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天下国家を語る志し [21世紀の種]

世論として政治や風俗を語るとき、どの様な視点で語っているだろうか。そして論じられる世論を読み取るときに、語る者の視点で語られているという事を考慮に入れながら読んでいるだろうか。

近ごろ思う様になったのは社会の基本的な理念の変化である。もちろん長い歴史の中で考えれば今に始まったものではないが、昭和生まれの私としては考えを根底から揺るがすものも多い。
よく昭和時代に公開された邦画・名画の数々を見ていて思うのは、現代と比べて根本的な変容であり、戦前のものではモラルや道徳規範の部分であったり、戦後はやはり学生の社会的意識の様に思う…。この辺が変わるとものを語るときに指針とする基本的な概念や視点が変わって、過去の基準が意味を為さなくなる。つまりすべて過去は間違いだったという事になってしまい、新しい考えに全てが靡いてしまうという訳だ。

ここで云いたいのは、どちらが正しくてどちらが間違っているという話ではなく、今語られている話は、今の価値観を前提にして語られているに過ぎないという事なのだ。これが正しいなどと分かったかのような顔をして自信たっぷりに語る烏合の衆の言葉に乗せられず、自分自身の言葉で語る事が、天下国家を語る者の努めだろうと考える。
時代の流れに乗ってゆく事は大切だ。ノスタルジックな気分で温故知新を訴えるわけではなく、よく吟味しながら時代に沿ってゆくという心構えが必要だと思っている。

若者たち2.jpg

この歳になって改めて観た『若者たち』のTVはとても新鮮で感動すら覚えた。
この感覚は一体何だろうか?私たちは本当に成長しているのだろうか?

 

余談:現代とその頃の若者たちを考える


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召集令状~究極の国家権力 [21世紀の種]

“国家に逆らう” 口で言うのは簡単だけれど実際にはなかなか難しいものだ。
我が国・日本においては古くから家制度が行き渡っていたので国家=アイデンティティの拠りどころとして国家に謀反を起こす者は道徳的にも欠落している者とされてきた。ある意味で “生まれた時から家長制度の国家と一心同体一蓮托生” というのが古の日本人の典型的な生き方とされてきた。

第二次大戦で敗戦した日本は戦勝国の支配下で国家の理念や概念を大幅に変えられたが、それでも古来から日本人に根付いていたDNAは簡単には変えられなかった。
何だかんだと言っても、国家神道は仏教と融合せず交わらずに存在し続けているし靖国神社も国家に守られて確固とした存在を維持している。国家としての宗教のない日本ではその権力の象徴としては神道からくる「神」を鎮座する事になるのだろう。

毎年8月15日の終戦記念日が来ると太平洋戦争の是非が論じられて、戦争を知らない子供たちにも戦争のイメージを新たに植え付ける。戦争や原爆の事実を学ぶことは良い事なのだが誤った固定観念をDNAに植え付けてしまう危険性がある事も事実の様だ。
そこでこれだけはしっかりと言っておきたい。人間の自由意思を無視した「召集令状」はどんな理屈をつけても “国家権力の最たるものである”ということ。
徴兵制度の無い珍しい国である現代の日本では兵役に取られるという感覚が分かっていない。人間一人の価値なんて無いが如しで、兵隊の命なんてものは戦闘の捨て駒として扱われるのが現実だ。人間を単なる捨て駒のひとつに仕立て上げる「召集令状」とは究極の国家権力の象徴の様だ。

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美しい言葉ほど胡散臭いものはない。現代ではSNSがその役を買っているけれど、烏合の衆の集まるところに危険な罠が仕掛けられている。
ウクライナを契機として世界中が戦争を始めそうな気配は、かつての第二次世界大戦の始まった時代の雰囲気を匂わせている様相だ。日本においては戦争なんて考えられないと言って、これまで唯一徴兵制度のなかった日本が戦争の出来る国となって徴兵制を復活させることになったら…その時は覚悟しておかなければならないだろう。

 

タグ:召集令状
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コロナの登場 [21世紀の種]

 '20年代に世界を席巻したコロナ・シンドロームは21世紀の人類を根本から変える引き金となって定着しようとしている。
インフルエンザのように一時的な猛威を振るった後は、ワクチンの開発で鎮静してゆくものだろうと初期の段階では言われていたが、何度もピークを繰り返し第七波を向え今後も第八波・九波…と脅威のレベルアップを重ねてゆく事だろう。

コロナ登場の前後では社会の構成やそこで暮らす人間の質自体が変わろうとしている。社会の基本的な構造が変われば、そこに対応して生きるために人間のあり方も変化する。これまでの約束事を破棄して打ち立てる新しいルールとはどういったものだろうか?それは従来の  "効率や合理性" に縛られずに自分自身の価値判断で人生を選んでゆくことだろう。
他人と繋がるという事を素晴らしい事のひとつに謳って推奨してきたテーゼは、人間の関係性においても変化が出るだろう。「助け合う」「世話をする」といった概念は求められる行為として認められるが、その形はこれまでの様な密なものではなく深くは関わらない形態を指向する。

動植物たちは何も変わることはない。人間の世界だけが変わろうとしている。これは何を意味しているのだろうか。
生命にしても宇宙や世界にしても、私たちが言っている概念はすべて人間社会の作り出した妄想であり真実はまったく別のものだという事なのだが、それが大きく地殻変動を起こしている。人間の営みを基軸にして進められているかの様なこの世界だが、その発想を根本的に見直す必要が生まれている。「脱・人間主義」とでも云おうか。

いつの時代にも私たちは過去の概念を引きずったまま、次の思想を継ぎ足して生きている。そしてそれが新しい概念であるかのように古いものを弾劾する。権威の表向きが変わっただけでその内容は実は少しも変わっていないのだ。その事に気づかないで単なるパワーシフトで何かを成し遂げたような気がしている。この愚かな歴史が人間社会というものなのだろう。
コロナの登場はこれまでの人間の営みや発想から脱却するためにひとつのチャンスを与えてくれたのかも知れない。…とは言っても大方の人間がこれまでと変わりない生き方を続けるだろうけれど、僅かな人たちがその意味に気づいてこれまでを超えた視点で生きる事を試すことだろう。
これこそが21世紀に蒔かれた種なのかも知れない。

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【蛇足】


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生命と存在の核心 [21世紀の種]

今21世紀に解明される事のひとつ、それは生命の謎かも知れない。
科学的には既に解明されている部分もあるが難しいのは哲学的な範囲での核心である。人間を他の生物と同様に単なる生命体として理解するのなら既にかなりの部分で把握できている様に思うが、その精神性となると未知の部分が大半だ。
例えば “神”の存在。信仰というものを発明したために人間は霊長類で最高の力を持って地球上で君臨することが出来るようになった。この「神という発明」はいったい何処から発想し生まれたのだろうか?正義という概念や存続する大義も哲学的な発想は他の生物とは一線を画する能力だ。

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人間の観念世界において究極の二分割問題とも云える「生と死」がある。それは人間が根源的に持っている “未知に対する畏れ”の感覚とシンクロして神を創造し、その生み出した神の存在によって人間を “畏れの概念で統括しようとする”試みである。
原始のいつからか、あるいは誕生した時からか人間の性として持っていた「存在することの恐怖」が、創られた「架空の原罪感」と共に人間の歴史を進めさせる原動力となって来た。言葉を変えれば、人間は何かから逃れ贖罪されるために生きて来たとも言える。

今世紀に解明されることは生命の核心であり、既成社会の逆転の発想をもって、偽りの社会に洗脳されない生存の確立という概念だろう。

 

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永久の流れの中で [21世紀の種]

自分の年齢から推測して私が22世紀を迎えることはないだろうから今ここで言っておこう。
二十世紀に生まれた私は世紀を越えて二十一世紀に生きている。前世紀から今世紀を迎える時に世界はどの様に変わってゆくのか楽しみでもあったが、大きく見れば世界はちっとも変わらないという事が分かった。宇宙なる世界は完成された姿として永久にあり続けるのだろう。そしてそれぞれの世紀でそれぞれの姿を映し出してひと時の答えに落ち着く。
私たちは自分の時代を生き切ることで全てを語るしかないのだ。自分自身を語ることは自分の生きた時代を語る事であり、ことの是非やその審判は自分が下すものではないという事が厳然たる事実だろう。

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たかが二十数年が過ぎただけで、まだ二十一世紀を語るには早計であるが、今世紀の終わりまでには人間世界を計る視点や観点が新しくなるかも知れない。
変わらない世界を生き続けて生き抜くために、世界規模の新しい方策が考えだされるかも知れない。それはこれまでの固定観念や人間のどうしても書き換えられなかった“さが(性)”や習性に革命的な変化を与えるかも知れない。そんな気がしている。

宇宙の概念や多次元の解明がより鮮明になり、人間の理解の範疇も変わってゆく事になるのだろう。苦しみや悲しみ、幸不幸の概念は変わらないにしても、それに向かってゆく人間の営みには変化が起こるかも知れない。

森羅万象。人の営みも人間の本質も何ら変わりはないだろうが、次元を変え観点を変えることで概念は変わる。そこに救いの道は生まれるのかも知れない。

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進化する表層社会 [21世紀の種]

時代が進めばますます体裁の良い社会構造が様々な規約を伴なって打ち立てられてゆく事だろう。ますます多くのものが人工的になって人間が自然社会を制圧したかのような印象を受けるかもしれない。そしてそれを人々は「進化」と呼ぶ。
例えばの一例だが、国民を何らかの目的に誘導する場合によく行われるのが国を挙げての一大イベントで、そのキャンペーンを張る場合に誰もが反対できない様な “美しい社会づくり”をスローガンとして掲げることが常套手段だった。そしてそういった形式的手段は相変わらず若い世代にも受け継がれてゆく様だ。いつの時代も新しい装いに身を隠して、狡猾に利権の保持を企むのが “時の権威”というものだ。

表層はますます整えられて市井の人々に受け入れられるかも知れない。これまでも「助け合い・分かち合い」や「繋がり・共有・ネットワーク」といった言葉がまるで絶対的に正しい事であるかの様に流布されて人々の脳裏に刻み込まれてきた。これからは「SDGs」に表わされる “世界を正しく整える運動”が若年層を中心に進められる事だろう。
かつて二十年近く前に「CSR」のブームがあった様に「SDGs」の理念が間違っているとは思わないが、理念を忘れたブームとなってファッション化してしまう事に懸念を感じる。それがいつの時代にも繰り返されてきた「表層社会の進化」であり「利権保持の手段」なのである。

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2022年の幕明け。コロナが世界中に席巻を始めて二年になり、世界の規範が変わりつつある中で日本の政治は社会理念を忘れて、世界に後れを足らない様に右往左往してゆく事だろう。だからこそ市井の人々は権威の示す言葉・美辞麗句に惑わされてはいけないと考える。

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人間関係の概念は社会通念によってつくられる [21世紀の種]

世の中は常に変動していて、その形跡が見えた頃には既に前時代的な価値観は淘汰されているものだ。時代の変化に合わせて考え方がついて行こうとするのであって、人の考え方によって時代が変わる訳ではないような気もしている。人間は自意識が強いから自分たちが世界や社会を作り牛耳っていると言い張るが、実際は世の流れに適合しているというのが真相なのではないだろうか。
しかし人間は「自然の流れに対して無力であり、より大きな力によって生かされている」という様なことが理解は出来ても他の生きものたちとは違って、受け入れられない構造になっている。そう思わなければ生きてゆけない何かが人間の思考を支配している様に思える。そして世の中の価値観が大きく変わったとしても、それにとらわれず相変わらず旧態然としたままのスタイルを維持し続けるものとして、私は人間関係に於けるセオリーの様なものを挙げる。何故、社会的に見て人間関係の構造は時代が変化しても変わらないのか。まるで金科玉条であるかの様に固定化されている様だ。これは何も自然界の力が働いているわけなのではなくて、人間が勝手に作り上げた概念によるものだと考える。人間関係に於ける様々なヒエラルキーも人間自身が「社会生活の知恵」として創作し選択して来たものなのだろう。

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誰かの言葉に「歴史は勝者によって作られる」というのがあった。そして人間社会の概念も時の権力によってつくられる事が多い。人間関係も然り。親と子の繋がりだけが本質的に繋がりといえるもので、それ以外は形而下的なものに過ぎないのだが、幾世紀かの時代が変わっても都合上その形は変わろうとしない。人々の脳裏に焼きつけられた概念として定着しているからであろう。
時代が進めばますます体裁の良い社会構造が規約と共に打ち立てられてゆく事だろう。そしてその中には新しい人間関係のコンセプトが美しい言葉で掲げられているだろう。しかし注意していなければならないのは、時代に即した美辞で形どられたスローガンは “臭い物に蓋をするためのものである”という事である。夢や理想を掲げて希望を持って進むのは良い事であるが、社会がそれを実現していると言葉にするには早計である事が多い。世の中には狡猾な罠が仕掛けられているからだ。

タグ:21世紀の種
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アフター・コロナ~新しい幻想 [21世紀の種]

コロナの登場で様々な既成概念が書き換えられ社会は生まれ変わろうとしている…ように見えている。しかしこういった動きはよくあることで、否定的に行き詰った社会を肯定的な空気に移行させるための全体主義的な総意の表われであって、特に根本的な変革はないというのが本当のところだ。
コロナ・シンドロームが一段落した後の社会はどうなっているだろうと考えた時、様々な希望的観測によって世の中は良い方向に変わっている様にイメージづけされる。それこそは世界を運営している中枢国の求める “来たるべき世界”のガイドラインとも云えるネオ・パラダイスなのだが、本当にそれは万民に至福を与える新しい世界を構成するのだろうか。

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着実に私たちの身の周りに起こっている事こそが現実なのだ。そしてそれは変化し続けているという事も事実だ。それらの連続が未来を形どり創ってゆくのだが、人間は何故かそこにフィクションを挟まないと気が済まないように出来ているもので、遠い蜃気楼を形造って興じている。現実を現実のまま受け入れることの出来ない人間の性は時として罪つくりでもある。
コロナを否定して駆逐する道を選ぶのか、それともウィズ・コロナとして背負いながら共存の道を選ぶのか…いずれにしてもアフター・コロナの新しい社会は古いセオリーを改善し淘汰した模範が打ち立てられるだろう。働き方改革はリモートワークという新しいスタイルの導入が推進され、コミュニケーションのスタイルが変わることによってデジタル・マネー化を主とする経済パラダイムの変化もより推進される事だろう。実はこれこそが21世紀を代表し決定づける “大変化”の現われなのだが…。
しかし、どの様に社会が変容しようとそれは飽くまでも幻想を求めているに過ぎない。そしてその幻想があればこそ、私たち人間は未来に「人間的な希望」を持つことが出来るのである。コロナというきっかけを用いてそれを克服する人類にパラダイム変化という新しい希望的幻想を打ち立てることになるだろう。

タグ:21世紀の種
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人間力という概念~この先の時代に問われるもの [21世紀の種]

21世紀の幕が開いてまだ四分の一も過ぎていないが、コロナ禍の世界的な蔓延によって人間社会の根本的な見直しを問われる機会が現われたようだ。
これまでの人間の歴史から見て、100年単位で起こる社会的改革や革命とそれに付随する数々の戦争の流れから、今世紀も中頃の2050年くらいには “従来の常識をひっくり返す”大きな変動が来るものだと思っている。20世紀に起こった第一次・第二次世界大戦が世紀の中頃に終結してアメリカ・ソビエト主導の東西二陣営に分かれ、その後中国の台頭やイスラム国の存在によって世界の宗教を含む線引きに数々の変化が訪れた。頻繁なテロ活動によるボーダーレスで不安定な国際社会の始まりでもあった。
人間の歴史は進歩してきたように言われる事もあるが、それは価値観と視点変化という状況の変化に過ぎないとも考えられるのではないだろうか。決して人間だけがこの地球上で、もっと広く考えるならこの宇宙空間に於いて世界観を持って生きている生物ではない筈だ。私たちの知らない知的世界はもっと他にもあるに違いない。身近な猫や犬にさえも彼等独自の価値観や生き様の認識をしているに違いない。

そうやって考えてみると、人間は人間としての思考概念の世界で考えるしかないという結論が出る。そして本当に必要なものはと言えば人間社会に於いての生存力に限らず、宇宙世界に於いての存在力なのではと考えてしまう。いつの時代もそうだったのかも知れないが私たちが常に意識していなければならないのは人間として存在する力、つまり「人間力について」なのではないだろうか。しかしそんな命題よりもその時代によって幾多の時代的課題を突き付けられて人間世界は迷走してしまう。そうやって歴史はこれまで「宗教戦争」や「植民地戦争」というシェアの奪い合いに明け暮れて来た、進歩と発展の名のもとに。
しかし21世紀になって人間は果てしない繰り返しに飽き飽きして、コロナ禍をきっかけにまずは個人の価値観の転換を図ろうと思い始めたのかも知れない。そしてキーワードとして改めて「人間力」という概念を取り上げる。「人間力」を磨くことによってこれまでの社会通念に縛られた生き方とは別次元の逞しい人生を手にする事が出来る。

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席捲する新型コロナウィルス [21世紀の種]

後々まで語り継がれるであろう、令和2年に世界を席巻した新型コロナ・ウィルスの脅威。20年程前にはSFドラマの世界で映画やテレビになっていたものが現実世界で起こっている。ロック・アウト=都市封鎖なんていうのは物語の世界の話だと思っていたが、考えてみれば “戒厳令”などは海外の政情不安定な国では時々見られる現象であってそれほど珍しくもない。そういう意味では、この緊迫した状態が日本人にとっては危機意識の低さの表われで不慣れなんだとも思える。
国によっても対応は様々だが、日本はもともと緊密な人間関係による社会習慣なので“みんなで渡れば怖くない”的な発想も見受けられる。ある意味で “義に厚い”のだがいざとなったら “社会ルールやモラルには欠ける”要素が多いようだ。それはそれでひとつの選択肢として是非も問わないのだが、緊急時の問題解決としては一向に進まない場合が多い。時には絶対的な力で、責任があるとかないとか四の五の言わずに決断実行する潔さが必要で、戦前くらいの日本にはそんな人物もいたようだが現代の表舞台では見当たらない。今回の新型コロナウィルスの騒動は政治やリーダーシップを含むこれからの社会のあり方を考えるきっかけになるのかも知れない。

喉元過ぎれば熱さを忘れるのが世の常で、今回の新型コロナウィルスの騒動も来年のオリンピックや2025年の万博開催の頃には、今日の恐怖や反省は忘れられる事だろう。しかし確実に私たちの脳裏に「現代社会の盲点」を提示して、改めて問われる事には違いない。それは日本だけでなく世界中が同調して、21世紀の社会・政治・経済など諸々を根底から見直す機会になりそうだ。

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闘うという概念 [21世紀の種]

21世紀も早20年が過ぎた。今世紀中に『日本国憲法』は改正されるだろうか?日本国憲法・改正論議の焦点はやはり戦争に関する捉え方になるだろうが、日本人にとっての戦争の概念は実に多様であり論じるにしても論点が定まらない。どこの国もよく似たものかも知れないが、戦争ひとつ取ってみてもまとまった考えに落ち着かないところをみるとこの国も彷徨いながら進んでゆくしかないのだろう。

人々は「戦争」についてあれこれ意見を言ったり語ったりするけれど、その以前に人間の持つ闘争精神について論じる事は少ないように思う。
「戦争」などという言い方はかなり大雑把で曖昧な言い方だ。歴史的時代や世界情勢、そしてそれぞれのお国事情によって意味合いは全く違ってくる。一様に是非を問うというのもおかしな話で、それこそ宗教論議と同じでどちらが正統かという争いの種を増やすだけである。
語るべきは人間に本来備わっている“闘争精神”についてであろう。これはいいとか悪いとか、無くすとか無くさないとかいう事ではなくて、どう活かすかという事が話の本筋なのである。闘争精神は人間が生まれついた時から、いやそれ以前から存在する本質的原理だからである。そもそもこの世に存在する生きものは、命の始まりの闘争を経て生まれ出でたとも言えるのだから。

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生きることは闘うことである。私はそう思っている。そして闘うという事は“今を捨てない”という事である。今この時を軽んじて捨て去ったり諦めたりしたときに、ひとつのものが死滅する。人は生き続けようとする限り闘い続けなければならない。それが必然で宿命なのだと思う。命を存えるという事は闘うという事なのだ。
時代と共に暮らしの状況も変わって生きる条件も変わったが、最も変わったのは闘うという意味が希薄になった事だろう。自力で闘いながら生き抜くという本来の動物としての宿命から目をそらせて、何かに従属する生き方にシフトする現代社会の罠だろうか。

闘うという概念を今一度確認したい。人が人として自立する為に闘う気持ちが必要なのだと考える。迷信から解放され、恐れの呪縛を克服する意味でも闘う気持ちが必要になる。
体内に無数に存在する様々な病原体、例えばガン細胞の様なものにしても犯されないための抵抗力が必要になって来る。と同時にそういった不可避なものを背負いながらも負けずに生きる気持ちが必要になって来る。人は実際は情けないくらい弱いものなのだ。それを背負ったうえで覚悟して生き抜くには“闘う気持ち”が有るか無いかだと思う。

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「闘うという概念」を様々な面から検証してゆきたいと考えています。人間にとって闘うという事は如何に原則的な事か…そんな観点でいずれまた記してみたいと思っています。

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原子力に頼ることの意味 [21世紀の種]

22世紀になれば人間はもっと宇宙に近づいているだろう。コロニーの様なものも現われて人類の何割かは地球の「法」から離れた自治区を作って暮らしているかも知れない。
人間が宇宙に新天地を求めるのはこの地球に活路を見いだせなかったからだ。決して地球が壊滅する訳ではないが、エネルギー問題や人口問題など諸々のすべてが頓挫した状態で、明日をも知れない過激な闘争社会に恐々としなければならないからだろう。

エネルギー問題のひとつに原子力がある。原子力の是か非かを問う前に、原子力の正体を知っておくべきであると思う。知って知らぬふりをしている者もいるが、未来のことなど考えないで今をどうやって生きるかを考える者が殆どではないかと思うが、原発に関して言えば“今現在だけを考えてやり過ごして生きる事”は人間の愚かさを証明する様なもので悔恨を残すだろう。
端的に率直に言えば「原子力の様な危険なものは、例え“神”と謳われてもさわらぬ神に祟りなしで考えの選択肢に入れない方が無難だろう」解釈の仕方で論議が生まれる事を見越した上でそう結論づける。原発や核開発を人間の英知として捉えているのは主に欧米のWASPに代表される権威グループであって、世界各国が認めている訳ではないという事も知っておかねばならない。自分たちが常識と思っている事が少しも常識ではないという事を私たちはもっと知恵を持って自覚しなければならない。

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原子力でビジネスをする国だけが原子力に賛同する。純粋にエネルギー開発を考える国は、副産物として核開発を生む原子力よりも別の道を模索している。原発政策の本音は金儲けに他ならない事を、そして誰がそれで儲けるのかをもっと洞察しよう。
地球に愛想をつかして脱出し別惑星のコロニーで暮らす人たちにとっては、核廃棄物のゴミ箱となった地球を想像しても悩むことはないのだろう。

日本人の感性で考えれば本来なら原発の様なものは嫌いな筈なのだが、欧米の特にアメリカの影響下にある現代の日本では当然の様に受け入れる事が権威に対する忠誠なのだろう。日本人の安全に対する潔癖症からは考えられない程のいい加減さは、もはや日本という国もアイデンティティを見失ったかと思わせる様相だ。
憲法改正もいいのだが、本当に独立心を持ってやってゆけるのか、独自のアイデンティティを磨きぬけるのか、それは最も危険な“原子力との対峙の仕方”で表われるような気もする。

※注釈


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「法」の存在意義 [21世紀の種]

大麻の広告を公に出して販売していた業者が摘発されていた。事件自体よりも“大麻の広告を出す”という業者の考えに興味を惹かれた。大麻を販売する事が少しも悪いとは考えていないから堂々(?) と広告を打った訳なのだろうが、実は大麻吸引が身体に害を及ぼす率はタバコと比べても低いという事を分かっている人は大勢いる。しかし誰も口に出しては言わないのは、それが法律に触れるからで日本の国では違法であり犯罪である事を知っているからだ。
例えばオランダなどでは公共の場で白昼堂々と大麻を吸って歓談してる姿は決して珍しい事ではない。裏取引とかで入手する訳ではないから価格だってべらぼうな高値がついている訳でもない。独特の香りがあるから好きでない人は禁止されていなくてもわざわざ喫煙する事もない。嗜好品のひとつとして自主性に任せているわけで、お国柄と言ってしまえばそれまでのものである。

私は決して“大麻なんて毒性も少ないのだから認めてあげれば…”と言っているのではなく、大麻は一例として、それを取り締まる「法」の必然性に関心があって問題提議をしているのだ。
表面的にはグローバル化が進んで世界の共通理念が整いつつある様に見えるが、その反面で各国が独自の価値観やルールでナショナリズムを打ち出そうとしている。国内の法律というものも決してグローバルなものではなく各国が独自に設定しているものなのだ。だから治外法権という言葉もある。立法とは国家の憲法に従い法律を定める事で、言い方を変えれば国に認められた法律でしか通らないという事である。それはつまり万国共通の普遍的な正義ではなくそれぞれのお国事情によって正義のかたちは変わるという訳だ。
その国に生まれたらその国の基準に従わなければならない、郷に入らば郷に従えという言葉通りでそこから逸脱すれば犯罪者になってしまう。これが冤罪の正体なのだ。

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法も正義も国とその時代によって作り上げられるとしたら、この21世紀の正義はどこに向かっているのだろうか?混沌とした時代に新しい価値観の誕生にはまだ少し時間はかかりそうだが、明らかに20世紀には考えられなかった新機軸が生まれそうな気配は感じられる。それが人類を幸せにするか否かは分からないが、AIの進化や宇宙開発からキャッシュレス社会に至るまでこれまでの常識はことごとく変更を余儀なくされている。
これまでの人類は迷走を極めると一旦カタストロフィが起こってリセットされて再スタートという道を歩んでいたが、この先はどうなるのだろうか?世界中を巻き込む様な戦争が起こる事はなさそうだし、地球規模の天災の類が起こるのだろうか。このまま人口が増え続け利権闘争や国家間の格差が拡がればとんでもない政策が展開されるだろうが、その前に既存のセオリーやルールというものが崩壊するかも知れない。

世界や人類を調整させるために「法」は何のためにあるのかという前提問題がもっと深く問われる時代がやって来る。そんな気がしている。

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ネガティブ・ケイパビリティという考え方 [21世紀の種]

帚木蓬生・著「ネガティブ・ケイパビリティ」という本に“答えの出ない事態に耐える力”という副題が付いていた。言い得て妙とはこの事で、現代人が身に付けるべき必要なコンセプトがここにあると直感した。
従来の考え方に依れば、メジャー志向やポジティブ志向の偏りを正してマイナーとされるネガティブな思考も取り入れる意味と単に捉えられそうだが、もっと幅広く深い考え方の様に思える。それは別の答えを見つける模索ではなく、答えの見つからない状態を時を待つように受け入れる生き方とも云えるだろう。

単に反対側の視点に立ってものを見るというよりも、答えのない事を認めて受け入れるという方が難しいことである。そもそも人間の間違いを犯す理由の根本に『答えを性急に求める』ということがある。答えを得なければ落ち着かない、安心して納得できない性分が時には大きな過ちや嘘偽りを生み出している。自然界の中で人間だけが悩み苦しんで生きているのは、自然に逆らって答えのないものに答を出さずにはいられない性が原因のひとつでもあるのだ。

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人間の世紀がどれだけ続くのか分からないが、これから先も生き延びてゆくには必ず価値観と次元の転換を越えなければならない筈だ。そう考えれば、人間の歴史とは進化を模索する次元の旅とも云えるだろう。私は「ネガティブ・ケイパビリティ」という考え方が新しい次元の扉の鍵を握っている様に思える。
“ケイパビリティ”とは許容力とか理解・包容力として俗に言われるキャパ(キャパシティ)の類義語で「否定的に捕らわれている物事を、受け入れて理解し可能性を導く」と私は解釈しているが、行き先を見失ったかの様な時にこそこの思考が大切なのだと思う。最近ではビジネスシーンなどで「ソリューション(解決策)」という言葉がよく用いられてきたが、現代日本人は(米国思想教育の影響も受けてか)時を待つ解決方法というものを忘れてしまった様だ。自力で脱出口という“答え”を見つけようと足掻く現代病パラノイア状態に陥っている事に気づかないでいる。この流れを一時停止させて見直す切っ掛けが「ネガティブ・ケイパビリティ」の視点なのだと思っている。

私は色々な場面でこの様に語る事があります。「人は気づかない間に時代の流行の“後手に回って”追い立てられてしまう。そして一度追い立てられ始めたら常にプレッシャーで自分の意図と関係ない方向に流されてしまう。」だから“急がない選択肢”を持つことが余裕と自信を身に付ける方法なんです。それを実行させるのが“ネガティブ・ケイパビリティという考え方”なんです。



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未来へのテーマ~2025年・大阪万博 [21世紀の種]

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【↑ '70年・大阪万博会場マップ】

6年後の2025年、EXPO'25 が大阪で開催される。'70年の大阪万博から55年ぶりとなる国際イベントは果たしてどんな未来像を描いてくれるのだろう。
EXPO'70 では「人類の進歩と調和」がサブタイトルとされて、そのテーマに沿った数々のパビリオンが展開されていた。会場のシンボルとなる岡本太郎の「太陽の塔」もそのテーマに対する問題提議的なアートとして強烈な存在をアピールしていた。もちろんパソコンも無ければ携帯電話も無い時代で、コンピューターと言えば冷蔵庫よりも大きくてパンチ穴の空いたテープが回る仕掛けのもの、モバイルでは自動車電話が一部のVIPや富裕層に普及していたのみで、肩からかけるトランシーバーより大きなモノが未来の携帯電話として紹介されていたのを覚えている。
当時は世界がベトナム戦争や米ソ冷戦の最中で厭戦気分が覆っていた時代でもあり、人類は生活向上と世界平和を望んでいたが21世紀の今日は核エネルギーの環境問題やヘイト差別が争いの種となっている。果たしてこれからの世界をリードしてゆく先進国の取り組むべき課題とはどの様なものなのだろうか?

70年代には「人類の進歩と調和」だった万博のメインテーマが2025年では「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに題して掲げるらしい。この変化と移り変わりには興味深いものがある。21世紀型コンセプトは抽象的で曖昧な形をしているというところに今世紀の世界の混沌とした状況が伺える。ホスト国である我が国がはっきりとした建設的なテーマを打ち出せないところが今の時代の世界の状況を表わしている気がする。20世紀にアメリカと共に高度成長して、それまでの19世紀イギリス・フランス・欧州勢に代わって世界に存在を示してきた日本の国威も、今21世紀には一旦落ち着きを見せる様になった。人類史上にも前例の無い程の「超高齢化社会」を迎えようとしている我が国こそ、明治から平成の今日まで追従してきた欧米型資本主義社会の優等生モデルから転換して、未来の情勢にフィットする価値観の発想が求められているのかも知れない。我が国が貢献できることと言えば、実は文化的な側面が大きいのではないだろうか?高齢化社会の指針を提示するには日本がふさわしい国なのではないだろうか。今世紀の覇者を中国が狙っているがそんな事は尻目に、これまでの成長路線を新しい成熟路線に変更する機会なのかも知れない。
平成も終わって新元号に切り替わる年・2019年が始まった。


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死を食べる-アニマルアイズ