去りゆく存在だから、解き放たれた幸せを感じることになる。



不幸なこの世に生まれ出でてきたからこそ、幸せの存在を知ることになる。


幸せは決して誰の意志でもなく、誰の仕業でもない。


それは根本的に組み込まれた、人間の生きる世界の概念なのだ。


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そして、人が亡くなった。


まだ人生の半ばでガンを患い、そして闘って亡くなった。


…それは虚しいことだろうか?悲しいことだろうか?


たとえつかの間のひと時であったとしても、


生まれて来れたということに…自分自身に出会えたという事に…


 


宿命を感じないだろうか。


<2013年9月・記>



目の前に山があるようだから


もうひと山 越えてゆこう。


ここでお仕舞いにしたって構わないんだけれど


折角だから 歩んでゆこう。


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何が正しくて 何が真実で


何を求めて 何を現わしたいのか…


そんな事は分かっているんだけれど


終着点は 私が決めるものではないみたいだ。


…だから まだまだ歩いてゆこう。


<平成25年・歳の瀬に向かって>


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来年は なんだか少し 面白いことが始まりそうだ…


<2013年12月・記>




 


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[覚書]我思う故に我在り/2012 [【アーカイブ】]

◆初めは、ただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2012年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。



私の人生の原風景を描き求めてみたい気持ちがあって、時空を超えた『内面世界』を訪れてみると、忘れ去っていたような“懐かしい愛情”に出逢う。


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☆ 
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道端に座り込んで握り飯を食べる。裸電球の露店で物色する。落書きの化粧をされた野良犬は子ども達とじゃれている。舗装されていない穴ぼこだらけの道には土埃が立っている。


<2012年1月>



去る3月1日午後9時34分に91歳の母が亡くなった。


私にとっては当然かけがえのない親であるが、すでに18年前に亡くなっている父とは、対照的なタイプの母であった。
父の場合と違って、母との別れには少しばかり悔やまれる部分もあったが、過ぎ去ってみれば悔やみ自体が母に甘え続けていた証しでもあるように思う。

私をこの世に生んだ母が、他界したという事実に改めて厳粛な気持ちになる。彼女が居たからこそ私がここに存在している訳なのだ…。
様々な葛藤も繰り返してきたが…魂の次元では互いに思い合っていたと確信している。
生前は癒しを与え合うことがあまり出来ない関係だったが、それでも、穏やかで安らかな臨終の表情は、私の遺憾の念を軽くしてくれた気がする。


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偶然、亡くなる前に描き始めていた「母と台所」のスケッチだった。私の原風景のひとつとして、幼児期の台所を記憶を辿りながら描こうとしていたのだが…
私が母をどのように考え、私にとって母とはどのような存在だったのか…ついに伝えることも理解してもらうことも出来ないまま別れる事になってしまった。


「さようなら。今度は魂の次元で語り合いましょう…。」


<2012年3月>



[元凶のシステム][システムへの反撥]例えば軍隊や政治団体、会社組織などの中で行われている不条理は、人間社会に普遍的なものではなく各国それぞれの世情などによって様々に違いがある。主義・思想や宗教・世界観などを一体化して築いた、それぞれのシステム構造によって形成されているもの…それが“尺度の連帯”“呪縛の構造”であると考える。『邪悪は大きな顔をして一人歩きするものだ』…だからそれが生息できる環境(=社会システム)を打ち破っていかなくてはならない。自分たちが造らされてしまった、一部の人たちのための権力システムとその構造を塗り替えるためには、タブーを乗り越えて既成概念を検証しなければならない。


私たちは認可した事もない契約の中で生きている訳である。それがさも当然の正義であるかのように叩き込まれたままで…。


 


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[“歴史はひとつではない”という感覚が必要]

マイノリティの問題にも関わる事であるが、私たちは歴史を色々な角度から読み解くというスタンスとその理解が必要である。反対側からの見方というものが存在するという事を実感として捉えねばならない。マイノリティ、弱者の立場を認め、排除的な指向に反撥するのなら、敗者の歴史・絶滅者の歴史の観点を取り入れる事は必然と言えるだろう。


 


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[描くという表現/表現という生き様]山本作兵衛の画業を見て、気づかされた事があった。炭鉱で働き、炭鉱を見て、炭鉱に生きてきた彼にとって、創作活動のベースになるものは“自分と炭鉱”の日常生活であった事はごく自然な成り行きだろう。この“ごく自然な成り行き”というものが、とても重要な事なのだ。描きたいものを描きたいように、表したいものを表わしたいように…自分の人生を表わせば良いのだ。スタイルや形は後から生まれてくるものだから、そんなことに囚われず、統一性を欠いた人生をそのまま表現すれば良い。辿ってきた道のりを振り返って、日々の日記をしたためるように、もう一度生き直してみることも面白いものだ。

 


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<2012年4月>



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愛されなければ愛を知ることは出来ない。


愛する事こそが愛を伝える唯一の方法なのだ。


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[あたらしい発想の経済~脱資本主義と脱原発]
資本主義と原子力発電…どちらも20世紀の常識であり、それをくつがえす社会などというものは考えられなかった。
しかし21世紀になって、人々は延長線上ではない発想が求められ、そういった動きが生まれ始めてきた。延長線でない発想とは“科学的で挑戦的な発想”のことである。


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[失われた私たちへ] 


手足が無くても、耳や目が使えなくても
自分を見捨ててはいけない。
それは貴方の背負ったハンディであり、貴方の責任ではない。
それは周りの人たちの責務であり、貴方はベストを尽くすのみでしかない。


しかし、手足が無くても耳や目が使えなくても
貴方には出来る事がある。


それは、愛するという事。
愛を知らない人に愛を気づかせる事。
そしてそれが、貴方の責務かも知れない。


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貴方が自分を見捨てずに
誇りを持って愛し続ける事こそが
貴方の生命の輝きなのだ。


<2012年5月> 



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旅(じんせい)の目的はやがてわかる。
“粗い写生(クロッキー)が下絵(エスキス)になり、
やがて完成した絵(タブロー)になるように”
               【ヴィンセント.V.ゴッホ】


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


一度描いた絵を再度描き直すなんて、モチベーションも上がらなくて若い頃には絶対出来ないマネだった。私は芸術というよりも冒険家であった。未踏の地に足を踏み入れることが大好きな、好奇心旺盛のクリエイター志向だった。



そんな私がある時から、過去のスケッチを引っ張り出して新しい視点から描き直しをするという『タイム・スリップ』を始める気持ちになったのは何故だろう…。


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それは時間の流れというものが二度と同じところには戻って来ない、らせん状の空間を流れるものであるように感じられたからだろう。


命は同じところには戻って来れない。過去をさらに洗練させる事が「生き続ける=創造する」ということかも知れない。



実は、遥か過去の時代に“すでに答えは得ていた”
童心の中で、青年の夢の中で、真に憧れていたものを知っていた筈だったが、いつの間にか逃げながら生きる習慣が身についていた。


上辺をどんなに取りつくろっていても、汚れてしまった精神に気づかなければ変わることは無いものだ。


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何度も引っ張り出して過去のモチーフに手を加える。かつての自分が本当に何を求めていたのか、すっかり誤魔化して道から外れてしまってはいないのか…


そういった繰り返しをしなければ、人間ってヤツは間違ってしまうものなんだよ。


<2012年6月>



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[シュールレアリズム]


シュールレアリズム…、超現実。3Dのバーチャル映像が次々に発表されるようになって、もはや幻想世界というものが決して非日常を感じさせなくなってきた。そんな世界の現状において…超現実・シュールレアリズムとは一体なんだろうか? 桃太郎、かちかち山、花咲か爺さん、一寸法師、ぶんぶく茶釜…お伽話の世界も良いかも知れない。しかし、もっとシュールな世界がありそうだ。…それは…。


 


父母や祖父母との和解の世界。父母・祖父母の世界との融合。いつか見た世界、見たはずのない世界なのに何故か懐かしい記憶が展開する。空間の扉は何処からかぶら下がったように開き、夜明けの空間から天馬が音符のように湧き出す。


怪しい灯りがカーテンの向こうからハイウェイを流れ出て、サイケディリックなサーカスが踊り出す。互いを理解し合うということは、七色のワンダーランドを万華鏡を通して眺めたような牧歌的風景なのかも知れない。



 


 


 


 


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[内在する隷属の構造]


私たちは生まれた時から基本的に『受け身』の精神を身につけて生きてきている。誰かの保護の下に入って、何者かに従属することで命の糧を得て成長してきた。そのために、自分の属する社会集団から認められる事が生きることの証しであると考えて、同調を余儀なくされてきたとも言える。


私たちは社会から提供されるものを受け入れる事が、私たちを受け入れてもらうための方法だと考えて『素直と従順』という教育の元に育まれてきた。 社会のきまりを守り、指示を守って従順に生きることを『正直な生き方』という。


セオリーを守れば逸脱することもなく、従順であれば分け前を取り上げられることはない。そういった不文律のようなもので私たちはいつの間にか奴隷状態に陥ってしまっている。 私たちは「独立と自由」を渇望しているように見えるが、実は隷属的な精神構造がそれらを遠ざけ、邪魔をして、時には拒否さえもしている。 


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▲ビゲラントの彫刻が物語るフログネル公園/ノルウェー:オスロの絵葉書より


<2012年7月>



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「闘う気持ち」はとても大切だと思う。
“闘う”と表現すると一部の人たちは“穏やかでない”と反応するけれど、その誤解が何かにつけて論議を間違った方向に進めてしまう原因になっている。


“闘う”とは姑息な妥協をせずに、奴隷の心を捨てて、尊厳を守ることである。


何故、私たちは誤った情報に依存して扇動されたり自分の首を絞めたりするのだろうか?
それは外面に弱いからだ。権威に弱く、名目に弱く、ブランドに弱く、そして綺麗ごとに弱い。


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今を生きる。それが私たちに出来る最善の努力だ。
そして、何かと闘い続けなければ 今を忠実に生きることは難しい。


自身の誠に背を向けて、解かった様な台詞を言いながら生きるのも要領かも知れないが
そんな立ち振る舞いで終わる一生ならば、私には何の輝きも見出せない。


簡単に「優しさ」なんて口にするけれど、優しさを維持するには闘い続ける精神力が必要だ。
手強い相手に飼い慣らされず、闘い続ける毅然とした態度が必要だ。


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私たちの体の中には毒素が生きている。それは体を維持するために必要な免疫力だ。
そしてその免疫力で闘いながら、私たちは今を生きている。


私たちは何者かに「生かせてもらっている」という発想で生きるか?
「生きる」という自意識を強く持って生きるか?
どちらでも良いことなのだけれど、それが自身の人生観を大きく変えることになる。


<2012年10月>



世界とは多面的で包括的ななものである。
私たちはその中で一個人として生きているに過ぎない。
私たちはそれぞれがそれぞれの願望に従って生きているだけで、
決して全てを知る事はできないし把握する事も出来ない。
全てに関わる事も出来ないし認識しあう事も出来ない。
…それが本来の現実的事実なのだが…


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…まるで私たちの全てに関わるかのような幻想を掲げて
ひとりひとりの死活問題であるかのような緊迫感で
私たちを組織化して戦場に駆り立てようとする。


私たちは本来、一個人の願望に生きること以上の事は出来ない筈なのに…


 


あなたを愛している。
私にそれ以上のことは出来ない筈なのに…


<2012年11月>



もろびとこぞりて迎えまつれ…
久しく待ちにし 艱難の向こう側に抱かれた安らぎの魂を


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[もろびとこぞりて]



天より降りそそぐ星のきらめきは ひとときの童心を呼び起こさせる。人を救うということは貴方自身が救われるということである。


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[降り注ぐ星]



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本当のことを言うなら、人には誰もがたどり着きたい場所がある。そしてそれに気づいていない人がいる。気づいていない場所に人はたどり着くことは出来ない。


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[光のミサ(礼拝)]


☆ 


何に魅かれて人は足を進めるのか?何を求めて人は手を差し出すのか?何を伝えようと人は口ずさむのか?すべての答えが出揃っているというのに、人は何故問い続けるのだろうか?


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解明への入り口に向かって今日も人は歩み続ける。愛するために疑い続けながら…、許すために恨み続けながら…。


<2012年12月>

 


 


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[覚書]我思う故に我在り/2011 [【アーカイブ】]

◆このブログを再開して四年が過ぎた。初めは、ただ何となく…次に作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見することもあった。
◆これまでの思いつきメモの2011年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

☆ 

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作品・表現・生き様…私にとってこれらは、つながり合って一体となったものである。
それぞれを三つの点とするトライアングルの中心に「魂」のようなものが存在する、図解に示せばマアそんな感じかな?
そして…「作品とは表現のことであり、生き様とは作品のことである。そしてつまり、表現とは生き様のことである。」などと、もっともらしく独り言を語る。

そうやって私は納得をするために生きている。人生とは詰まるところ、生まれてきた事を納得するための作業なのかも知れない。

<2011年1月>

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私は常々“見えているものの向こう側にある、眼に見えないものを描きたい”なんて言っています。色んな意味に解釈できるので、もちろん賛否両論あることでしょう。
何故、私はこういった考えを持つようになったのか?ひとつには、もしも私が盲目になったら、どうやって絵を描くだろうか、と考えたからです。
目だけに頼ってものを見ているから、もしも目が駄目になったら、それだけでもう諦めてしまうことになる。絵が描きたいと思ったら、目がなくても、手がなくても描こうとするはずだ…なんて、ちょっと極端ですが、それくらいの想像をしてみた訳なんです。

ふたつめは、自分の目に見えているものがすべてではないと考えたからです。私の見ているものは、私の網膜に映ったものを脳が受け取って映像に編集しただけの…実に個人的な産物でしかない。そう考えたからです。
同じものを見ていても、人それぞれに編集の仕方が違っていて、見え方や理解の仕方も違っているかも知れない。見えている(と思い込んでいる)モノだけに囚われていては、その全体像を見失う。私は私に見えていない部分を見つめることで、その対象をより理解するという事を発見したのでした。

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そして三つめは、五感に頼らず第六感を磨いて、次元を超える事。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚とは違った第六番目の感覚…それを実感する事で、これまで閉ざされていたものが開けてゆく。解決出来なかったいくつかの問題を解くヒントが見つかるような気がします。だから私が絵を描く理由というのは、解決策の探求とその先にある救済のためかも知れません。

<2011年2月>

 “力”には様々な種類があって、そのイメージを一様には出来ません。とかく人は一面的な共通概念にまとめたがる傾向があるけれど、それは時には危険な側面を持っています。弱いよりは強い方がいいですよね、誰でも。力も、ないよりはあった方が良いと思うのは当然でしょう。肉体的な力とは別に、精神的、それも優しさや柔らかさの度合いというか、そんな“力”というものがあります。ある意味で「精神的な力」とは“肩の力を抜く事“でもあり、肉体的な力と対極にある力の事です。 

 腕力や暴力など肉体的な力に対してコンプレックスを持つと、間違った道を選ぶことになりやすいようです。従属するにせよ克服するにせよ、その者には力に対する概念が暴力としての概念に染められているからです。
 世の中には様々な種類の“力”のある事を表すことは必要で、また人は“様々な力”を発見・開発することも必要でしょう。


 

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☆ 

http://www.youtube.com/watch?v=NiEY4T7yli8
遠藤征四郎 師範の指導/2009 ヘルシンキ

 “合気とは力をガチンコでぶつけるのではなく、相手の意に沿いながら流してやることによって、邪悪な部分は自滅させてあげる事なんです。
 数年間道場に通って、私は多くのことを学び、得ましたが、最も素晴らしかったことは誰しもが生まれつき持っている、そのままの力を発見したことですね。

<2011年3月>

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“絵本との繋がり”を私に啓示してくれた三冊の絵本がある。

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『おおきな木』/シェル・シルヴァスタイン(著)
絵描きの私としては、自分の“思いを表現する方法”としての絵本を発見した記念すべき一冊。
この絵本は父親を亡くす2年ほど前に読んだもので、私の父親への接し方を大きく変えた絵本だった。おかげで私は父親に対して、少しの悔いもなく看取れたと思っている。その意味では、「一冊の絵本が人の人生を救うこともあるものだ」と実感している。

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『100万回生きたねこ』/佐野洋子(著)
この絵本を読んでホロっと泣いたとき、私は自分の人間性が変わったことを感じた。…と同時に、そういった事を発見させてくれる「絵本」というもののすごさに感銘を受けた。そして、私の今後の“表現者としての生き方”にヒントを与えてくれた。数年前なら多分この絵本を読んでも、そこまでの事は感じなかったと思う。これもやはり人生のタイミングというか、「縁」でしょう。

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『アライバル』/ショーン・タン(著)
実はまだ完全に読み切っていないのだが、私にはショックを与えてくれた絵本である。絵本というジャンルに入るのだろうけれど、文字が一切なくてコミックのようなコマ割りで展開してゆく。私もやってみたかった絵本表現だったが、それ以上の内容と技術のものが登場した(…こんな事ってよくあるんですよね)
しかし、この絵本が登場した事で私の“絵本に対する可能性への確信”は更に強まった気がする。21世紀はますますメディアミックスの時代になってゆくが、「絵本」も確実にその一翼を担うことになるだろう。絵本はもちろん子どもにとっても情操教育に必要なものであるが、ビジュアルな哲学書でもありマニフェストでもあり、そしてなによりも人に啓示を与えるものとして存在する。

<2011年4月>

ぼんやりと目覚めて ふとダイニングに目をやると
朝の陽光の中で コーヒーを入れる彼女の姿があった。

何も始まらず何も起こらない一日…
そんな時間がたまらなく愛おしい。
二人でここに生きているだけの実感が
怠惰な極上の贅沢だった。

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たまたま二十代の初め頃に描いたスケッチが見つかって
思わず一人で赤面した。
飾り気のない繊細な若さが まるで無知をさらけ出しているかのようで
気恥ずかしい。

そんな自分を笑える私は…それに比べるほど立派に賢くなったと言うのだろうか?
若さの何が愚かしげで恥ずかしいというのだろうか?
そこにはただ、傲慢な年老いた自分がいるだけではないのだろうか?

<2011年5月>

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私が影響を受けた画家やイラストレーターや芸術家というのは大勢いるけれど、多感な十代から二十代にかけて受けた影響というものは、やはりベーシックな存在として生き続けているものだと思います。
私のデザイン的な面、イラスト的な指向は、二十代に出会ったミルトン・グレイザーの影響が大きいです。多分個人的な嗜好がピッタリと合ったのでしょうね。“師との出会い”というのは、案外そういった“好みの傾向”でマッチングが決まるものです。

27歳の頃に描いた絵本のイラストが見つかったので眺めていて、改めてその頃の発想やモチベーションの自由さ&素直さに、現在の自分のいくつかの部分を反省させられました。
そして、「人ってやつは、全面的に向上してるとは言えないものだなあ…」「何かを得れば、何かを失うことが多いものだ。やれやれ…。」などとため息をついてしまう今日この頃でもありました。
(ま、そんな事は既に承知の事なんだけどね…)

自分のモチベーションを大切に…。自分自身の教祖となって、己の道に導いてあげましょう。決して、エセ教祖となって世界を牛耳ろうなんて企んではいけません。(爆)

<2011年7月>

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【すべての存在はバランスによって保たれている】

体を流れる血液も体を組織する細胞も、赤血球や白血球そして塩分や糖分…一人ひとりが違った体質でバランスを取りながら生きている。
太陽とその周りを回る惑星も、ブラックホールもホワイトホールも…それぞれがバランスを保って存在している。

重心はバランスを取るために常に移動し続ける。
移動して変化し続ける理由は安定を保つためであり、固定された安定は停止であり全ての終わりである。

生き続ける限り、人は変化し続けて…その中にバランスを発見する。

バランスの基とは、…?そう言う人も居るようですが…。
バランスは意識の外にあるものみたいですね。あまり意識しすぎると、ますますハズレてしまうような…
(子どもの頃、自転車の練習でありましたね。溝に落ちてはイケナイ・イケナイと思うとますます溝に向かって行っちゃうみたいな…)

私のバランスは“絵を描くために思考し、絵本によって表現すること”で調整しているみたいです。

<2011年9月>

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[人権~互いに認め合うこと]

震災被災者の避難所生活が進められてゆく中で、初めは雑然・混沌としていた生活が少しずつ形が整えられ、人の生活できる空間となってゆく。
…そんな有り様を現場から帰ってきた知人が報告してくれた。

人が“生きて”生活を営んでゆくという事は、無秩序・不安定の中から“人権”を打ち立て、確認し、互いの生存権を認め合いながら生きてゆくという事なのだろう。

涙を流しているだけでは生きてゆけない。情けで包んでいても生かせるわけではない。
「互いに生きる事」を認め合うことによって初めて、人の生命に力が加わる
これは被災した人たちだけの問題ではなく、今を生きている日本人のすべてが学ぶべき事柄が蓄積されているような…そんな気がする。

<2011年10月>

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[覚書]我思う故に我在り/2010 [【アーカイブ】]

◆このブログを再開して四年が過ぎた。初めは、ただ何となく…次に作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見することもあった。
◆これまでの思いつきメモの2010年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

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花は何のために美しく咲くのか…

花の蜜は何のために甘いのか…

花の蜜は種を運ぶ虫たちのために甘く
その姿は人のために美しい。

そして花は何のためでもなく咲き伝える…

<2010年1月>

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【川辺】

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形を留めようとするな。

…出来るかな?

瞬時の美を凍結させるよりも

美しく朽ち果てる様を受け入れよ。

…出来るかな?

即ち、形を成して留めようとするな。

真実の姿とは形の無い姿である。

絶対なる永遠とは流れ続けて留まらない事である。

全ては未完成であり永久に完成の時はやって来ないものなのだ。

だから未完を愛せないものは…永久に愛を知らずに終わる。

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完全などというものは無く、完成などというものも無い。永久なるものは未完成であり、答えのないものこそが絶対なのだと思う。
だから不備というものを、不具というものを侮ってはいけない。
人間は愚かにも完全な答えを求め、全てが揃うことを“優れたもの”と考えるから…何も得られずに空虚な生き物になってしまう。

<2010年2月>

半月間程の治療入院から退院をして自宅に戻ってきた。2年前に続き2度目の入院だった。今回は診察にかかった時点で、血糖値が580、ヘモグロビンA1Cは14,5という前回以上に危機的状況だったようだ。
ここに至るまでには“のどが渇き、視力が著しく衰える”“唾液が出ずに満足な食事が出来ない”“体重が
10キロ落ちて顔面が痩せこける”などなど自覚症状はあったのだが、我慢してやり過ごすだけで対処をしてこなかった事が結局、悪化の一途を辿った訳だ。…わかっちゃいるけど、ねぇ。
糖尿という病気は完治するという事はないらしい。代謝のバランス・コントロールによって一見治まったように見えているだけで、自己管理を放置すればいつでも安定ラインを突破して、二度とは戻れぬ恐怖の「合併症」という世界に突入してしまう。ここに入り込んでしまうと、それはもう笑っていられない生き地獄を味わう事になる。私ももう少し遅ければ“昏睡状態”や“失明の危機”だったようだ。
点滴を両腕に射つなどして緊急処置でとりあえず難をのがれたが、今回の入院は私にとって最後通牒を突きつけられたようなものだった。

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<病室はお隣がカーテンで仕切られているだけの6人部屋でした>

<2010年4月>

 退院してから初めての検診をしてもらった。摂生をした甲斐あってヘモグロビンA1Cの数値はほぼ目標に近い6.2%だった。入院した時の14.5が如何に異常であったかがわかる。数値がそこまでいくと身体がどの様な状態になるのか痛いほどよくわかったが、糖尿病の困ったところは「痛み」や「苦しみ」がほとんど感じられないまま、ほぼ最終状態まで進行してしまうところにある。気付いた時には遅すぎたというケースが実に多い病気のひとつだ。

 一度糖尿病になってしまうと完治する事はまず無いと言われている。その事が糖尿病と診断された人が落胆してしまう最たる理由のようだ。常に恐ろしい合併症と向かい合わねばならないと考えると、まるで牢屋に入れられた終身刑の身であるかのように感じてしまうのだろう。
 しかし見方を変えれば、これは実に「生きるチャンス」なのだ。右の高血糖に片寄っても左の低血糖に片寄っても危険な方向に向かってゆく、常にバランスを取りながらの生活は…まさに生きてゆくための実地トレーニングをしているようなもので、ボサ~っと生きて知らない間に死に直面してしまうよりは、ずっと価値ある生き方が出来るように思える。

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昔の写真に色を着けていたら、なんだかSFっぽい雰囲気になってしまった。

<2010年6月>

人権に関わる仕事に就くようになって、改めて自分に課せられたテーマが再発見できた。それは「マイノリティという存在の価値」である。
考えてみれば、幼い頃から私が自主的に、または運命的に直面してきたものは、マイノリティそのものであった事に気付いたのである。

◆力の有無や強弱で結果が変わる事においては認められる(弱者救済の思想は、また別課題として考慮される)しかし、数の理論(多い少ない)によって有利不利の差別を受ける事は是認されるものではない。

     勝負に敗れた者にも生存の権利を与えること。これが基本的ルールであろう。それはリベンジの機会を与えることになるかも知れない。しかし、それを恐れて根絶やしを画策し完膚なきまでに抹殺するのが前近代的な考え方だった。

     表の歴史は勝者によって作られる。ならばマイノリティの生き様はどのように伝えられるというのか?

     民主主義(デモクラシー)の原則は「多数決の理論」のように言われているけれど、それは大きな間違いである。本来の民主主義とはマイノリティを受け入れる事である。


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こどもの頃には空の向こうに遥か大きなものの存在を感じたものでしたね~

<2010年7月>

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長く生きていれば、そりゃあ争いに巻き込まれ傷つく事もあるだろうさ。自分の気持ちとは裏腹な場面に遭遇して、すっかりボロボロになってしまう事だってあるさ。しかし、ね…それでもなんとか生きていれば、きっと何処かにたどり着いて、何かいい道を見つける事だってある。そしてその時に言うのさ…「この傷跡が生きてきた勲章なんだ」って。

☆☆☆

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戦争の焼け跡をさまよう…狂気が去った後の虚脱感
小説の挿絵風に描いた絵です

瓦礫の中を飛び出して、たくましく“そして優しく”生きる…そんな生き様を絵にしてみたいですね。

<2010年9月>

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強い人と弱い人の2種類があるのではなくて、強さと弱さはひとりの人間の中にある。
人には誰にでも弱さがあって、悔しいことや悲しいことがあります。
違いは、それをどう表現するかです。

いつも泣いてばかりの人もいれば、一方でいつも威張ってばかりの人もいる。
外見上は正反対ですが心の中は同じです。
違いは、それをどう表現するかなのです。

<2010年12月>


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[覚書]我思う故に我在り/2009 [【アーカイブ】]

◆このブログを再開して四年が過ぎた。初めは、ただ何となく…次に作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見することもあった。
◆これまでの思いつきメモの2009年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

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頚椎の手術で入院をしたのが一年半前、その九ヶ月後に今度は糖尿でまた入院生活を送った。
手足をもぎ取られた者の気持ちは、実際にその状況に於かれなければ分からないものだがそれでも尚生きてゆく事の意味を苦痛の中で探そうとする。
人間の宿命なのだろう、理屈を語ってそこに理由と意義を見出せなければいられない存在というものは。
しかし発見すれば大きく変わることになる。人間の存在に理由などなく、ましてや意義を求めているのは自分自身でしかないという事を。

<2009年1月>

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先日、NHKで「無言館」のドキュメンタリーをやっていた。映画「夢のまにまに」の一シーンに無言館が登場するという事も今回の注目の一因かもしれないが、以前に何かの機会にその存在を知り戦没画学生たちの作品を見たことがあり、記憶の中には印象深く残っていた。そして改めて作品というものについて考えさせられた。

作品とは一種の媒体とも考えられる。金銭的価値とか優劣順位とかで人間の欲望の対象となってしまうから間違った解釈をしがちだが、ただ純粋に媒体と考えれば本来の姿が見えてくる。
送り手と受け手がその魂の存在を確認しあう媒体…それが作品の本質。人間の肉体に留まっていられなくなった魂は何らかの媒体に姿を変えなければ存在できないものなのだ。

<2009年3月> 

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幼い頃に家族みんなで暮らしていた時間が描きたくなって、スケッチブックを持って自転車で出かけた。

当時借家住まいをしていたあばら家が今でも残っている。
貧しい生活だったけれど何かとても豊かだった感触を思い出す。

絵を描いていると通りすがりの人に声をかけられた。こんな触れ合いも久しぶりだなあ…

ほんのしばらくの間だったが、ひたすら自分の絵の世界に没入した静かな時間だった。

<2009年3月>

チベットの寺院の到る所には立派な砂絵が幾多とあるそうな。

数人の僧侶たちがそれぞれ半生をかけて描き上げるという、それは見事な出来栄えであるそうな。

しかしひとたび風が吹けば砂絵ははかなく消えゆく定め、これまで数千年の歴史の流れに現れては消えたる数々の魂。

砂絵ひと粒ひと粒に託した情熱はたとえその身が朽ちるとも、伝承の遺伝子となって時を駆けゆく。

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<2009年5月>

強がりの言葉を口にしていても心の逃げている人がたくさんいる。
立派な悟りを口にしていても心が放棄している人はたくさんいる。

見せ掛けにごまかされてはいけない。
立派な言葉にまどわされてはいけない。
その人が愛を実践しているかを見極めよ。

愛していればその人は見捨てない筈だ。
愛する勇気があれば目を閉じずに相手を見つめられる筈だ。

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愛情があれば問題は解決できる。

<2009年6月>

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▲父の子守唄 

私が赤ん坊の頃、父は夜泣きする私を懐に入れて戸外で子守唄を歌っていたらしい。家族を大切にする苦労人だった父のエピソードである。私が父から教わったもののひとつに「父性」があり、それは子守唄として私の中に生き続けたようだ。

父は左アゴに軍隊で殴られて残った傷跡があった。小さな飲食店をやっていた頃には近所にヤクザくずれがいて嫌がらせを受けていた。世間の不条理と暴力に揺さぶられながらも決して人としての優しさを忘れない人だった。恨みも怒りも背負っていた人だったが、決して優しさを放棄しない人だった。

父の歌う子守唄は“優しいことは強いことである”と教えてくれた。

<2009年8月>

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進む人は進めば良い
戦う人は戦えば良い
それが人の本質と言うのであればそのように行えば良い

怒る人は怒れば良い
壊す人は壊せば良い
それが人の心の業と言うのであればそのように行えば良い

しかし忘れてはならない事がある
最も誇らしい事…

弱き者を支える事
敗れし者を救う事
排除されし者を受け入れる事
…人の誇りを忘れてはならない

<2009年12月>


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