文字に描く~真実は閃光の如く也 [制作日記]
いつまでも形を変えずに留めようとすると偽りの姿に変わってしまう。眼の前に現われた瞬時の刹那を心に焼きつけることが肝要だろう。
人間は優柔不断な生き物の様だ。常に憂い、常に迷いながら生きている。それは生きることの恐れの原因でもあるのだが、偽ってでも何かに縋ろうとする魂の彷徨だろう。
野の鳥を籠に納めるように、草花を鉢に植えるように、永遠を求める心が真実から遠ざける
文字に描く~夢中に人生在り [制作日記]
人それぞれの人生は全てが生きている夢の中の出来事なのだ。野に咲く花や空を飛ぶ鳥と同じ様にこの世のひと時に生きている。それはまさに寝ては現われ起きては去る夢の様なものなのだ。
それぞれがそれぞれの夢中に人生を感じて生きてゆく。夢は儚く、しかし確かに輝きをもって人生を照らす。
人としてこの世に生まれたからは、それが最善の生き方の様に思う。
文字に描く~世の中を生きる [制作日記]
その時代その時代で生き方は変わると思う。どれが正しいというものでもない。世の中も対人間関係も上手に距離を保って生きるのが良いのかも知れない。そういう意味ではコロナ禍によってソーシャル・ディスタンスを知る機会を得たことは人間社会に一歩進歩を与えたのかも知れない。
私は少なくとも三度は死にかけた事があり、一度は臨死体験までした覚えがある。その経験の中から言えることは、私たちは「ただ夢中に生きている」という事だ。
もし既に死んでいたなら、今の生きているという感覚は無い。死んでしまえばそれでお仕舞い。そう考えると不思議だ。PCの中のデータの様なもので、呼び出して再生されなければ “無いが如し” である。
(ところでPCのデータって人間にのみ知覚出来る、単なるバーチャルな存在であって結局は電子記号に過ぎないのだけれど、いずれ消えてゆく事を考えると “生命の存在” と似ていますね)
文字を描く~文字に託す [制作日記]
心がざわついた時、私は絵を描いたり文字を描く。そうすると何故か心が落ち着き、気持ちが透明になる。私の場合は絵や文字を描くことなのだが、もしかすると自分の心を落ち着かせる行為には心と体をつなぐ不思議な魂の働きがあるのかも知れない。
考えるという行為は確かに人間の持った特性で「理性」の発露「理性」の成せる業である。本能的に判断して成すがままに進む生き方とは根本的に違っている。しかし、その理性的な選択が果たして「人間の善意」に沿ったものであるとは限らない様に思う。本当に正しい判断とはどういったものであろうか?
それを考えたとき、魂は何処に宿るのかを探すことになる。仏心は仏真であり、それは魂のことなのだと思う。
文字に描く~毒を見ずして生を知らず [制作日記]
生きるという事はそれ自体が毒の要素を持っていると知っていなければ片手落ちであると思う。「善人なをもて往生を説く、いはんや悪人をや」
様々な答えが頭を通り過ぎるが、どんなに答えらしきものに出会っても、それは一時的なものでそこに落ち着くことは無い。頭で分かる事と心で納得する事とは違っている様だ。人は納得を求めて生き続けるというのが私の持論だ。
文字を描く~日々を生きる心得 [制作日記]
「真摯に真に向かって生きる」気持ちを込めて文字を描いた。
文字を描く~意志と運命の共存 [制作日記]
絵を描くことと同等の価値が、文字を描くことの中にも存在する。
どんな時でも生き残る事を考えて行動する事が最善とは言えないこともある。「死中に活」という言葉があるように、身を捨てて事に当たった時に先が開ける場合もある。つまり人間というものは半分は自然界の運によって生かされているのだ…と、そう思う。
文字を描く~自分の命は自分のもの [制作日記]
つまり意識の問題なのだろう。通常はあまり意識をもって生活していないが、そこに集中的に「気」を働かせれば全く違った結果が生まれる事もある。
この命は自分のものなんだから、他人のために死ぬことなんてない。
もっと我が儘に、もうちょっと先まで生きてやろう。
<自殺を目の前にして立ちすくむ人へ>
文字を描く~在り方を考える [制作日記]
近頃の私は絵を描くことよりも言葉を書くことの方が多くなった。その内にこれらが絵と合体して作品になるのだろうと漠然と考えている。
正体を見るという事は実は恐ろしい事であり、それには勇気が要る。だから物事の正体を見て正直にズバリと答える人は、とても勇敢な人なのだ。多くの人は正しい事から目を背けて生きる、勇気のない生き方を選択するものなのだ。
文字を描く [制作日記]
自分の今の心情、牽いては立ち位置を表わす言葉を文字にすることは絵を描くことに等しいと思ったからだ。
文字と絵を絡めて表わす。若かりし頃によく描いていた「詩とイラスト」の復活だろうか…。歳を経てここまでやって来た今、それが自分らしい手段というのであれば受け入れることにしよう。
虚構なるリアルの積み重ね [制作日記]
とにかく絵を描かない日々が続いて、自分を表現するという行為に疲れを感じた一年だった。絵を描く事を中心にして生きていると言っていた自分が、絵を描かなくなったら何を中心に生きているのだろう…という自己懐疑。結局その時々を生きている俗物に過ぎないのだろう、私という人間は…などとシニカルぶったナルシシズム。嗚呼なんて暇な一日なのだろうとリアルな虚構を積み重ねて、きっと辿り着くのはサムシング・エルス。
茂田井武へのオマージュ [制作日記]
語る言葉は山ほどあるが、それよりも描く事によって敬意を表してゆきたい。
↑ 茂田井武画集「古い旅の絵本」表紙より転写 (C)2021
僕は生きている。
絵の中に生きている。
これからも、この先もずっと
僕の中に絵は生き続けている。
何の変化もない味気ない日々の連続が
今となってはひたすらな青春の足跡の様に思える。
…歳を重ねたという事なのだろう。
そして絵を描くということは「自分自身をなぞること」だという事も教えてくれた。
自分自身を恐れていては、なぞることなどとても出来ない。
人生の古い旅の話しをしてみようじゃないか…。
シニア向け絵本に取り組む [制作日記]
これまで何度も宣言しては日々の生業に忙殺されて…気がついたら外れた道を歩んでいたという事が多かった。意志が弱いというよりは “忘れ易い、気が散漫”と言った方が適切かな?
兎に角こんな事ではいけないと思って、朝令暮改かも知れないが宣言をしておきたいと思う。…いやはや (^^;ゞ
そもそも何故高齢者向けの絵本を発想したのかといえば実に単純で、私がストレートに表現できるのは高齢者に対してだと思ったからなのだ。絵本といえば子供を相手に読み聞かせや教育的意図を持ったものが思い浮かぶが、私は自分が子供と同じ目線で子供と共有する意図を持つのには無理があると感じたからで、そこに何らかのミッションを感じる事がなかったのも事実だ。
コロナ禍の登場で世の中の何かが変わりつつある今日、自称「人生絵本表現作家」の私が改めて自分の取り組む対象を高齢者に絞ったことは新しい時代の幕開けの様に思う。
終活としての描画作業 [制作日記]
考えてみれば私の人生の原点は「絵を描くこと」にあったわけで、それから完全に離れてしまっては自身を逸脱したと云っても間違いではないだろう。気持ちを戒める。
改めて絵を描く気持ちに立ち返って、果たして私はどのような生き様をしてゆくのだろうか…。
作家も芸術家も生きた時代によって表われ方は異なり甲乙はつけがたいものだが、受け取る者の心の琴線に触れるものが素直に良いものなのだろう。そんな気がする。しかし私は評論家ではない。どんな絵や作品が良いものなのか語る必要もなく、ただ終活の行為として素直に絵を描ければ、それが本来の最良の一枚なのだ。
生命(いのち)は思い出した時に蘇える [制作日記]
絵を描くことの価値のひとつとして「生命を表現する」という事があると気づいた。風景画にしても勿論であるが、無機物を並べた静物画であったとしても、そこに生命を表現することは出来る。
人類の絵画のルーツと言われるアルタミラの洞窟の野牛の絵は単なるリアリズムかも知れないが、人として作品として絵を描く上においては、そこに何らかの生命の断片が表現されてくるものだろうと思う。
そこに生命があるからこそ、どれだけ年月が過ぎようと褪せることなく訴え続けるのだろう。
<平成21年3月14日・記>
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この記事は10年以上も前にこのブログで書いた記事で、タイトルは「生命を描くということ」であった。
改めて時間の経過を感じる。愚痴ではないが、時の流れに流されて変化する自分の気持ちに今更ながら感嘆するところもある。人は決して進歩し続けるというものでもない。完成したと思っていた事がいとも簡単に覆される事もあって常に同じ様には生きていられない。だから人生は変化に富んで面白いのだが、一ヵ所に居座って偉そうなことを言っていては恥ずかしい思いをするだけなのだ。
ブログを続けることの良さは、このように自分の思索の足跡を振り返る事が出来ることだろう。振り返れば恥ずかしい事もあり、いつも進歩しているとは限らずガッカリすることもあるが、それでも人が生きるという事はそういう事なのだと思う。間違いながらも失敗しながらも、それでもしぶとく生き続けている…それが答えの様なもので、それしかない。
そして今わかった事は、失ったものも・消え去ったものも・亡くなったものも、いのちは思い出した時に蘇えるという事だ。
自分が生きている限り、自分と関わったものは思い出す限りの中で生きている。彼らの誇りも愛情もそのすべてが、自分の思いの中に生き続けている。そんな事を微睡の中で知った。
この世が無ではない限り、形は変わっても生命のエネルギーは生き続けている。