SSブログ
◎ネガティブ・ケイパビリティ ブログトップ

間違いのススメ~人生の前半と後半 [◎ネガティブ・ケイパビリティ]

今年七十歳になろうとしている私は後期高齢を前にして人生を俯瞰して眺めてみることにした。評価は別にして、私はかなり特異な生き方をしてきた様に思うが、人生の前半と後半では全く別人とも言える価値観と生き方だった。
四十代を境にして私は生き方の転換を図ったわけだが、それには一時的に自殺に追い込まれた自分がいたためでもあった。たくさんの過ちを犯してきた私の前半の人生だったが、その真っ只中に居る時は少しも間違っているとは思わず、ひたすら真剣に生きていたつもりだった。敢えて挑戦的に非合法な生き方もしたし、有名な政界の事件にも関わった事もあったが、そんなものは数々の事実の前には取るに足らない事件だった。事実は本当に小説より奇なりであることも体験して知っている。

そんな私が若い人たちに言う事と年配の人たちにいう事は違っている。若い人たちには『間違いを恐れず果敢に生きよ。正しいか誤っているかは時代が教えてくれる。自分の欲望を殺さずに思うままに生きよ』 半世紀以上生きて来た私がこの歳になってつくづく言いたいこと、それは『若い頃の間違いは敢えて犯せ』という事である。そんなことで自分の人生がくたばるモノではないのだ。こんなことを勧めると“犯罪助長”だとか“法を犯す”とか言われるけれど、それは世の中の都合に合わせた言い方で意味が間違っている。

私は若い人たちには「頑張れ頑張れ、欲望を満たすために遮二無二突き進め」とエールを送る。どんな結果に終わろうと、本音で生きた生き様はきっと良い教えを与えてくれることだろう。

黒の時代_雨の中.jpg

そして私と同じ年配の人達には別の角度からこのように言う。「過去のこだわりを捨て去って戦わずして生きよう」「戦いは自分の内に在るものだ」。
若い頃は外部の様々なものと闘いながら打ち勝って、手に入れて欲望を満たそうと渇望する事だと思う。だから私はそう言ってきたし自分自身もそうやって生きて来た。
が、しかし高齢になった時からまったく違ったことを言い始めた。「無理はするな。無茶はやめておけ」…と。
失敗や間違いを犯して何か価値を得るのは若い頃の話であって、歳を経てくればそれは無くなる。高齢になれば足を踏み外すことを恐れて、愚か者にならない様に生きるべきだろうと思う。

これらの言葉は実は自分自身に言っている言葉なのだ。その時代によって違っているが、それらはすべて間違っていない。その時その時が真実なのだが、今振り返ってみればすべて移り変わっている事に気がつく。
今考えれば、多くの間違ったことを語って来たと思う。過去に間違いの根本原因を作って来たのは私だったし、その結果が今にある事も事実だ。しかしそれを悔やむ事は意味が無い。悔やんでいる様に見えるとしたら、それはみせかけの誤魔化しだろう。

自分のしてきた事に悔いはないが、間違っていた事は間違いと認めなくては愚か者で終わってしまう。
間違う事は結構だ。人生はある意味で間違いの積み重ねとも言えるだろう。他の動物たちと違って、人間というものは間違いを犯す生き物なのだ。しかしきちんと人生を全うしたいのなら、間違っていたことを悟って認識するべきだろう。


nice!(16)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

身構えることの愚 [◎ネガティブ・ケイパビリティ]

この世の嘘に騙されてはいけないと身構えることの愚かさを知る。
身構え過ぎて正しさを遠ざけていた自分を知る。この世は嘘ばかりでそれに飼い馴らされてはいけないのだが、かと言って身体から毒を取り除こうとしてみてもそれほど綺麗な自分にはなれない。『襟裳岬』で吉田拓郎も歌っているが、身構えることは賢明なのではなくて臆病なだけなのだ。この世で生きるという事は嘘と本当を判別する事ではなくて、それらの入り混じった中で泳ぎきる事なのだから。

何が嘘で何が本当なのかは、そんな事を評論して喰っている文筆家に任せればいい。それよりも身を削って社会で生きている私たちには、全てを受け入れた中でしたたかに生きてゆく術が必要なのだ。世の中の嘘を見破って騙されずに生きる事が賢い生き方だと言う者が居るが、嘘を見破ったものが常に勝者であるとは限らないのが人間社会の妙なのだ。
毒気のあるものを避けて健康的な食物だけを選ぶことが食の楽しみでは無い様に、偽りを避けて世の中を生きたつもりでいることは、ある意味で不完全なものだ。『毒を以て毒を制す』の教え通り「悪を飲み干して邪悪を糾す」という道がある。危ない考え方かもしれないが、身構えてさえいれば厄介が避けられるとは限らない。

蛇丸-螺旋.jpg

「逆もまた真なり」の言葉通り、人生には様々な局面があり表裏一体の感があるものだ。嘘も本当も同じ顔をしていて区別出来るものでもなく、そんな事に迷って悩んでいる間に時は過ぎてゆく。ネガティブを恐れるのではなくてネガティブを生かす思考に変えてみてはどうだろうか?
私も年齢を重ねて若い頃とは違った観点からものを考えるようになった。若い時代は積極的に闘う姿勢が大事な様に思えるが、歳をとった今日は今まで否定してきたことを別の観点から受け入れる事を悟った。これまで溜まってきたものを捨てるのと交換に、捨ててきたものを拾い上げることで新しい発見の“生き直し”が出来るような気もする。
しかし残念な事に、これら諸事が理解出来てネガティブに対して動じずに居られる者はほんの一握りの人たちでしかないだろうけれど。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…

nice!(14)  コメント(3) 
共通テーマ:日記・雑感

私流の新機軸を模索する [◎ネガティブ・ケイパビリティ]

私は現在68歳である。最近まで就いていた仕事を一旦辞めて少し息抜きをしながら、これからの行く末を見定めてみようかと思っている。これまでの人生で何度でも立ち止まって来たが、今回はもしかすると最終局面かも知れないと思う。ある意味で「終活」の一端ともいえるだろう。この先の生き方をこれまで否定的に捉えて来たかも知れない側面も受け入れて、つまり固定観念から離れた視点で捉え直したいと思っている。ちょっとオーバーに言えば「生き直しのための新しい基軸」を探ってみようと思っている。

“新しい基軸”とは言ってみればこれまで受け入れて来なかった価値観や生き方の事である。これまでネガティブに捉えていた事柄を、見方を変えてポジティブに置き換えてみる。というよりも、ネガティブという感覚を積極的に受け入れる感覚に変換してみると言った方が正しいだろうか。ネガティブを日本語に訳せば「否定的」という意味になるが、否定的とは肯定しないと云うだけで “拒否したり排除したりする意味ではない”のである。詭弁のように聞こえるかも知れないが “ネガティブである事実の存在を受け入れる”という理解があっても良いのではないだろうか。
生き直しをするという事は決して合理的ではない。これまで積み重ねてきたものの上にさらに重ねてゆく方が、一から出直すよりも効率が良く合理的なのは分かっている。だからほとんどの人が基礎を打ち壊して新しく進む様にみせかけていても、実のところは前例のある安全策を変える事はないのである。歴史の偶然が革新を起こす事はあっても人為が革新を起こす事はない様に思える。人間とはその様には出来ていないからであり、それがユートピア待望が幻想といわれる所以である。ならば何を期待して何を願って未来に向かおうと考えるのか…。全ての希望が現実の前では幻想である事を認めた上で何に対してモチベーションを高めてゆくのか。新機軸の模索とはそういう事なのだと思う。

cut-A01.jpg

人にはまだまだ開発されていない能力があり、それが現実の世界を推進させる様に思える。その能力の一端はものを創造する以外にも、別の視点から世界を構築し直すという発想の部分でもある。否定も肯定もひとつに溶け合わさった感性が新しい「知」の世界を発見するだろう。

nice!(14)  コメント(3) 
共通テーマ:日記・雑感

人間の蹉跌 [◎ネガティブ・ケイパビリティ]

私は『人間の蹉跌』という自分の作った好きな言葉があります。石川達三の小説『青春の蹉跌』をもじったものなんですが、大変気に入っていてそのうち何かの作品のタイトルに使おうか考えています。
人というものは宿命的に失敗するように出来ていて、何をやっても一時的な成功はあるにしても最終的には失敗で終わるものの様に思えます。そしてその宿命を自覚したときに初めて “生きる事の成功”を手にしたと言えるのでしょう。倒れても立ち上がり見上げた顔が希望を向いている様を不屈と言うのでしょう。「不屈」であることが自然に敵対する人間の人間らしい一面なのだとも思います。幻想を幻想のまま受け入れて、たとえそれが消え果ても夢の中に生きた時間を人生の宝物として味わうことが、この世に生まれて生きた証しという気がします。

sketchnew10.jpg

人間の言葉に置き換えてこの世界を語ろうとするから間違った答えを垂れ流してしまうのです。沈黙こそが人間の最高の英知なのですが、それでは人間世界は許してくれません。
何年も前に私なりのひとつの答として「万物は未完成であり続ける」という事を心に刻みました。しかし人は移ろい易く忘れ易いもので確信した事もいつの間にか手放してしまうものです。これもつまづきの表われなのですが、気がついて元に立ち戻れば良しとしましょう。投げ出さなければ物事の勝負はつきません。勝っても負けてもひと時の話で永遠に続くものではなく、それですべてが決するものでもありません。
幻想の中で急いで到達しようとする気持ちが、人間をつまずかせる原因のひとつなんでしょうね。

nice!(11)  コメント(0) 

みんな違って、みんな良い。 [◎ネガティブ・ケイパビリティ]

ネガティブ・ケイパビリティ。それは現代版「逆転の発想」。

これまで久しく、否定的な思考や発言はマイナス思考として煙たがられてきた様に思う。
どんな時も明るく楽しそうに肯定的な見解で語る事が正しいとされて来た。

しかし本当にいつもそうだろうか?
一個人の性格にしても伸び伸びと成長し続ける事だけが正解だろうか?
民主主義と多数決の原則は整合性があるだろうか?(私たちはとんでもない誤解を教え込まれて来たのでは無いだろうか?)ものの考え方や個人の行動には“同調”なんて本当は必要ないに違いない。本来は足並みなんて揃える必要はない筈なんだが、団体行動を主軸とする組織ではやはりそれが規範となる。
異端だとか異色だとかいう呼び方は形容として仕方ないかも知れないが実に失礼な言い方の様に思える。「みんな違って、みんな良い」というフレーズもあってダイバーシティという考え方も啓発されている割には、綺麗ごとだけで実際には少しの承認も実践もされていない。みんなが一斉に声を上げるものは常に変色して本道からずれてゆくもので、だからこその“みんな違って、みんな良い”なんですけれどネ。


猫たち雑居.jpg

視点を変える事で様々な問題が解決される事が多い。世の中には沢山の難解な問題が蓄積されている様に思われているが、それは人々が本気で解決するための行動を起こしていないからなのだ。本当は殆どの問題は解決可能なのだが…。
問題解決の切り口のひとつのヒントとして“ネガティブ・ケイパビリティの視点転換”を推奨します。

 

nice!(15)  コメント(2) 
共通テーマ:日記・雑感
◎ネガティブ・ケイパビリティ ブログトップ
死を食べる-アニマルアイズ