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日々是好日 [日々の背中]

日々是好日…と詠んで時を過ごしたい。
歳をとって日々の過ごし方が変わって来た。特に古希を迎えてからは周囲の環境も含めて何もかもが変わって来た様に思う。世の中に於ける身の振り方、人間関係の在り方などはその顕著なものだろう。
断捨離はこれからの人生でのひとつのテーマでもある。ただ単に物を整理する処分するという事ではなく、断捨離とは様々な未練を断ち切ること、これまで背負ってきた自分自身の物の考え方やしがらみを潔く断ち切ることだという事が分かった。

切り株に腰掛ける.jpg

人はある程度生きてきて歳を経たら一度は出家することが必要なのだろうと思った。
過ぎ去った人生にやり直しは効かないが一切を断って次元を越えることは出来そうである。それが出家という概念の貴重な部分である。

高齢者にとっての未来は無いように考えていた時期もあったが、ここに来て仏心と出会い「日々是好日」と自覚できる様になった。
人生がいつまで続くのか分からないが、この先、目を覚まして仏心に耳を傾ける事が残りの道を踏み外さない生き方の様に思う。

 

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コメント 5

青山実花

子どもの頃、
年を重ねると、
感情がなくなってしまうのだと
思っていましたが、
むしろ、色々考えますね。
私も潔く生きたいです・・・
気持ちだけでも^^

by 青山実花 (2024-02-18 08:15) 

いっぷく

>潔く生きたい
「結果はそうではなくても、自分はそのつもりだから」という自分に対するエクスキューズにつながる言葉です。つまり、生涯卑怯者でも「そうなれなかったけど、自分はそのつもりだった」という言い訳になるわけです。そんな言い訳には何の意味もありません。
どう生きるかなんて、自分の問題ですから、実践できるかどうかは自分次第です。本気の実践者は「ありたい」ではなく、少なくとも「あるべきだ」と考えます。
お釈迦様は、知識や言葉だけではなく、それを実践することにこそ価値があると教えています。
by いっぷく (2024-02-18 14:56) 

いっぷく

親鸞は65歳で布教を終え、帰洛しました。当時の平均寿命を考えれば、その年令自体驚異的ですが、親鸞はそこからさらに、25年間で自分の書物を5本のこしました。
当時なら生きているだけで奇跡みたいな年代に。
もちろん、親鸞が「自分は90まで生きるから、まだひと仕事できる」などとと余命を知っていたわけではありません。
しかし、仏教者は80歳でも、何かを始める年齢として遅いとは考えません。
70~80代に5本の書き物を残したのは、「どうしてもこれを後世に伝えたい」という日々の未練の賜物だと思います。つまり、未練はことと次第によっては必ずしも悪いことではないのです。
親鸞は他力本願ですから、通常の人間が自力で煩悩を滅することはできないと考えています。
私もその教えはもっともだと思います。自分も含め心の清らかでない衆生が煩悩を滅するなんて想像もつかないし、それよりも、未練や煩悩をいかなる善行的価値に使うか、ということが現実的だと思っています。
翻って私は、人生を振り返るとなにものこしていません。今まではあまりにも無駄な時間を過ごしてきましたが、それは決して無駄ではなく、「このときのため」だったといえるように、90歳まで生きるかどうかわかりませんが、無駄を回収できるような人生を過ごすべくあれこれあがいています。
by いっぷく (2024-02-18 15:23) 

扶侶夢

>青山実花さん、コメント有難うございます。
歳を重ねると要らない事は考えなくなりますが、ある意味で深く考えるようにはなりました。潔い考え方、潔い生き方は楽に生きるためにも良いですね。
by 扶侶夢 (2024-02-18 21:17) 

扶侶夢

>いっぷくさん、ご来訪&丁寧なコメント有難うございます。
歎異抄の心をよく噛みしめる事が大切に思えます。言葉は言葉で実体とは違う場合もありますね。この辺が「神は言葉也」というキリストの世界観と違うところの様に思います。
by 扶侶夢 (2024-02-18 21:25) 

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