小説「ゼロの告白」/第十五章 [小説「ゼロの告白」]
毎日、役所の臨時職員として勤めているがまさかこの歳になってそんな生活をすることになるとは考えてもいなかった。若い頃の彼からは想像もできないこの変わり様は、生活ぶりや見かけだけでなく、ものの考え方の変化にまで及んでいた。見方によっては歳を取って守りの姿勢になった、保守的になったという事も出来るがそんな単純な事でもないのがこの男のこれまでの生き様でもある。決して平凡とは言えないこれまでの生き方を振り返ってみると、そこには事あるごとに一線を越えようとする何かに取り憑かれた様な超越した魂を感じるのだった。
無邪気だった子供の頃は、デパートの屋上から飛び降りてみたい衝動にかられたことがあった。まだ見ぬ別世界への恐怖心と探究心の混ざった奇妙な感覚に誘惑されていた。そんな無邪気なスリルから一転して、青年期の頃にはより現実的な死線への渇望が渦巻くようになっていた。生死の境を見極めようとするその衝動は彼がいつどの様な場面に遭遇しても生き抜けがあればられる様な男でありたいと願う、一種サバイバルなロマンチシズムから来るものでもあった様だ。
そして成人し社会との繋がりをより現実的に持つようになってからは、様々な不条理の渦巻く事件の中に身を置くことも厭わなくなっていったのだった。身の近辺に厄介な事件があれば敢えてそれに関わろうとする、その事件が事件史的に名を遺すようなものであればある程、わくわくした興奮を感じることもあった。これは単なる自己顕示欲ではなく現実と一体感を感じるためのこの男の方策だったのだ。
小説「ゼロの告白」/第十四章 [小説「ゼロの告白」]
いま少しずつ人生の終焉を迎えつつある中で、これまでを振り返った時に必ずしも同じ時代ばかりが思い浮かぶわけではない。普通は人生の中で思い浮かべるのはひとつかふたつの時代だろうと思うが、どうもこの男の感覚は少し違っていた様だ。ひとつの時代の中にいくつもの場面が、それぞれ時代の枠組みを越えて散在している。幼児期の彼が無造作にゾウの絵を描いていたかと思うと、次の場面では十八になった青年が欧州の街角でチョーク絵を描いている。かと思えば学生時代にポスターで受賞して賞状を受け取る場面に転換して、次には何の関連もなく唐突に車で大事故を起こして生死を彷徨った場面に変わる。一体この男の思考回路はどうなっているんだろうと思ってしまう。
どんなに悔しい結果を生んだとしても誰にもぶつけることの出来ない苛立たしさ。外側から見ればそれは一種の潔い覚悟の様にも映るが実はどこにもぶつけようのない不器用さでしかなかった。
小説「ゼロの告白」/第十三章 [小説「ゼロの告白」]
どんな人生を歩んで来ても、それは自分自身が生きている内の話に過ぎない。名誉も業績も生き様にしてもそれらは自意識の作り出したものであり、この世で自分が生きている内にしか感じられない自己満足の塊だとその男は思った。若い頃は考えもしなかった事だったが、この先の人生が何処に向かっているのか何となく感じられるようになった時に、男は人生の総括の様な視点を持つようになった。
昭和生まれの男が二十一世紀を迎え、平成・令和とふたつの年号を経るなどと考えた事はなかったが、奇異な経験を積みながら気がつけばすっかりいい歳になっていた。そしてこの歳になれば、かつて若かった頃の情熱や思考は変色して、すっかり月並みな市民のひとりになっている事に改めて不思議を感じ、また納得もしていた。
季節は冬の始まりをみせて、男の背中にも少しずつ枯れ葉がこぼれ始めているのだった。
小説「ゼロの告白」/第十二章 [小説「ゼロの告白」]
自殺の動機は人さまざまで納得できるものから理解できないものまで、それこそ千差万別と言えるだろう。この男の場合も、本人は真剣だっただろうが他人から見れば愚の骨頂かも知れない。表面上は事業に失敗して借金を重ねたという事になっているが、実のところは愛人をつくって散財したというのが一番の根底にある原因だ。滑稽で浅はかで愚かなその理由を自覚している本人こそは、誰に告白する事も出来ない憂鬱を持っている。世の中の多くの “謎の内”にはこういった封印せざるを得ない理由がよくある。あまりにも馬鹿げ過ぎて理由に出来ないものなのだ。
人は本当に懲りないものである。自分に都合のいい事しか覚えていないし、都合良くしか生きられない。そして自分に都合よく生きているつもりなのに、どこかで踏み外して転落してしまう、そんな愚かさも兼ね備えているのが人間というやつだ。あれほど苦しんで悔い改めた筈だったのに、二十年も過ぎた今、この男はまたしてもあの地獄の門の前に足を踏み入れようとしている自分自身を感じた。
小説「ゼロの告白」/第十一章 [小説「ゼロの告白」]
小春日和のある日、男は小さな包みを持たされて桜椿に囲まれた小高い丘にある『椿山荘』に足を運んだ。そこに集まっていたのは上品な出で立ちをした紳士淑女の面々だったが、その装いとは裏腹に何か妖しげな品の悪さを漂わせていた。男はその中の一人の長老ともいえる人物に包みを手渡して会釈をした。中身を既に知っているのか、長老は何でもない様な素振りで受け取ると奥の部屋に引っ込んで行った。
後に政財界を巻き込む疑獄事件の種となった株券の束だったとは、受け渡しを任されたその男は知る由もなかった。
「ゼロの告白」/スピンオフ [小説「ゼロの告白」]
では何故生きる事を選択しているのか。それは多分欲望から来るものだろう。その欲望は人それぞれで他人には理解できないものもある。生まれて来て、命があり、欲望があり、何か訳があって生きているこの世界はつまり“何かが在って『無』ではない”という事だ。
いつからか男は自分の事を“無頼”と呼んでいた。これまでの人生を辿ってみればいつ頃からそんな性質は形成されて来たのだろうか、自己形成の歩みを振り返り始めたときに彼はそこに魂の深い因縁の様なものが息づいているのを感じたのだった。
人というのは空の箱に何かを押し込んで満たさなければ生きていけない宿命的な生きものだ。若い頃はその箱を満たそうと飢えた眼をギラつかせて街を歩いた時代もあった。若気の愚かさで失敗も多かったが、めげる前に周囲に八つ当たりをしながらも挑み続ける根性があった。
そしてその習性は歳を経てシニアと呼ばれる年齢に達しても、心のどこかに燻り続けて決して空の箱を空のまま認めようとする気配はなかったのだった。若しかしたら何か勘違いをしているのかも知れないと思っても、決してそれを認めようとはせず、過去に眺めた栄光の偶像を現実のものだと自分に言い聞かせて突き進むしかない。醒めた気持ちの裏側で陽炎と知りつつ楽しむ酔狂なのだった。
「空っぽな箱」は生まれた時は空のままだったが、この世を去る時には満たされているのだろうか?空っぽのままで一生を終わることは“失敗の人生”と云う事なのだろうか?土から生まれて土に帰るかの如く、ゼロから生まれた者がゼロに戻ることが人生の総括ではないのだろうか。男は一生を賭けて問い続けてきた魂の告白を語ろうとしていた。
小説「ゼロの告白」/第十章 [小説「ゼロの告白」]
原風景を辿ってみれば、両親が行商の共稼ぎ夫婦だったために、幼い頃から他人の家に転々と預けられた家が天理教の会所だったこともあった。お堂の階段を上がった所に丸い囲み火鉢のようなものがあって、そこで年老いたお婆さんに世話してもらっていて微細な事は覚えていないが何となく非日常的な空間の印象だった。その体験からか宗教臭いと言われるものに少しも抵抗感が無く忌避意識も湧くことがなかった。
会所の様な所に聖書勉強会という名目で週に一回通っていたのだが、教義の説明が理論的であり科学的だったところに共感を覚えて、今の自分にはそれが話を聞くに足るものだったようだ。人間の脳は殆ど無限に近いくらいの能力があるのに使われていないという話や、古代の人間はもっと永く生き長らえるだけの寿命があった話などを織り交ぜて“永遠の命”につての語りがあった。以前なら醒めた気分で聞いていたであろう説話が、どういった訳か素直に聞き入れられてそんな自分に驚かされてもいた。
小説「ゼロの告白」/第九章 [小説「ゼロの告白」]
社会に守られていない女の抵抗ほど男にとって微力なものは無かった。女もその無力さを知っていたから申し訳程度の抵抗をするだけで、結果が目に見えていたかの様に体を任せた。決して心では受け入れていないのに体はまるで抵抗をしない様相は、日常の表層と深層を垣間見た様でセックスを終えた男を空しい気持ちにさせた。
ただ若さの捌け口を処理しただけの感覚の男にとって、帰宅した若者が憤慨して絶交を言い渡した事が予想外だった。共有意識の理解を認め合っているという誤解から成り立っていた幻想を砕いて、若者と自分を取り巻く全ての環境から繋がりを断絶されたような気分になった。
小説「ゼロの告白」/第八章 [小説「ゼロの告白」]
練習が終わると女は若者のそばに寄り添った。軽い談笑をすると二人は男の方に歩み寄って言った。
「これから一杯飲みに行くけど、付き合いませんか?」
若者とは毎度会釈を交わす程度で女とは初対面だったが、戻っても何をする当てもない男はこのまま夜の街を彷徨うことにした。男二人の間に幼な顔の女が一人、妙な取り合わせが連れ添って飲み屋を数軒はしごして帰路に着いたのは明け方の五時過ぎだった。
小説「ゼロの告白」/第七章 [小説「ゼロの告白」]
しかし人というのは不思議なもので、枠からはみ出せばはみ出したで、自分を律する何か思想や主義といったものを求める様になってくる。固定観念も持たず何に立脚する事もなく生き続けるという事が人間には出来ないものなのだろうか。自分の中心にゼロの存在を受け入れる発想は人間にとって難しいことなのだろうか。
小説「ゼロの告白」/第六章 [小説「ゼロの告白」]
「卵が先か、鶏が先か」という言い回しがあるけれど、どちらが原因とも判断つかない因果関係はよく見られる事で、この男の場合も死の淵に立たされる経験は何処から来るものなのかは実は良く分からないでいた。生涯に何度も体験して来た生死の境い目はもしかすると幼い頃の流転の生活がそうさせたのかも知れない、いやそうに違いないとも思えるのだった。
スリルの快感を味わっていた訳ではない。その行為は言い知れぬ不安と恐怖に襲われる逃れたいほどの苦痛だったが、それなら何故敢えて求めるのかという問いがこの男の個性の不条理な部分でもあった。学生の頃は様々な自己矛盾に悶々としながらも前に進まなければ落ちこぼれてゆく時代の強迫観念に追い立てられ、その理由を探るよりもとにかく前に進む行動あるのみという結論で行くしかない時代でもあった。
小説「ゼロの告白」/第五章 [小説「ゼロの告白」]
この頃の男は何に対しても貪欲に吸収する欲求があるだけで、だからこそ何に対しても不満を感じることが無かったようだ。どんな処遇を受けてもどんな環境に置かれても、まるでそれを楽しんでいるかのようにさえ見えるある種の不敵さを持っていた。幼児期から大人たちの間を転々と順応を強いられて過ごしてきた少年時代は、彼にいつ如何なる時も場に溶け込んでその中核を掴む才能を磨いてくれたようだった。
小説「ゼロの告白」/第四章 [小説「ゼロの告白」]
他所の飯を食べる…。幼い頃の体験が何か特別な事のように意味付けられる事もあるようだ。人間は裸一貫で生まれてくる。考えてみれば生まれたときから何かにすがり何かを注入されながら生きているのだが生まれ出でた時点では何の予備知識も固定観念も無い。生まれ出でる環境や条件を自分で決められる訳ではなく、ましてや親を選んで生まれて来る訳でもない。人は育ちながら自分に適した人生や世の中の概念を作り上げてゆくものなのだ。その考えはこの男が幼い頃から様々な環境で流転の様に育ってきた事と無関係ではないように思える。
行商で朝早くから家を空ける両親に物心ついた頃から他所に預けられて一日を過ごす暮らしを習慣づけられてきた。幼稚園に入園するまでに数か所の家庭を転々としたがその中には酷い家族もあり、いじめや差別の他にも満足に食事も与えられずに栄養失調に陥るという事もあって決して楽しい日々という訳ではなかった。
幼い頃の育つ環境や生きてゆく条件というものは一方的に与えられるもので 決して選べるものではないのだが、その後の成長段階で自分の与えられた条件をどのように解釈して捉えてゆくかは個人の資質によって異なっているものだ。この男は神経質で臆病な性格だったくせに、どういう訳かおっとりとした雰囲気を漂わせて周りの環境に溶け込んでいるかのように見えた。彼は無意識のうちに身の回りの状況から自己を肯定させる要素を見い出す“目利き”を発揮してきた。それは環境に順応しながら生き抜いてゆく生きものとしての生存本能なのかも知れない。男は「肯定的に受け入れる」という考え方こそが生存の秘訣としてふさわしいと選択してきたのだった。
小説「ゼロの告白」/第三章 [小説「ゼロの告白」]
【ゼロの告白/第三章】
昭和五十二年十二月。寝袋と現金5万円だけ持って夜行バスに飛び乗り、東京駅丸の内に着いたのは翌日の早朝だった。
駅出口の階段を下りて地下の『東京温泉』でひと風呂浴びるとそれまでの緊張感が和らぎまるで気ままな旅に出たような錯覚に襲われた。根っから呑気者の自分自身に少しばかり呆れた気もしたが、すぐに気を取り直して冬の寒空に顔を向けた。
都会の電車は既に早くから人々を運んでいる。ふらりと飛び乗った環状線は気がつけば渋谷ハチ公像の前に来ていた。
通勤時間にはまだ早い当時の早朝ハチ公像前にはその日の仕事を求める人たちが集まる場所でもあった。俗称『ニコヨン』と呼ばれる日雇い労働者を何処からともなくやって来たトラックが乗せてはそのまま工事現場に直行するという、労働基準法を完全に無視した無法の労働市場がそこにはあった。
もう少し時間が経てば大都会の通勤ラッシュにこの界隈も雑踏の嵐と化す。男はハチ公像前に腰を下ろしてこれからの行く先をぼんやりと想ってみた。何か計画を持って出て来たわけではない。まさに行き当たりべったり風が吹くままの股旅だ。
初めての街に足を踏み入れたら、まずは駅の構内で体を休ませながら街の空気に馴染ませるのがパセンジャーとしての異邦人のセオリーである。
知り合いもなく顔見知りもいない誰から相手にされることもない空気の様な存在の自分が、何かの種を蒔いて育ててゆくにはまず地慣らしから始める事が妥当な方法だろう。子どもの頃から様々な場所で転々と預けられてきた習性から少しずつ環境に馴染む生き方を最良の術として身につけてきたようだった。
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小説「ゼロの告白」/第二章 [小説「ゼロの告白」]
【ゼロの告白/第二章】
振り返って考えてみれば、目に見えて蓄えられたものが何も無い男になっていた。
次から次へと流れるように生きてきた。その時その時を真剣には生きて来たが、何も残してこなかった。
“次につなげてゆく、蓄積してゆく”という計画的な生き方をして来なかった自分に気がついた。
「人生は一度きり、チベットの砂絵のようなもの」とうそぶいていた男だったが、時には通俗的な気分で見得を切りたくなる事も事実で、何も形のあるものでは証明の出来ない事を知ったときに軽い疑問が頭を過ぎる事がある。
「私が確信しようとしているものは一体何なんだろう?」
その男は自分の人生を自分の手でしっかり掴んでいるという自覚がある。子供の頃に恐れていた事々がひとつずつ解消され、堂々と生きる感覚に支えられている。もしもここで人生が終わるのであれば、それはそれで良いとも思える心境である。しかし、まだまだこれから物語りが続くとなると、今後の展開と身の振り方を考えて行かなければならない。目に見える実績らしきものも、社会的地位らしきものも何も持ち合わせていない自分自身に対して、本当に私は泰然自若としていられるのだろうか?
そしてこれから先も、このままで何も築き上げる事無く、自分なりの答えを抱きながら淡々と生き続けてゆけるというのだろうか?
もがきながらも辿り着いた終の棲家は悩みも消え失せた楽園のように思えたが、暫らくするとそこにも居続けられない自分の業の様なものが目醒めてくるのだった。
「何も求めない」という気持ちだけでは生きられないものなのか?放浪の果てには待つものも無く、郷から遠く離れ続ける定めでしかないのだろうか?
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