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日々是好日 [日々の背中]

日々是好日…と詠んで時を過ごしたい。
歳をとって日々の過ごし方が変わって来た。特に古希を迎えてからは周囲の環境も含めて何もかもが変わって来た様に思う。世の中に於ける身の振り方、人間関係の在り方などはその顕著なものだろう。
断捨離はこれからの人生でのひとつのテーマでもある。ただ単に物を整理する処分するという事ではなく、断捨離とは様々な未練を断ち切ること、これまで背負ってきた自分自身の物の考え方やしがらみを潔く断ち切ることだという事が分かった。

切り株に腰掛ける.jpg

人はある程度生きてきて歳を経たら一度は出家することが必要なのだろうと思った。
過ぎ去った人生にやり直しは効かないが一切を断って次元を越えることは出来そうである。それが出家という概念の貴重な部分である。

高齢者にとっての未来は無いように考えていた時期もあったが、ここに来て仏心と出会い「日々是好日」と自覚できる様になった。
人生がいつまで続くのか分からないが、この先、目を覚まして仏心に耳を傾ける事が残りの道を踏み外さない生き方の様に思う。

 

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人生黄昏最終章 [日々の背中]

私にとってこのブログとは一体何のためのものなのか…。古希を経た歳初めのそんな問いに対して、このブログは「遺書」の様なものだと答えておこう。
誰に問いかける訳でもない独り言。その言葉には何の期待も思い入れもない単なる独り言。何の価値もないかも知れないが、書き残しておきたい独り言。

朝令暮改の日々である。過去の様々な出来事を見返す事も多くなった。五十年以上も前に海外を放浪していた時代を今更ながら気づきと反省で見返すこともある。
語り切れない私の人生だが、そのひとつひとつを繙きながら黄昏時を歩んでゆこう。それがこの世に生まれたことの価値を感じる唯一の確認作業の様に思える。

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これまでの人生を振り返って、いま感じる事は「運命の重さ」である。自身の原点とも云える幼少期の原風景に辿り着くと改めて運命の存在を知る。そしてこれまで様々な葛藤があったが、恩愛 我を去って運命の重さを受け入れる事になる。

「魂の語るを知る」そこに人の幸いがあり、それが生まれてから生きた最終の到着地点ではないだろうか。

 

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神と仏について考える。 [日々の背中]

考え方やものの見方というものはよく変わるものである。最近PCの中に「朝令暮改」というフォルダを作った。私は日々浮かぶ色々な考えを日記の様にPCに記述しているのだが、かつての考えは今ではすっかり幻となり、新バージョンに書き換わっていて振り返るたびに面映ゆい気持ちになる。
そこで最近の私の考えなのだが、「神」というものは人間の創った架空の存在で、明らかに「仏」とは違っていると思う様になった。かつて私は子供の頃は教会に通う似非クリスチャンでもあり、家には先祖の代からの神道で神棚があるかと思えば祖母が念仏好きでお盆になると親族が集まって仏壇に向かい念仏を唱えたりして、はたまた商いを営んでいた関係からお稲荷さんが祭って有ったりと…実に宗教的に節操のない家に育った為か一貫性が無く支離滅裂である。

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さて、ここからはかなり強引な自説として独断と成り行きで進めてゆきます。正論でも何でもない只の私個人の自己満足的ひとり言ですので、不愉快な気分になる方もおられるだろうと推測しますので、腹が立ったら読むのをお止め下さい。m(_ _)m
西洋のキリスト教と東洋の仏教とはその発祥や広がり方からして宗教としてもまったく異なっている。例えばそのひとつとして、キリスト教では「言葉」を重んじる。それは戒律であったり契約であったり「法の精神」に繋がってゆく。ものの捉え方が「All or Nothing」で理論的・合理的。二者択一の絶対主義に走りやすい。だから戦争が起こりやすく世界の戦争の多くは「神の概念」が引き起こしているように思われる。例えば「愛」という概念を取ってみてもそれは私有化することで嫉妬や恨みを生み出す根源でもあり、「愛」の大義名分を武器に奪い合いや争いをする。
片や仏教の視点で物事を見てみると、観念的である。理論や言葉には頼っていないところが「神の教え」とは違っているところだ。ある意味、戒律はあるものの大らかで束縛せず自主性に任せているところがある。法に縛られない精神は東洋系民族らしさの様に思える。
例えば「矛盾」という問題にぶつかった時、論理的な思考では白黒はっきり決着を付けなければ納まりが付かないので、解決の糸口が見つからず硬直状態になってしまう。が、仏教的な思考をすれば「矛盾」も丸ごと飲み込んで理論や言葉での解決を求めず、状態として全体を受け入れて治まってしまう、つまり矛盾というものが存在しなくなってしまう。
理論(言葉)と観念(感覚)で捉える事の違いは「神」と「仏」の違いとなって表われる。どちらが正しいというものでもなく、捉え方の違いとなって人の世界を創っているというのが現在の私の考え方なのだ。

 

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猫と私と仏と… [日々の背中]

昨年、長く飼っていた猫が亡くなった。そして今年、古希になった私にはこれまでの様々な人間関係や生き方を見直す事件があって、諸々の事情から仏の心に触れる機会に恵まれた。
猫と私と仏との間には一見何の関係もない様にみえるが、わたしにとってはそれらには脈々とした繋がりがあるように思えたのだ。

亡くなった猫の名は「ミカン」といって十七年間我が家で飼っていたが、それよりずっと前に幼児期から飼っていた猫がいて名前は「みーこ」という名だった。「みーこ」とは十二年間共に暮らしたが、私の原風景のひとつとして心の中に取り込まれている。昨今のペットブームとは違って、私の幼い頃の猫や犬たちは人間に飼われながらもしっかりとした自立心があった。私は幼いながらも飼猫のそばにいることで生きものへの愛情や共に暮らす事の知恵を学んだように思う。

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今思い起こしてみれば、猫たちへの愛情が育まれたからこそ私の情操教育は成し得た様に思える。生きものへの愛情は人間から学んだものでは無く、猫や犬たちと触れ合って生まれたものなのだろう。そこには言葉や理解を超えた命の本質が見える。
人間というものは人間であることを越えなければ、なかなか仏の心を理解するには難しい様で、愛情ひとつを取ってみても本質に触れることなく、誤解したままで一生を終わりそうである。

長らく猫と暮らしていて、ある時「猫の様になりたい」と思ったことがある。それは「出家したい」という感情とよく似たものだったかも知れない。なんだかとても崇高な事の様に思えたのである。
森羅万象、万物に仏は宿っていると云うが、私は子供の頃から猫と暮らして来た日々の中にその心を見た気がするのである。

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新しい生き方をめざして… [日々の背中]

まったく個人的な考えなのだが、人生にこれまで気づかなかった生き方を発見して、それをめざして新たな次元を求めようと思った。
新たな次元とは…限りなく本能的に生きる世界。理屈ではなく、もちろん健康にも気を配りながら誤らない生き方をして、本来の命を有効に使い切る生き方。…これはある程度、高齢になったから出来る生き方なんだろうとも思う。
「断捨離」「終活」…色々な言葉が巷を賑わしているが、要するに悔いを残さず終えるという事なのだと思う。誰もが悔いのない人生を完結したいと考えるが…本当に出来ているだろうか?

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新しい生き方の第一歩は、まず孤独になること。心の底の芯の底から孤独になって、孤独を身に滲みさせてそれを感じてからが全ての始まりだ。心底で孤独を知れば他人に甘えて生きる事がなくなる。両親や伴侶にも、子どもたちにも依存したり自分勝手な幻想を抱いて期待したりも無くなる。
孤独になるということは相手を束縛しないという事でもある、と今更ながらに分かった気がした。そしてそれが自分の人生を自分のものとして生き切る基本的な考えなのだという事が分かった。昨今はフェイスブックなどSNSの登場によって「繫がる」という言葉がトレンディな広がりをみせているけれど、果たして他人と繫がる事がそれほど素晴らしい事だろうか?繫がらず、束縛も依存もせず「孤独」である事の良い部分をもっと考えてみても良い様に思う。

最大のテーマ「夫婦の関係」にもけじめをつけようと思う。精神的な離婚とでも言うべきか…。「婚姻」という人間の作った概念が世の中の構造も含めて、人間自体を自然の活力から切り離している様に思う。
結婚は相手を所有することであり、嫌でも束縛する事を避けられない。それを拒むなら結婚という方法をとる必要がないように思える。

すっかり古くなってしまったが、かつてシンガーソングライターでもあった荒木一郎の 「一人のときも」 という歌がある。大勢の人に囲まれて生きている事が幸せのバロメーターだとは言い切れない。一人で居たって充実した生き方は出来るものさ。世の中の評価に惑わされず、自分にとっての充実を求めて生きよう。
知らぬ間にべっとりと体にまとわりついていたこの世のしがらみが、私の行動を狭いものにしていた様だ。選択の岐路で犯した様々な過ちを今頃になって気が付いた。人生やり直しは効かないけれど、この先を考えれば今からでも正して新しい次元のスタートラインに立とうと思う。

 

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韓国芸術家の壺 [日々の背中]

かれこれ30年以上も前に韓国の友人からもらった価値ある壺が押し入れの奥から見つかった。
名の有る韓国陶芸家の作品らしい。もしかすると値打ちものかも知れない。プロに鑑定してもらおうかと思っているのだが、信頼の出来る鑑定家を知らないのでどうしたものかと考えています。世の中は贋作もあればエセ鑑定家も多いので、本物の鑑定をすることが案外難しそうです。
ネットで探してもし見つかっても遠くに住んでいる人だったら見てもらうのも億劫で、かといって地方に住んでいると近くには居そうもないし…。

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制作者紹介のパンフレットもあるので、それも添付した方が良いかなとも思っているが…どうなんだろう?日本人に鑑定してもらうよりも韓国で鑑定してもらう方が良いかな?

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…と、まあそんな訳で韓国に送って鑑定してもらう事にしようと決めた。果たしてその結果は・・・。

 

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サイレントマジョリティとスケッチトラベル [日々の背中]

以前よく使われていた「サイレント・マジョリティ」という言葉を覚えているだろうか?
言葉をマスコミなどで取り上げられて世の中に影響を与えられる人々よりも、語っても声が届かなく黙しているに等しい人たちの数の方が圧倒的に多いという事である。

マスコミやSNSの普及で政府の見解なども一般に充分知れ渡り伝えられる様になった…と思われているが、果たしてそうだろうか?声高に言われるのはいつの場合も、都合よくコンセンサスをまとめたい為の先導であって、民の声とか大勢の考えを反映したものでは無さそうである。現に国の方針や政策の殆どは思ったように進んでゆく。一応、民主主義という建前になっているので人々の意見を聞く形は取っているけれど…。実のところは、誰のための何のための方針かというものが多いのである。

すっかり高齢者になった私は、この社会から見放されている現実を感じている。ある意味でサイレント・マジョリティの一人なのである。自分の存在感を如何に示せられるか…そこで思い出したのは、世界中のアーチストたちの国を越えたある活動。
年代が2000年になった頃だった様に覚えているが、以前に「スケッチトラベル」というムーブメントがあった。世界中の画家やイラストレーターたちが声を掛け合ってネット上に集い、互いに回覧しながら作品を掲載してスケッチブックを仕上げるという運動だった。世界のいたる所で活動しているアーチストたちが一冊のスケッチブックを仕上げるそのムーブメントはとても斬新な発想で可能性を感じさせるものだった。

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社会から見捨てられそうな者たちでも、何かを繋がりの足場にして外の世界に価値をアピールすれば目の前の扉は開かれるのではないだろうか…そんな事を考えさせられるアーチストたちのムーブメントだった。

その後スケッチトラベルの活動はどうなったのだろうか…これからも時々このスケッチトラベルのその後の動向は調べてみたいと思っている。


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老猫の死 [日々の背中]

2022年6月14日、長年飼ってきた老猫が亡くなった。17年間生きたことになる。「ミカン」という名前で暮らしの風景にいることが当たり前のミカンだったので、明日からしばらくは気の抜けたような日々が続くことになるだろう。

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延べ十二匹の猫たちが我が家に暮らしていたが、それぞれが独立して家を離れたり何処かにふけたり、または事故や病気で亡くなったりして最終的にミカンだけが十七年もの間、生きたことになる。人間に換算すれば80歳は越えたことになるのだろうか。これまで飼っていたペットの中で最も長生きしていたので暮らしの絆は一段と深い。
歳を取ったせいか最近ではぼんやりとしていることが多くなったが、若い頃から実にはつらつとした我が家の長にふさわしい猫だった。

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我が家に来た頃はまだ幼く、車庫の隅で怯えていたのを小学一年生だった孫が連れて来て我が家のペット猫の第一号となったのだった。
その後、拾われて来たり迷い込んだりと総勢十二匹の猫たちが暮らすようになって、ミカンは
その長として君臨し、猛々しく威厳のある猫に成長した。他の猫たちがじゃれて甘えることが多かったのと比べると、ミカンの若かった頃は毅然とした態度でじゃれる事は少なかったが、高齢猫になると物腰がゆったりとしてそばに寄ってくることも多くなった。

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自立心が強く最後まで飼い主に媚びない長老猫だったが、沢山の思い出を私たちと共有して天国に旅立った。
さよなら…安らかに…。

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個人的休息~コロナを越えて [日々の背中]

自粛ムードでこんなに活力を感じない日本も久しぶりだね。でもそれは決して不健全というわけではなくて、日々の流れの中のひとコマと捉えれば異常でも何でもないと思う。
イケイケどんどんのお調子者をたまには休んで、行く川の流れに身を映し出して眺めてみる時間も良いものだろうね。かつて ’70年代中頃にシンプル・ライフとかユックリズムといった、それまで '60年代のモーレツ主義から脱却した自然志向の生き方にターンした時代があった。「のんびり行こうよ…どうにかなるさ」といった “身の丈志向”から、NTT株や土地転がしのバブル景気に邁進するまでの数年間は「経済2の次時代」の脱都会の田舎暮らし感覚が流行りでもあったのだが…。

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戦後の復興に邁進して疲れ始めた生き方に気づいたのが50年近くも前。しかし半世紀が過ぎていつの間にか同じ様な価値観と感覚に浸されていった様だ。新型コロナの席捲によって経済活動の鈍化に恐れおののき、オリンピックをやるのやらないのといった問題が第一優先の様に語られている今日この頃…嗚呼。
久しぶりのユックリズムに浸ってみるのも良いのではないだろうか?高齢者となって人生リタイア組の私だから言うのかも知れないが、もうひとつ別の角度から世の中や人生の生き方を見直してみれば新たな別の価値発見があるかも知れない。

そう云えばバブル絶頂期だったか、余暇ブームというのもあった様に覚えている。余暇をどう過ごすかという提案をコンサルティングする資格まであった。お金と時間が余っていたんですねぇ…豊かな気持ちも生活の満足に満たされなければ始まらないのでしょう。貧すれば鈍すという言葉があるくらいですからそんな事は当たり前すぎるほど分かっている。でもそこを従来の常識に流されないでひっくり返す発想を持つのが本当に知恵のある人間だと思うんですね。
コロナだとか何だか言っているよりも、そんなものに負けない生活スタイルを打ち立てる発想と気構えが必要だし今がそのチャンスなんです。これこそが私のよく言う「ネガティブ・ケイパビリティ」の一環でしょうか。

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私的終活を考える [日々の背中]

今年はそろそろ終活を意識しようかと思っている。終活と云っても何も特別な準備や行動をする訳ではなく、そろそろ物事の限界を見極めながら人生の終着の在り方を実感してみるのである。

私が終活を考え始めるに至った理由はいくつかあるのだが、そのひとつに「堂々巡り」というのがある。
これまで様々な事態にも遭遇して、考え悩みながらもそれなりに答えや結論を出して生きてきた訳で、この先新しい局面に出会ってもこれまでの応用で考え対処する事は出来るものだ。そう考えると物事に対する答えは既に出ていて、その結果は常に変わらないものだと痛感してしまう。答えが出てしまっているのに再び答えを求めて道を歩むことはない。必要以上にものを考える蛇足な行為は往々にして正しかった答えを間違ったものに変えてしまうものだ。同じところを何度も巡って同じところに到達するのは、残された時間の少なくなった私には意味の無い事だと認識した。
何かに縛られながら自身を高める必要は感じなくなった。これからの私に求められるものは “私を越えた次の世界”に向かう勇気なのかも知れない。

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終わりの向こう側に顔を向ける事が私の「終活」なのである。


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どこに目をやるか? [日々の背中]

毎日が忙しい様に過ぎてゆく。高齢者で半分リタイアしたような身分であっても悠々自適とはいかない現実が腑に落ちない。ま、自分の自覚や身の振り方のせいでもあるのだろうけれど。
身の回りにはたくさんの情報が溢れている。しかし自分にとって関わりのある大切な内容が一体どれだけあるのだろう?多くの他人事やどちらでも良いことに囲まれて、さもそれらが世の中を知るための必要な事のように追いかけて来る。実はそんなに大切でもない情報が作り出している“絆”というネットワークの正体とは何だろうか?高齢者の引きこもりと言われるかも知れないが、時々私はそれらにソッポを向いて何にも頼らず縛られない宙ぶらりんの浮遊感を味わいたくなる。

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日常は連続の積み重ねの様に思っているが、実はばらばらで一貫性のない羅列の様な側面も持っている。人間の許容性の中でそれらがすべて整合性のある理屈に合ったものの様にイメージされているが、本当は支離滅裂なものであったりもする。私は最近、人間は語られているほど立派でも利口でもないような気がしているのだ。
永遠をイメージする、絶対不滅を求める、唯一の存在を認める・・・私にすればどっちだって良いことに思える。それはアイデンティティの問題であり、一人一人の個人的問題なのだ。在る者には在るし、無い者には無いというのが正しいだろう。そしてそんな事よりも世の中の時間というものはどんどん移り変わってゆくという事実の方が私たちに決定的な現実を突きつける。
遠くで起こっている出来事を私たちはさも知っているかのように評することがあるが、実はその真相どころか表面上の事でさえ殆ど知ってはいない。“まるで見て来たかの様に”という言葉があるがまさに私たちは現場にいたかの様に物事を判断して評している。国内の事件でさえ正確に捉えられないのに、ましてや海外で起こっている様々な事件を文化的・宗教的側面も異なるアカの他人の我々にどうして是非の判断が出来るだろうか。
たくさん起こっているであろう不条理な戦争も、ジェノサイドも、人身売買も、政治的画策も私たちにとっては非日常的な事であり止める事は出来ない。決定的な現実とは今日のこの日の私の身の回りを理解する事なのだ。

空想を語る事は結構なことだ。希望や夢をネット上で描くことも良いかも知れない。しかし忘れていけないのは、今 目の前に蓄積されている切実な問題こそがこの先の自分を決定づけてゆくと云う事。

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徒然描写~5~ [日々の背中]

往く川の流れは絶えずして かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし
徒然なるままにカメラに向かいて そこはかとなく何をか写し出さんとや
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かつてプリントした写真を一枚ずつ貼り付けて保存する「アルバム」というものがあった。
現像やプリントに手間がかかりまだ貴重な品としてコストも掛かっていた写真を、有り難そうに丁寧に並べて保管しておく。そんな用途があったことを私たちは忘れている。

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いまでも「アルバム」という同じ名称は残されているがその本質は少し変わった様に思う。色褪せ始めた写真の集合を見ていると、そこには時間と空間に一体化した人々の連帯を垣間見る。

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徒然描写~4~ [日々の背中]

往く川の流れは絶えずして かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし
徒然なるままにカメラに向かいて そこはかとなく何をか写し出さんとや

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古いガラクタ入れの箱から未整理の褪せた写真が出て来た。50年近くも昔の執り止めのないものばかりだったが、その殆どがハーフサイズの写真で、そこには個人的な自分史として焼きついている時代の空気が流れていた。

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 ▲後楽園遊園地/昭和43年頃

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 ▲羽田空港/昭和43年頃

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 ▲NHK放送センター/昭和43年頃

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 ▲ 横浜港桟橋/昭和46年頃

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その昔、私が小学生の頃ハーフサイズのカメラが流行した。当時カメラは高級な嗜好品で写真が趣味という人も今ほど多くはなかった。一般的には撮影したフィルムを現像所(D.T.P.)に渡してプリントしてもらうのだが、そこそこのコストが掛かるものなので無駄な撮影はしないように心掛けていたものだった。(自宅で現像・紙焼きする暗室を持つ様な趣味の人は少なかった)
そこで登場したのが件のハーフサイズ・カメラという訳だ。フィルム半分のスペースに被写体が収まる仕組みなので撮影できる枚数は二倍になり、フィルム代や現像料は約半額にカットされて経済的。一眼レフカメラが20万円もした時代だったから、ハーフサイズでコンパクトなカメラは庶民に受け入れられて大ヒットした。

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▲ 一世を風靡した「リコー・オートハーフ」

 

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徒然描写~3~ [日々の背中]

往く川の流れは絶えずして かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし
徒然なるままにカメラに向かいて そこはかとなく何をか写し出さんとや

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郷愁の中に見る風景は 夢か現(うつつ) か幻か…
輪郭のぼやけた世の中は もはや混然の墨絵の様だ

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「現在」は「過去」の延長線上に在る。今では見ることも無くなった風景の中に、生き続ける何かを発見することがある。

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徒然描写~2~ [日々の背中]

往く川の流れは絶えずして かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし
徒然なるままにカメラに向かいて そこはかとなく何をか写し出さんとや


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新年を迎える神宮の佇まい 流れる空気が身を切るように澄んでいる。
ハレ(
霽れ・晴れ)とケ(褻)の暮らしの中で踵を正すひと時を過ごすのも良いものだ。

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 ▲ 神様の宝物の倉庫

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