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子猫レモンがやって来た。 [ねこ次元]

長く飼っていた老猫ミカンが亡くなってガランとしていた我が家に子猫がやって来た。保護猫として飼われていた雌猫が隣の県からやって来たのだが、生まれたばかりの頃に虐待されていたらしく、来た時は栄養失調で病気を持っていて鳴くことも出来なかった。
今ではすっかり元気になって家族にも馴染んでいるが、親猫と生まれた時から離れていたためか猫の習性をしっかり受け継いでいないようで初めの頃はトイレも上手く出来なかった。

警戒心も取れて孫娘たちとも仲良く出来るようになったが、まだ爪を出す癖が抜けきれず抱かれた時にツメを出して引っ掻くので彼女たちから怖がられているようだ。
母親を知らずオッパイを咥えることなく育ったからか、肉球で
モミモミして甘える事が出来ずにいるので教えてあげたいと思っている。

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猫たちの残像 その6 [ねこ次元]

猫たちの残像は私に思い出以上のものを与えてくれる。もしかすると今でも何処かで生きているのかも知れない。魂の触れる感触とはそういうものなのだろう。
猫たちの残像の息音が聞こえる。
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縁があって我が家で暮らした大勢の猫たち。猫たちとの一期一会は人間との出会いと同じだね。しっかり私の一生の中に記憶を残してくれた。
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そう言えば…子ども時代の猫たちの写真もたくさんある。この子たちが大きく育っていったのかと思うと…里親としては切ない思いだね。
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そしてオチャメな写真も撮らせてくれたっけ…「寝たばこのコブチちゃん」
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猫たちの残像 その5 [ねこ次元]

猫たちの後ろ姿は何かを語っているようだ。

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猫たちと暮らしていた頃は、猫たちの言葉が分かるような気がして、よく語り合っていたものだった。
通じ合うっていうのは言葉自体じゃないんだ。言葉を通して何かが触れ合う事なんだ。

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猫たちの残像 その4 [ねこ次元]

猫たちの残していった沢山の写真。ひとつひとつに物語と思い出が詰まっている。
そうやって…猫も私たちも命を終えてゆくのだ。だから悲しい事はない、淋しい事はない。
しっかりとこの時間をいきてゆこう。

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命を終えた猫たちは一体どこへ行くのだろう?その魂は別の次元で生まれ変わるのだろうか?もうその時は猫の姿ではないのかも知れない。
もしかすると人間の命の一部となって再生した姿を見せてくれるのかも知れない。

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私はまだまだ若かった。そして猫たちもまた若い活力を溢れさせていた。
様々な形で独立し、様々な形でこの場所を去ってゆき…いつの間にか残されたのは老猫と私の二人ぽっちだった。

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猫たちの残像 その3 [ねこ次元]

今から18年も前の嵐の日のこと、我が家に偶然やって来た三匹のはぐれ子猫たちが棲みつき子どもも生まれて、いつの間にか大所帯となりました。

総勢十二匹の猫たちはたくさんのエピソードと物語を残してくれました。
彼と彼女たちの残像を引っ張り出しては懐かしさに浸っている、高齢GGの私です。

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無邪気だった時代から、だんだん知恵と自意識が付いてきて猫としての人生…いや、ニャン生を歩き始める。
気がついたら
いつの間に彼らを眺めながら共に暮らしている私でした。

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一枚一枚の写真が猫たちの残像となって、その時々の思い出を語り掛けてくる。
私はいつだって忘れてはいないよ。

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猫たちの残像 その2 [ねこ次元]

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17年以上いた愛猫が亡くなり、その後に来た新参猫が家に懐かず出て行ってしまって、すっかり寂しい生活になった。
居なくなってみれば、暮らしの中に猫たちがいた事はかけがえのない貴重な時間だった事がよく分かる。
これまで一緒に暮らしてきた大勢の猫たち。いま一度記憶の中から呼び起こして「君たちの事ずっと忘れてないよ」と告げよう。

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猫たちの残像は私の人生の中でいつまでも生きている。家にやって来たばかりの幼かった頃。元気に悪戯ばかりで活発だった時代。そして年老いて老衰して看取った事もあった。
ささやかな命だったが、はっきりと私の人生の中で生きている。愛を感じることが出来る。

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そして時々、思い出の中から猫を引っ張り出す [ねこ次元]

十七年生きていた猫が亡くなってから半年が過ぎこの一年を終えようとしている。思えば色々と猫のスケッチらしきものを描いてきたが、その一部を拾い集めてまとめてみたい。
これからも時々、私の中にある「猫の残像」を引っ張り出すだろう。猫との思い出は私のもう一つの世界の中にいる友達だ。

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猫を描きながら、猫との日々を描いていた。…そんな気がする。
猫との繋がりが私に別世界との繋がりを発見させる。

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これまで飼ってきた多くの猫たちと犬。飼ってきたと言うよりも、共に暮らしてきたと言った方が私にとっては正しいかも知れない。彼らは様々なことを教えてくれる。
これからも、まだまだ彼らを引っ張り出す機会はあるだろう…。

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生まれたときから猫と居た [ねこ次元]

 子供の頃の私は飼い猫と共に生活していて、その猫と暮らす時間が多かった。名前は「みーこ」誰が付けたのか知らないが、私がものごころ付いた時から名前があった。
 毎晩みーこを布団の中に入れて寝ていたが、ある日その布団の中で出産した。今にして思えば、みーこと私には何かの縁があったのだろう。その後、中学生になって引越しをするまで共に暮らした。

 だから、みーこが逝った日は悲しかった。私にとっては予期せぬ突然の死だったが、ある朝、箱の中で冷たくなっていた。12歳という歳だったので老衰にはまだ早く、その日まで普段と変わりなかった様に覚えている。
 そのまま学校に行って、帰って来たら箱は閉じられていた。今思えばあっけない別れだったが、そんな情景が五十年以上過ぎた今になっても記憶の片隅に残っているのは、やはり生活を共にした掛け替えのない友だったからだろう。

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 みーこは、家族の一員として特別な存在だった。子供の頃から “カギっ子”で両親のいる時間の少なかった私には外から帰って来ると猫がいつも遊び相手で、餌をやったり戯れさせたりしていたものだった。
カギっ子=親が行商などで昼間は家を出ていて、帰ってくるまで一人でいる子供)

苦楽を共にしたと言えば大げさだが、私にとっては初めての飼い猫でそれくらいの存在だった。幼い頃からの猫との暮らしは私に動物に対しての愛情を育ませて、動物を虐待する級友たちと喧嘩することも多かった。
大人になって十数匹の猫たちを飼うことになったけれど、私の原点はやはり子供の頃に飼っていた みーこが今でも生きている。

 

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猫たちとの残像 [ねこ次元]

思い起こせば初めて猫を飼ったのは生まれて間もない幼児期の頃。記憶の中では、生まれた時から猫と一緒に過ごしていた。

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 ↑<生まれた頃から一緒に育ってきた「みーこ」と撮影>

そして今年十七年間過ごしてきたミカンが老衰で静かに逝った。

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「みーこ」「ミカン」「ブッチ」「シロチビ」「コブチ」「クロチビ」「タイティン」「シチサン」「アラ」「コミカン」「コアラ」「ゴマ」「メロン」…多くの猫たちと過ごしてきた日々。
みんな居なくなった今では彼や彼女たちの残像が寄り添ってくれている。

私の中のポッカリ空いた一部分を埋めるように猫たちとの残像を散りばめてみよう。
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それぞれに命の歴史と物語があり、いまでも私にたくさんのことを教えてくれる。
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猫たちとの日々…彼らの残した仕草や言葉を振り返りながら、共に生きた時間を読み解いてみたい。


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ねこ視点 [ねこ次元]

猫と一緒に暮らしていると、時々猫の世界に足を踏み入れることがある。
そうすると不思議な事に、猫の視点からものを見るという感覚を体験する。

長く一緒に暮らしていると猫の方も私との最適なコミュニケーションのツボを覚えるらしく、上手なおねだりの仕方とか、意思を伝えるだけでなく私をコントロールするテクニックまで身につけるようだ。
そしてどちらがペースを握っているのか、ハンドリングしているのか?されているのか?分からなくなる。

どちらが主でどちらが従か…そんな事にこだわってしまうのも人間の性(さが)の一部なのだろう。そんなものがある限りコミュニケーションの共有なんて難しいに違いない。

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他人の立場になってものを考える事でさえ難しいのに、猫の視点でものを見るなんて出来っこない。
そんな声が聞こえてきそうだが、果たしてそうなんだろうか?

なまじ同類で分かり合える筈だと考える方が誤解を起こしやすく、そもそも分かり合うことは難しいと覚悟したほうが案外と共通項を見出しやすいようだ。

決して猫たちとコミュニケーション出来ているなんて思い上がりはないけれど、理解し合える“理想の形”の何たるかは少しは分かったような気がしている。

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猫たちのことを考察し始めたおかげで、私は「次元」というものの存在を感じ、意識することが出来るようになった。
このことは還暦を過ぎて人生の終章に向かおうとしている私に、大切な気づきの機会を与えてくれた。
それがどの様な事なのかここで説明することは出来ないが、私の日々の生活や創作活動にはその感性が醸し出されてくることだろうと思う。

ねこ視点で俯瞰したり仰ぎ見たりしてみると、世界がまるで違って見えるのが面白い。 
這いつくばって、猫と同じ目線の高さで、時にはにゃ~ごなんて声を発してサインを送ったりしていると、
人の社会からはどう見ても奇人変人の類いに仕分けされるのでしょうね。(爆)

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ねこ背 [ねこ次元]

ある日、猫の背中に興味を持った。
何だかとても可愛く、そして哀愁を感じたからだ。

そもそも背中というものは、どこか無防備であったり隙があったりしてもう一方他面の姿が垣間見られるところだ。
猫たちにしても耳を忙しく動かして背後には気を配りながらも、その内面に押し隠している人懐っこさや孤高の哀愁は滲み出てしまうようだ。

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猫はどこか孤独なアウトロー的雰囲気を醸しているように思う。
時には媚びたようなポーズもとるのだが、プライドが邪魔をするのか突然醒めてしまって本来の“無頼の表情”に豹変したりする。

「親の背中を見て育つ」という言葉がある。
「背中が物語る」「背中で伝える」という表現もある。
背中というものは寡黙なくせに雄弁に語る。

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ツンと澄ましたその風情
身勝手な潔さが憎らしいけれど心地よい。

儚さそうで隙がない
凛とした猫の背中は“無頼の魂”を物語る。

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それでも時には何かを心待ちにしている節がある。
澄ましたクールな横顔が淋しそうなグラデーションに変わるとき
猫にも無理して生きる様な“美学”があることを発見してしまう。

一見薄情そうな猫の横顔にも、そこには深く押し込まれた情の世界があり
それを物語る猫の背中がある。
「猫に九生あり」…九生もある猫の背中なのだからそれはもう奥深い筈である。

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猫の背中を読み取ったなら、貴方も少し“猫の次元”に足を踏み込んだことになるのでしょうね。
私にはそんな気がしてなりません。
 

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ねこ路地 [ねこ次元]

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愛猫の行動を眺めていてふと気になった。
昼間はものぐさのように眠っているのだが、夜行性のせいもあり夜になると目を輝かせて外に出てゆく。
一体どこへ何しに行くのだろうか?
それこそアニメ『猫の恩返し』のように、どこかに猫だけで井戸端会議をするコミュニティ世界があるのだろうか?
 

猫の次元を訪問して一度探索してみたい。
だって私も子どもの頃から夜行性で、狭い路地裏が大好きな人種ですから。

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猫は基本的に社交が嫌い。定期的に集まって互いの近況を確認し合ったりもするけれど、飽くまでも自分の肉体的健康や身分的存在確認の為であって、決して人間のように社会的集団を求めている訳ではないようです。
基本的に猫は「無頼」なんです。だからそこが私の気を引くところ。

「猫が無頼だなんて誤解だよ。餌を欲しがったり、ねこじゃらしで遊び相手を求めたりするじゃないか」と言う声が聞こえてきそうですが、それでも猫は“無頼”なんです。決して人に期待はしていません。

野良犬と飼い犬では明らかに人間に対する姿勢が違うように思えますが、野良猫と飼い猫は一見違うように見えていて実は同じスタンスを維持しているように思えます。
愛猫を観察していると、我が家に入り込もうとする野良猫を威嚇して自分のテリトリーを固持しようとはするのだが、夜になると住み家を離れて何処か探索に足を運んでいる様子なのです。
犬は人に付き、猫は家に付くと言われますが、愛猫にとっても我が家は単なる餌の得られる生活の基地以外の何ものでもなく、その心は自尊心の高い“猫ポリシー”をヤサグレの野良猫たちと共有しているように思えます。

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今は空洞化してシャッターが閉まったままの商店街をまったりと歩く姿。
滅亡したローマ帝国の廃墟にたむろする猫たちにも共通する、ものの哀れを感受する様は決して犬たちには真似のできない猫の精神性の深さのように思えます。

独居老人宅の門前に誰に断ることも無く禅僧のように黙然と暮らす様は、もはや無頼以外の何ものでもありません。

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もともと昔から路地裏というシチュエーションが好きだった私は、そこに猫を発見すると何だか心まで通じ合えるような気になってしまいます。

【ねこ路地=necology:猫の生態学の意味】 by 扶侶夢


ねこ親書 [ねこ次元]

猫と私の出会いは、物ごころが付いた頃の幼児期まで遡る。
考えてみれば、生活体験を共有することで私の人間形成の一端を担ってくれていたと言っても過言ではない。

いま改めて猫たちとの一期一会に感謝しながら、彼らとの語らいの中で人生の風景を眺めてみたい。
そこで「ねこ親書」…こんなタイトルをつけてみた。

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人生とは儚く刹那的に見えていて、そのくせなんと重厚で奥深いものなのだろう…
猫を傍らにおいて共に暮らしていると人間世界を別の視点、別の次元から眺める機会を体験する。

絵を描きながら様々な固定観念と対峙し、時にはそれらを乗り越えようと模索していると、ふと自分個人の観念や次元から解放されて自由な魂を得られることがある。
そんな時、私は猫次元の住人になる事があるのだ。

実は、別に猫でなくても良いのだが…
例えば犬でも鳥でも蛇でも良いし、草花や樹木など生命のあるものなら何だって良いのだ。
彼らは自分たちの命をどう認識していのだろうと思う時がある。

猫たちを眺め、時々目線を共有して過ごしていると様々な事にこだわり、呪縛されている人間というものが“苦痛の動物”に見えてくる。
人の社会とはそれなりに素晴らしいものなのだが、それでも完璧ではないし理想ではない。猫の生きている猫社会も不完全ではあるのだが、それでも苛立つこともなく適当に生きている。

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人が猫を眺めて論じているように、猫からの視点で人との共有世界を論じてみるのも面白い。 

ところで、夏目漱石はどうして猫の視点から人間社会を描くことを発想したのだろうか?
「吾輩は猫である」を思い出してそんなことを考えてみた。確かに猫には他の家畜やペットには無いクールな観察眼が備わっているかも知れない。
ある意味で、人間をより高い次元から俯瞰して眺められる唯一の生き物が猫だとしたら面白い。

人は達観すると猫の境地にゆくのだろうか?犬神様は聞くが猫神様は聞いたことがない。
犬は祀り立て崇められるが猫を崇めることはない。猫はこの日本(大和)では恐れ畏れられる生き物なのに違いない。
古代エジプトなどでは玉座などに座って誇り高い地位を確保しているのに、この国では化け猫だとか九回生き返るだとか、怨霊の象徴のように扱われている。たぶんこれは恐れから来るものなのだろうけれど、何故そんなに畏れられるのだろうか?…今後の私の研究課題のひとつである。

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これからも猫たちとの交流を深めたい。…が、私の場合は世間一般のペット愛好家とは違っているようで実に個人的思い込みと偏見の強い付き合い方なのである。

それは子どもの頃から還暦に至るまで猫たちとは様々なエピソードを共有してきたからなのだろうと思う。
ほとんど猫と一緒の時間を過ごしてきた幼少の頃。学生時代に遭遇した、恐るべし「猫殺しの辰」との闘いの日々。新婚時代の借家にやって来た野良猫。そして12匹の愛猫たちとの個性的な生活…などなど。
こうやって振り返ってみると、やはり私の人生形成に少なからずの影響を与えていることに改めて気がつく。

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☆ 


久しぶりに猫を描く [ねこ次元]

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雑誌の挿絵で久しぶりに猫の絵を描いた。

車で轢いてしまった野良猫の命を結局助けられずに墓をつくって供養をする、という少しヘビーな話なのだが、
ここのところ猫の描写をしていないので近頃の自分のスタンスを確認する意味でも興味深かった。

そしていざ描き進んでみると筆者の心情を理解できる部分も多く抵抗なく取り組めた。
挿絵を描くときは、やはり内容に理解や共感が出来ないと私はのれないタイプらしい。

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構想の途中で放ったままになっているが、猫を主人公にした絵本を創るきっかけとなったのも、愛猫との死別だった。 

子供の頃を振り返るとこれまでに何度となく犬や猫を飼ってきたが、それほど深く彼等のことを想い起こす事はしてこなかった。
共に過ごした日々への邂逅や感慨を暖めることもなかった私だったが、忘れられないエピソードは数々ある。

挿絵を描いていて、改めて自分のライフワークの位置づけとして「猫・犬との交流」を描いてみたいと思った。

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ひと口で猫を描くと言っても、それには様々な方法と視点がある。

私は芸術家ではないから、私にとって「表現者」というスタンスから生み出される「猫」は媒体の一種なのかも知れない。
何かを伝えるための媒体としての「猫」…そんなイメージが浮かんでくる。


▲今は亡きアラちゃん@2010年・アジアカップ

 


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写真作品としての「猫」 [ねこ次元]

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[猫]

もしもこれが絵画であったなら「猫」というタイトルはつけないであろう。(そもそも構図的に「絵」として成り立たないかも知れない) 私が絵画でネコを描こうと意図するなら、それは対象を画面の中に配置して観察するように描こうとするからだ。

しかし一枚の写真として、その場面と時間を切り取った作品として感性を表現しようとした場合は、ねこの存在感だけで充分だと考える。
「描かれていない絵」は無さそうだけれど、「写っていない写真」というのはあるのかも知れない。

“眼で見ることの不自由”

“時空に囚われることの不自由”

芸術はそれらからの解放に向かって、挑戦的な一面を持っているように思える。 


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