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クチンスカヤの思い出 [タイムスリップ忘備録]

【クチンスカヤの思い出】

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<ナタリア・クチンスカヤ> 1968年メキシコ・オリンピックに登場して、日本の若い男性に大人気だった旧ソ連の女子体操選手。次回のミュンヘン五輪出場にも大いに期待されたが、バセドー氏病にかかって二度と競技に姿を現わす事はなかった。


メキシコ五輪に登場した彼女は実に天使のようだった。当時中学生だった私は中間試験の準備勉強もせずに、彼女見たさに“ど~でもいいような”女子体操に連日チャンネルを合わせていたものだ。

 当時の日本は高度成長期の真っ只中で海外旅行ブームも起こってはいたが、まだまだ来日する外国人タレントも少なくダニエル・ビダル、ナディア・コマネチ、アグネス・ラムといった金髪アイドルが日本中を席巻する以前の開国前でもあった。

 この頃のオリンピック女子体操の華は何と言っても『東京五輪』以来の根強い人気を持つ旧チェコスロバキアの“ベラ・チャフラフスカ”だったが(多分日本人の多くは東京オリンピックのチャフラフスカを見て初めて“チェコスロバキア”という国を知ったと思う)どっちかと言うと彼女は、私たち少年にとっては熟女すぎてイマイチだった。(と、言っても当時26歳くらいだったかな?)それに引き替え19歳になったばかりのクチンスカヤは初々しくて、『平凡パンチ』や『ボーイズライフ』といった当時の若者雑誌のフォトグラビアの恰好の対象だった。

 私は結構マセガキだったので、小学校の頃からシルヴィ・バルタンとかペギー・マーチとかのレコードを買っていて外タレ(注※外国人タレント)には慣れていた方だったが、それでもクチンスカヤの無垢な可愛さには相当ショックを受けたものだった。何しろ旧ソ連というイメージからは腕っぷしの強い男みたいな女性しか知らないもんだから、彼女のように華奢でピュアな感じは驚きだった。それに名前も、外人といえばルーシーとかエミリーとか欧米系の名前に慣らされていた私には“クチンスカヤ”という何となく気の抜けた音韻が、その可愛い風貌とは大きなギャップがあって妙にそそられた。

 結局私は完全にナターシャ(“ナタリア”のロシア風愛称・・・そういえばトルストイの『戦争と平和』のヒロインもナターシャだったなあ・・・)にぞっこんイカレてしまって、ソ連大使館にまで資料を貰いに行ったり、『今日のソ連邦』なんていう雑誌を購入したり、すっかり“ロシアびいき”になってしまい、ついには何と!4年後のミュンヘン五輪の会場で本物の彼女に会って握手をしようと、ヨーロッパに行く決心をしてしまったのでした。

 

<ご注意>
このコラムは十五年以上も前に発表した内容をそのまま転載しているため、その後に新事実が発見されたり、また今日では差別的とされる用語や表現があるかも知れません。『タイムスリップ』の趣旨としてそのままの形でアップしておりますので、その点はご了承下さい。

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【備考】

後日談として…日本で大変人気があったため、大阪市から要請を受けて体操のコーチとしてしばらく滞在して指導していた記録があり、その後にペレストロイカでソ連崩壊の後、アメリカ人と結婚して米国に暮らしているという事らしい。愛娘も母親の指導を受けて体操界に入っているが、あまり活躍はしていないようである。


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