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文字に描く~真実は閃光の如く也 [制作日記]

真実は永遠だが、人の世に於いては一瞬の光の様に現れては消えてゆく。
いつまでも形を変えずに留めようとすると偽りの姿に変わってしまう。眼の前に現われた瞬時の刹那を心に焼きつけることが肝要だろう。

人間は有能な生き物だと思われがちだが、一瞬を捉える事は苦手としていて、その能力に限って言えば無能のようだ。生きている実感を瞬時で捉えることも出来ないのだろう。
人間は優柔不断な生き物の様だ。常に憂い、常に迷いながら生きている。それは生きることの恐れの原因でもあるのだが、偽ってでも何かに縋ろうとする魂の彷徨だろう。

真実閃光の如く2-B.jpg

人間は「真実」というものをいつの間にかどんどん遠ざけてしまったようだ。「真実」は常に身近にあるのに、己の優位を差別化するための道具に使おうと画策した故に手の届かない様なものにしてしまった。空に雲が浮かぶように、野に花が咲くように、真実はそままの姿で留まろうとはせずに現れては消えてゆく。
野の鳥を籠に納めるように、草花を鉢に植えるように、永遠を求める心が真実から遠ざける


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文字に描く~夢中に人生在り [制作日記]

人生幾十年は夢幻の如く也。まさに夢中に生きて、夢中に去ってゆく。
人それぞれの人生は全てが生きている夢の中の出来事なのだ。野に咲く花や空を飛ぶ鳥と同じ様にこの世のひと時に生きている。それはまさに寝ては現われ起きては去る夢の様なものなのだ。

新しい年が始まった。若い人たちには希望の溢れた「夢中」を生きる人生があり、私の様な黄昏を生きる者には、それなりの「夢中」に人生を綴る。
それぞれがそれぞれの夢中に人生を感じて生きてゆく。夢は儚く、しかし確かに輝きをもって人生を照らす。

夢中に人生ありa.jpg

たとえ儚くとも幻想であろうとも、生きている間は夢中に生きようと思う。
人としてこの世に生まれたからは、それが最善の生き方の様に思う。

 

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文字に描く~世の中を生きる [制作日記]

世間の言葉に惑わされず、人の言葉にそそのかされず…しかし世の中の流れに沿いながら生きる、そんな生き方が心情である。

文豪・夏目漱石の有名な言葉がある「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角この世は生きにくい」明治の時代から世の中というものは変わらないらしい。世に逆らうのか、それとも世の中と仲良くくっついて生きるのか…迷うところらしい。
その時代その時代で生き方は変わると思う。どれが正しいというものでもない。世の中も対人間関係も上手に距離を保って生きるのが良いのかも知れない。そういう意味ではコロナ禍によってソーシャル・ディスタンスを知る機会を得たことは人間社会に一歩進歩を与えたのかも知れない。

世に流されず沿って流れる.jpg

自分自身を見失わず、しかし時には自分自身を投げ打って生きることも必要だ。生きることにしがみ付いていると大切な命を失う事もある。そんなものだ、人の一生なんてものは…。
私は少なくとも三度は死にかけた事があり、一度は臨死体験までした覚えがある。その経験の中から言えることは、私たちは「ただ夢中に生きている」という事だ。
もし既に死んでいたなら、今の生きているという感覚は無い。死んでしまえばそれでお仕舞い。そう考えると不思議だ。PCの中のデータの様なもので、呼び出して再生されなければ “無いが如し” である。
(ところでPCのデータって人間にのみ知覚出来る、単なるバーチャルな存在であって結局は電子記号に過ぎないのだけれど、いずれ消えてゆく事を考えると “生命の存在” と似ていますね)

高齢者になった今こそ思うのだが、最高に幸福な生き方と云うのは…若い時代は世の中に沿って精一杯欲張って生きて、歳をとれば「世の無常」を知って生きることではないだろうか。

 

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文字を描く~文字に託す [制作日記]

絵を描き文字を記す~表現という行為は一種の所信表明であり、パーソナルなマニフェストの様でもある。
心がざわついた時、私は絵を描いたり文字を描く。そうすると何故か心が落ち着き、気持ちが透明になる。私の場合は絵や文字を描くことなのだが、もしかすると自分の心を落ち着かせる行為には心と体をつなぐ不思議な魂の働きがあるのかも知れない。

理屈で考えないこと。人間の進化の要素のひとつに「脳」の進化があると言われているかも知れないが、私はそれを人間の退化の要素でもあると思っている。何故ならそれによって人間はその本質から離れようとするからだ。
考えるという行為は確かに人間の持った特性で「理性」の発露「理性」の成せる業である。本能的に判断して成すがままに進む生き方とは根本的に違っている。しかし、その理性的な選択が果たして「人間の善意」に沿ったものであるとは限らない様に思う。本当に正しい判断とはどういったものであろうか?

仏心真03.jpg

理性でもない、言葉でもない、賢さでもない。真の悟りはどこから導かれるのだろうか?
それを考えたとき、魂は何処に宿るのかを探すことになる。仏心は仏真であり、それは魂のことなのだと思う。

 

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文字に描く~毒を見ずして生を知らず [制作日記]

心の内を魂を描こうと考えた時から、言霊とも言える文字を絵と供に描こうと思った。

「毒を見ずして生を覚らず」…歎異抄から得たインスピレーションである。
生きるという事はそれ自体が毒の要素を持っていると知っていなければ片手落ちであると思う。「善人なをもて往生を説く、いはんや悪人をや」

夕暮れの向こうには光に満ちた朝陽が待っているものだ。だから迷うことなく流れに沿って歩いてゆこうと思う。

毒を見ずして生を覚らず.jpg

人生を生きることの意味とは何だろうか?人生の黄昏れ時に来て初めて気が付いた。生きることに納得をするためだ。
様々な答えが頭を通り過ぎるが、どんなに答えらしきものに出会っても、それは一時的なものでそこに落ち着くことは無い。頭で分かる事と心で納得する事とは違っている様だ。人は納得を求めて生き続けるというのが私の持論だ。

 

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文字を描く~日々を生きる心得 [制作日記]

気持ちを文字絵に表わす。
「真摯に真に向かって生きる」気持ちを込めて文字を描いた。

霊厳洞に入って仏を彫る宮本武蔵の心境が少し分かる様になってきた。それは宗教としての仏ではなく、心の在り方としての仏なのだろう。

仏心真01.jpg

在るがままの命を生き切る…それが今の私の思いである。

 

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文字を描く~意志と運命の共存 [制作日記]

自分の真髄に刻み付ける、魂の文字は体の奥深く心の底に行き渡る。
絵を描くことと同等の価値が、文字を描くことの中にも存在する。

生きる意志と天命に任せる.jpg

例えば戦場のような、生死を隣り合わせた究極の場では、生きる事に執着する気持ちと、覚悟を決めて運に任せる気持ちとが葛藤する。大げさに言えばそういう事なのだが、現実社会でも絶体絶命のピンチに置かれれば人は選択に迷う。
どんな時でも生き残る事を考えて行動する事が最善とは言えないこともある。「死中に活」という言葉があるように、身を捨てて事に当たった時に先が開ける場合もある。つまり人間というものは半分は自然界の運によって生かされているのだ…と、そう思う。

 

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文字を描く~自分の命は自分のもの [制作日記]

文字に意識を持たせて描いていると、それが自分にフィードバックされて自身の魂が呼び起こされる。
つまり意識の問題なのだろう。通常はあまり意識をもって生活していないが、そこに集中的に「気」を働かせれば全く違った結果が生まれる事もある。

自分の命は自分のもの.jpg

自分のこの命は他の誰のものでもない、唯一自分自身のものだという事を自覚したい。

だったら死なないで。だから自死なんてしないで。
この命は自分のものなんだから、他人のために死ぬことなんてない。
もっと我が儘に、もうちょっと先まで生きてやろう。
<自殺を目の前にして立ちすくむ人へ>

 

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文字を描く~在り方を考える [制作日記]

言葉がひらめいたら文字に描き表わすことが良いと思う。
近頃の私は絵を描くことよりも言葉を書くことの方が多くなった。その内にこれらが絵と合体して作品になるのだろうと漠然と考えている。

恐れを越えて正体を見極める.jpg

物事の正体を見るには、相手を恐れずに目を背けずに直視することだ。
正体を見るという事は実は恐ろしい事であり、それには勇気が要る。だから物事の正体を見て正直にズバリと答える人は、とても勇敢な人なのだ。多くの人は正しい事から目を背けて生きる、勇気のない生き方を選択するものなのだ。

 

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文字を描く [制作日記]

絵本表現の一部として「文字を描く」ことに目覚めた。
自分の今の心情、牽いては立ち位置を表わす言葉を文字にすることは絵を描くことに等しいと思ったからだ。
文字と絵を絡めて表わす。若かりし頃によく描いていた「詩とイラスト」の復活だろうか…。歳を経てここまでやって来た今、それが自分らしい手段というのであれば受け入れることにしよう。

我慢と無理文字2.jpg

私にとって絵本を描くということは一種の遺言の様なものかも知れない。

誰に伝えると云うでもなく、私の生きた証しを記しているだけの事なのだろう。

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虚構なるリアルの積み重ね [制作日記]

今年もあと一カ月足らずとなった。今年ほど何もして来なかったと感じる年は珍しい。コロナ禍で社会の様相が変わったせいもあるかも知れないが、私自身も歳を取り様々な部分に変化が生じた。
とにかく絵を描かない日々が続いて、自分を表現するという行為に疲れを感じた一年だった。絵を描く事を中心にして生きていると言っていた自分が、絵を描かなくなったら何を中心に生きているのだろう…という自己懐疑。結局その時々を生きている俗物に過ぎないのだろう、私という人間は…などとシニカルぶったナルシシズム。嗚呼なんて暇な一日なのだろうとリアルな虚構を積み重ねて、きっと辿り着くのはサムシング・エルス。

湖畔にて.jpg

生産的ではない時間こそが実は正直な生態なのだと理解するには…まだまだ私は至らぬ俗物すぎる。こんな無意味を制作と名付けて悦に入るとき、悔恨の声が聞こえるのは何故なのか。

タグ:扶侶夢
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茂田井武へのオマージュ [制作日記]

自身の内に在る魂に回帰したときに気づいたのが茂田井武へのオマージュの念だった。
語る言葉は山ほどあるが、それよりも描く事によって敬意を表してゆきたい。

初めて彼の絵を見たのはもう十年以上も前になる。「古い旅の絵本」という題名でB5判くらいの質素な絵本だった。しかしページをめくってゆく内に私はまるで異国で出会った同胞の様な親しみを作者の中に見たのだった。

茂田井武_画集.jpg
 ↑ 茂田井武画集「古い旅の絵本」表紙より転写 (C)2021


僕は生きている。
絵の中に生きている。
これからも、この先もずっと
僕の中に絵は生き続けている。

森の回想.jpg

貧乏絵描きだった私は希望だけを片手に都会の中で生きていた。
何の変化もない味気ない日々の連続が
今となってはひたすらな青春の足跡の様に思える。
…歳を重ねたという事なのだろう。

青山のカフェで.jpg

茂田井武という画家は私の忘れていた何かを思い出させてくれた。
そして絵を描くということは「自分自身をなぞること」だという事も教えてくれた。
自分自身を恐れていては、なぞることなどとても出来ない。
人生の古い旅の話しをしてみようじゃないか…。

離島路地裏.jpg

タグ:#茂田井武
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シニア向け絵本に取り組む [制作日記]

忘備録という意味も込めてコミットメント(声明)を出しておこうと思う。
これまで何度も宣言しては日々の生業に忙殺されて…気がついたら外れた道を歩んでいたという事が多かった。意志が弱いというよりは “忘れ易い、気が散漫”と言った方が適切かな?
兎に角こんな事ではいけないと思って、朝令暮改かも知れないが宣言をしておきたいと思う。…いやはや (^^;ゞ

切株に坐るおじさん.jpg

「高齢者向け絵本」というテーマを掲げて取り組もうと考えている。自分なりに高齢者に対しての柔らかいメッセージの様なものをイメージしている。制作物を発表するとき「どういった立ち位置で作っているか」がポイントになってくる。上から目線とかパラサイト・スタンスといったものは自分でも気づかないところからにじみ出てくるので注意したい。
そもそも何故高齢者向けの絵本を発想したのかといえば実に単純で、私がストレートに表現できるのは高齢者に対してだと思ったからなのだ。絵本といえば子供を相手に読み聞かせや教育的意図を持ったものが思い浮かぶが、私は自分が子供と同じ目線で子供と共有する意図を持つのには無理があると感じたからで、そこに何らかのミッションを感じる事がなかったのも事実だ。

結局私にとっての「絵本」というのは、私自身のために描いているというのが紛れもない事実だ。私が見つけた人生のコアを言葉に出来ない何かで表現する手段…それが高齢者向け絵本という形を取っているのだろう。そんな気がする。
コロナ禍の登場で世の中の何かが変わりつつある今日、自称「人生絵本表現作家」の私が改めて自分の取り組む対象を高齢者に絞ったことは新しい時代の幕開けの様に思う。

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終活としての描画作業 [制作日記]

このところ絵を描くことから心が離れていた。全く違う世界で仕事をしていた事もあって、日常の忙しさにかまけて絵を描くという意味を忘れていたようだ。
考えてみれば私の人生の原点は「絵を描くこと」にあったわけで、それから完全に離れてしまっては自身を逸脱したと云っても間違いではないだろう。気持ちを戒める。

私くらいの年齢になると絵を描くことは自分の人生の総括的表現になるようだ。これまでの人生、それぞれの時代時代に応じて当然考え方も変化して絵を描くテーマやそこに現われる生き様のようなものも移り変わって来た。私などは同じひとりの人間とは思えぬほどの変幻自在な生き方を環境も含めて移り変わって来たものだが…ここにきてついに終焉を感じ始めたように思える。
改めて絵を描く気持ちに立ち返って、果たして私はどのような生き様をしてゆくのだろうか…。

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最近、岡本太郎の作品と生き方を再認識した。かつては多少の偏見もあってそれほど評価をしていなかったのだが、改めて彼の偉大さに気づかされた。もっと若い頃に気づいていれば私の絵に対する姿勢も変わっていたかも知れないと思った。それほど脳髄に届く程のショックでもあったが、遅ればせながら気づけて良かったとも思った。
作家も芸術家も生きた時代によって表われ方は異なり甲乙はつけがたいものだが、受け取る者の心の琴線に触れるものが素直に良いものなのだろう。そんな気がする。しかし私は評論家ではない。どんな絵や作品が良いものなのか語る必要もなく、ただ終活の行為として素直に絵を描ければ、それが本来の最良の一枚なのだ。

fujidana.jpg

 

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生命(いのち)は思い出した時に蘇える [制作日記]

絵を描くことの価値のひとつとして「生命を表現する」という事があると気づいた。風景画にしても勿論であるが、無機物を並べた静物画であったとしても、そこに生命を表現することは出来る。
人類の絵画のルーツと言われるアルタミラの洞窟の野牛の絵は単なるリアリズムかも知れないが、人として作品として絵を描く上においては、そこに何らかの生命の断片が表現されてくるものだろうと思う。

そこに生命があるからこそ、どれだけ年月が過ぎようと褪せることなく訴え続けるのだろう。

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<平成21年3月14日・記>


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この記事は10年以上も前にこのブログで書いた記事で、タイトルは「生命を描くということ」であった。
改めて時間の経過を感じる。愚痴ではないが、時の流れに流されて変化する自分の気持ちに今更ながら感嘆するところもある。人は決して進歩し続けるというものでもない。完成したと思っていた事がいとも簡単に覆される事もあって常に同じ様には生きていられない。だから人生は変化に富んで面白いのだが、一ヵ所に居座って偉そうなことを言っていては恥ずかしい思いをするだけなのだ。


ブログを続けることの良さは、このように自分の思索の足跡を振り返る事が出来ることだろう。振り返れば恥ずかしい事もあり、いつも進歩しているとは限らずガッカリすることもあるが、それでも人が生きるという事はそういう事なのだと思う。間違いながらも失敗しながらも、それでもしぶとく生き続けている…それが答えの様なもので、それしかない。
そして今わかった事は、失ったものも・消え去ったものも・亡くなったものも、いのちは思い出した時に蘇えるという事だ。
自分が生きている限り、自分と関わったものは思い出す限りの中で生きている。彼らの誇りも愛情もそのすべてが、自分の思いの中に生き続けている。そんな事を微睡の中で知った。


この世が無ではない限り、形は変わっても生命のエネルギーは生き続けている。


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