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フラッシュバック '70年代~わが青春の残像 [随想随筆]

シベリア経由で海外に渡り、知人も友人も無くたった一人で枯れ葉の様に漂う旅をしていたのは '70年代初めの事で、それからもう半世紀以上が経っている。
私自身の青春時代と云えば、バブル経済に溺れる前の若々しい日本社会の青春時代とシンクロしている。そこには夢があり、希望があり、未来があった。

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意味もなくただ甘酸っぱい懐かしさだけが私を覆う。そこに意味を見つけようとしていた時代もあったが、人生の黄昏時を迎えている今の私には“意味の有るか無しか”こそが無意味だ。ただ心地よい時の流れを辿っている刹那こそが至福である。苦しいことや悲しいこと恨みや憎しみもあっただろうが、それらをも含めて青春時代はひと際輝いている。
1960年代から70年代にかけての日本社会の青春時代では音楽シーンも美術シーンも百花繚乱の如く斬新で刺激的な作品が登場していた。それら青春時代のコアが私の人間を形づくり人生を彩った気がする。 

誰もが持っている様々な思いのある青春時代。それが振り返っても戻ることの出来ないアルバムに収められた時代の切れ端なのだろう。
さらば… '70年代 青春の光と影の蜃気楼。

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新しい年の始まりに [随想随筆]

泰然自若という身の振り方を肝に銘じたい。
これが年明けに頭に浮かんだ言葉だった。

世の中が激しく変化しそうな一年に、私自身も何かと変わらねばならなくなるだろう。しかし、そんな激変の時代に於いてこそ変わらずブレぬ自分自身が必要なのだ。
変化の時代に惑わされず生きる。自然界の獣となって生きることもひとつの知恵かも知れない。

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今年は変わらぬ生き方で変化に挑もう。

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人生黄昏時に到達した2つの信条 [随想随筆]

これは “人生黄昏時”の私の最終的な回答の様なものだ。
これまで様々な問いに自問自答してきたが、自分なりに納得のゆく “現時点での答”である。

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愛されて初めて「愛とは何か」が解かるものだ。自分の中に愛がないからと云って悩むことはない。それは愛を知らないからなのだろう。
愛される実感で神の存在を知ることが出来る様に、人間が愛を知るには愛されなければ知ることが出来ない。それ以外の「愛」の多くは欺瞞である。愛を説く者はまず相手を愛する事が始まりであり、そうやって相手に愛を知らせる事から始まるのである。


この世の中で最も強い者は「争いを止める者」だろう。争いに勝つよりも争いを止めさせることの方が難しく、また価値がある。
かつて若い頃にこんな事があった。気の荒い者たちが集まっていて衝突は日常茶飯事の職場だったが、そこで起こった殴り合いの大喧嘩の中に入り仲裁をして止めた事があった。なんとか仲直りをさせて治まった後で二人から一目置かれる様になった。互いの意地の張り合いで起こった喧嘩と云うものは、治めどころが分からずにエスカレートするものなのだ。恨みがある訳でもない喧嘩と云うものはそんなもので、それは国家間の戦争に通じるものがある。

「愛すること」と「争そうこと」に対する私のスタンスが分かったような気がしている。

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答えの向こう側~流浪の始まり [随想随筆]

「人生如何に生くべきか」答えに辿り着いたと思っても、それは砂漠で見つけた泉の様な蜃気楼そのものである。
時間を止めて氷の中に閉ざさない限り、答えは形を変えて変幻自在の顔を持つようだ。「正しい答え」とは一体どんなものなのだろう。
答えを求めて人生を歩いてみてもそこには時間と共に朽ち果てるひと時の幻影があるのみだ。

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雲の上の虹の門。辿り着いた門を潜れば答えの向こう側に更に問わず語りの声が聞こえる。そうだ、この声が聞こえる限り私の旅は終わらず私は問い続けるのだろう…。
答えの向こう側には新しい問いが待っている。この人生に辿り着くべく “解決”というものがあるのだろうか。永遠の彷徨いこそが人としての宿命なのだろうか…。

いま私はふたつの答えを持っている。ひとつは辿りつく事のない終着に向かって今この時を生きる事。もうひとつは原風景を顧みながら出発の原点に向かっての下山を進めること。相反するふたつだが、その融合があっても良いはずだと思っている。
辿り着く事のない永遠輪廻の螺旋階段。そこにひととき命のある事が唯一真実なのかも知れない。と同時に、その瞬時を精一杯生きることでしか人の誠を示す方法はないのかも知れない。
人生を問うことは出来ても、それに答えを与えることは死を迎えなければ出来ない。それが年老いた私の偽らざる感想だ。そして、そうやってまた放浪の旅が始まる…

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自分を超えた世界とは [随想随筆]

すべての束縛から解き放たれて
自分自身である事からも解放された時に
はじめて命の幸福を感じるのだろう
結局は自分を悩ませているのは自分自身の在り方なのだ
私は不満や悩みを持つことに否定はしない。
それは自分自身の投影であり己だからこそ背負っている宿命の様なものだ
人間であるからには生まれた時から人間世界の価値観で生きる様になっている
犬でも猫でも無い、人間であること自体が宿命なのだ。
不条理・不本意・不満足とどの様に付き合ってゆくか…
それもその人の人間力・器量の一部だろう。

そしてそれらを経てここに辿り着いた。
自分自身を解き放てれば、初めて別の価値観が見えるかも知れない。
現実もどきの幻想も全てが自分の世界での出来事だと気づければ
その悪夢の様な幻想から解放される。

人間に生まれたことの不自由さ不快感を受け入れられず背負えないのなら
自分の人生を否定して自殺の道を選ぶ事もあるだろう。
私はそれを愚か者とか馬鹿者とか言うつもりはない。
ただ自由と解放の道を見つけられなかった残念な者だったと言うだろう。
自分の命をその手で掴み切れなかった悲しい性だったと言うだろう。

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自分を超えた世界は存在する。
自分を超えた世界とは、自分に固執しない世界でありそれが「全てを許す」という意味になる世界の事なのだ。
その世界に触れた時に初めて、自分を超えることの意味の大きさを感じ取る事になる。

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幻想トリップ [随想随筆]

人生はまるで幻想の中をトリップするようなものだ。ひとりひとりの脳の中で作られた世界に生きて、そしてそれを全うする。人間の命は現実に存在するが、そのほとんどは架空の世界で費やされているようにも思える。ヒトは現実に生まれては幻想を旅してそしてその命を現実の中で終える。
言葉の区切りで幻想と現実を区別しているが実際にはその分れ目は見当たらない様だ。どこまでが現実でどこからが幻想か、シームレスなグラデーションで成り立っていてその境目は個人によって違っている。本当のところは誰にも分からないからこそ、その解明がひとつの学術のテーマにもなって人間世界で価値を持っているとも言える。

一般的に「現実」こそが真実であって「幻想」は虚偽であるというのが通説になっている。果たして本当にそうだろうか?私たちが見ている世界が存在する真実で、空想する世界は存在しない虚構であると言い切れるだろうか?空想することを虚構の世界として否定してしまうなら人間の営みの大半は殆どが幻想で、人生とは夢幻の時間である。

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生命の価値、生きる事の価値はもしかしたら現実世界とは別のところに在るのかも知れない。もしそうだとしたら、私たちはもっと自由にのびのびと喜びを持って生きてゆけるのかも知れない。

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コロナ禍の現場で思うこと [随想随筆]

つい最近まで保健所でコロナに関わる仕事をしていた。厚労省の送って来る県のデータ取りまとめ、市の医療従事者との連携そして市民のコロナに関する問い合わせ対応などなど…保健所はある意味でコロナ関連業務の範囲や仕事量の最も多い現場の様な気もした。
どの様な仕事現場も同じかも知れないが、外側で眺めている一般人の理解と現場で働いているプロの従事者の現実には大きな乖離があって、マスコミも含めてSNSなどで交わされる外部の評論には現実を知らずまたは曲解した無責任極まるものが多いものだ。国家規模の騒動になると善良だったはずの一般市民が支離滅裂になって心ならずも最悪の流布を撒き散らす要因になることも多々ある。たぶん戦時状況に巻き込まれたかつての時代もそんな状態だったのだろうと推測する。正しく判断してきちんとした選択をするには、情報に流されず自分を律する気持ちが無ければ、ただ誤解と混乱を生む加担者になるだけだという事を知るべきだろう。

保健所での私の主たる仕事は、海外からの帰国者の約二週間の待機期間中、健康観察として毎日聞き取りを行うのだがこれがそれほど簡単でも無い。電話での聞き取りとLINEによる自主連絡の二種類があるのだが、電話の場合はなかなか相手が出なかったり、すっぽかされたりして全てが順調にはいかない。
現実にこういった仕事をしていて分かるのは、この国のリーダーシップも頼りないものだが、それを批判する一般市民の中にも物事に混乱を起こすいい加減な人も多いという事である。そんな人たちは他人を批判したり流言を吹聴したりはしっかりやっていて、高みの見物をしながら具体的な解決策にはことごとくイチャモンをつけるようだ。担当する帰国者の健康観察にしても指導通り素直に対応してくれる人ばかりでなく、全く無視して万一自分が陽性だったら周囲にどんな被害を与えるのか考えていない人も多い。

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コロナの蔓延を防ぐという仕事をしていて、改めてこの自由な民主主義国家の元で人権に気遣いながら世の中の統制を取ってゆくというのは難しい…というかほぼ不可能と思えた。時には個人の自由を奪ってウィルスの拡がりを阻止しようと、権威に与する自分を発見して不思議な違和感を感じる事もあった。あまりナイーブな気持ちを持っていては物事を推進する事は出来ないものなのだ。
良いか悪いかの判断を考えている間は物事は解決しない。実はそれはただの迷いであり時間の浪費とも云えるのである。緊急事態の場合でもこういったモラトリアムで責任逃れをしている人は多いものだ。そんな人たちを相手にリーダーシップを発揮せよと言われる見識ある立場の人たちは、いつの時代も “悩める指導者”と言えるだろう。そしてそういった真に正しい指導者は結局ごく僅かの人たちにしか影響を与えられないものなのだ。

ワクチン接種や変異ウィルスの登場でさらに混乱が予想されるコロナの状勢だが、いずれ落ち着いた時に世の中がどういった形になって何を残しているのか…今は想像もできない。

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左様にして時代は変わり時は過ぎてゆく [随想随筆]

今年も一年が終わろうとしている。コロナ騒ぎの一年だった。今年は保健所でコロナ関係の仕事をしていたので多少なりとも身近に影響を感じた一年だった。まだまだ他人事で語っている人が多くいる。自分の身に降りかかるまで本当の怖さを知らないというのが人間の常なのだろう。

コロナを契機として様々な事を考える切っ掛けを得た。そのひとつは太平洋戦時下での全体主義的なムードに覆われた暮らしについて。私たちの祖父母や父母たちが国家の流れに右往左往して生きていた時代にも、社会的雰囲気が作り上げる “さも正しい事であるかの様なもっともらしい意見”がまかり通って、一億玉砕の危機にまで突入しようとしていた。戦時中とコロナ禍を比較して語るのはやや乱暴ではあるが、そこには多少なりとも似通ったヒントがあるような気がする。
世の中はわずかの権力者だけでコントロール出来るものではない。世論や世の流れと云うものは国民大衆を含めた大多数の人間が絡み合って形成されるものだと思う。例えば戦争反対の声にしてもそれを第一義にして叫ぶ者はどれだけいるだろうか。ギリギリに追い詰められて後戻りできない様になってから初めて本気で叫び出すのが多数勢なのだ。そして戦禍が収まり災難が過ぎ去った後に過去を検証し、当時中心となって采配を振っていた者の責任を責め立てる。間違っていなかったとは言えないが、その間違いを持てはやして更に助長させたのは誰だったのか。今回のコロナ騒動も沈静化した後に改めて政界も含めた弾劾合戦の嵐が始まることだろうと思う。

流れを正しく見つめ、事の顛末を注視しよう。歴史は往々にして歪んで作り上げられるものなのだから…。
そしてそうやって表層的に時代は変わり、人々は入れ替わって時代は同じことを繰り返し続けてゆくのだろう。

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では良いお年をお迎え下さい。


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人間力について考える [随想随筆]

あらかじめ説明しておきますが、これは愚痴や文句でもなければ誰かを否定したり反論したりするものでもありません。現代の人間とその人間たちが作り出している社会現象を洞察して私が感じている「時代人の有り様」です。
昔は良かったとか時代は悪くなっているとか時代を比較したり回顧賛美するのではなく、現象としての変化を読み取りこれから必要とされる生き方を考察するものです。世界の流れと云うものは “いつの時代が正しくて、いつの時代が間違っていた”とか言えるものではありません。常に最善と思われる選択をしながら進んでいると考えます。そしてまた、時代が進めば物事は必ずしも進歩しているとは考えません。全てにおいて過去よりも現代の方が優っているとは思わないし、現代が特別に退化しているとも考えていないのです。
私の考えはこの一点、「時代は偶然と必然の掛け合わせで、常に最善の選択で進んでいる」

前置きが長くなりましたが、今私が問い始めているのは「人間力の概念」です。何故ならここ近年の我が国では人間が質的に低下した様な感じがするからです。しかし実際には低下した訳ではありません。先にも言いましたように、時代の変化に進化も退化もないからです。基本となるベース(基軸)が変わったのでそれに伴ってそこに立つ諸々の価値観が変化したのです。
科学の進歩や技術の進化は間違いないですが、表層的に起こっている社会の出来事を過去と比較すると向上しているとは言えない様に思えます。世の中の便利さや快適さが進んだのは確かですがその事が様々な事件や問題を引き起こしている部分もあったりします。トータルにみて良くなったのか悪くなったのかは見る人の観点によって違ってきます。つまりどんな進歩や改革であっても功罪混じりてそれを意見するのは個人的感情でしかないという事です。
人間が悪くなったとか、世の中が堕落したとか、将来はもっと悲惨になるといった「一点観測の総括論」は正しいものの見方ではなくて、今の社会で忘れられていて今後もっと大切になって来る課題は「人間力」についての考察ではないかと思うのです。

 

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戦時の様相を考える~コロナ禍と戦時下 [随想随筆]

 気まぐれに思いついたことを記してみる。若い頃と違って最近では戦争を語ることが少なくなった。それに自分自身が実際に戦争を体験した訳ではないので熱意を持って語る事には違和感がある様になったとも言えるだろう。
 しかしそんな私だったが最近のコロナ禍に揺れる世情をみて、ふと過去の戦争に翻弄されたこの国の世情を思い出した。あの頃も今の様に国民は右往左往していたのだろうか?大本営発表の戦禍の情報に一喜一憂しながら日々の暮らしを送っていたのだろうか?
 戦後数十年が過ぎてから、戦争を知らない若者たちが過去の戦争を総括した時代があった。私が学生だった頃、やや年齢が上の団塊と呼ばれた世代で反戦運動が盛んな頃だった。戦後生まれの数の多さで圧倒していた若い世代が、過去の年配の人たちの思考や文化を否定的に見ていた時代でもあった。そして当時の価値観から来る時代的判断や選択を一方的に否定する風潮があった。当時の人たちは、それほど無策で愚かな生き方をしていただろうか?私の祖父や叔父や父親たちは無策で戦争に埋没してゆくほど、それほど愚か者だっただろうか?

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 顧みて今のコロナ禍に翻弄されている私たちを考える。いまの私たちの暮らしぶりを太平洋戦争の中を生きてきた人たちの生活に置き換えてみる。当時も戦況報告という情報はあった。大本営から発表される報告は初めの内は威勢よく、まるで勝ち戦の如く発表されていた。しかしその後状況が変わって敗戦の色が濃くなれば竹槍で最後の一兵まで、いや民間人も駆り出されるほど追い詰められて、それに参加しないものは非国民として周りから石を投げられる様な有様だった。
 そういった民衆を扇動する様な情報を何の疑問もなく受け入れて異論に対しては徒党を組んでバッシングしたりする戦時下の姿は、まるで現在のコロナ禍に於ける数々の評論やそれに対するネットでの過熱状況を彷彿としてしまう。マスコミでの評論家も然りだが、SNSで様々な論を展開する“自称・評論家”にしても、これがかつて太平洋戦争の時代に戦争を論評していた者たちと変わらぬスタンスで論じている事に気づかないのだろうか?そして私が言いたいのは、今尤もらしく論じている “その場ご都合・評論家”たちはこの“戦争”が過ぎ去った後にかならず当時の“戦犯”を引きずり出し批判する立場を取ることで、自分たちの語った事を有耶無耶にしてしまうのだろう。
 事が過ぎた後で批判をする者の大半は、かつてそれに組みした者である事を私は知っている。 毎年8月15日の終戦日が来るとマスコミなど各方面で太平洋戦争に関わる番組があるが、今年令和2年の夏はぜひ現在のコロナ禍に於ける世情を重ね合わせながら考えてみたいものである。

 過去の戦争に於いては国家として提供された情報とそれを受け取る民衆との間に誤解とギャップがあったが、それは今でも同じで本来の目的である戦争忌避から離れて扇動される形で勝手に非難し合って自爆しているという姿が至る所に見受けられる。民間での討論争いに気づかなければ、今回のコロナ禍の様に「国難」に姿を変えて民衆は右往左往して同じ過ちを犯すことになるだろう

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ウィズ・コロナと新しい生活習慣を考える [随想随筆]

新型コロナ・ウィルスのまん延を期として「新しい生活習慣」というコンセプトが登場した。
その前に既に「働き方改革」という政治的アプローチがなされていたが、政治主導のお題目の様なアプローチよりも、実生活の危機感に根差したものの方がダイレクトに庶民には伝わるようだ。結局は政治で主導しようとしても思うままにならず、庶民は自分たちの本能で選択して考えるのかも知れない。そういう意味では逞しいものだなと思った。
しかしまた庶民は変化や苦労を嫌い、流されて生きる事を選ぶ性質があるので今は新しい生活習慣とか言っていても、喉元を過ぎれば熱さを忘れて勝手の良い過去の生活習慣に戻ってしまう可能性大だろう。

だが、もう戻れない “ルビコン川”を渡ってしまった感のある事も事実だろう。今回のコロナ禍によって、混乱時には無責任であやふやな情報が氾濫して政治的な判断では庶民の生活は守れないという事が分かった。社会のインフラや救済機構の整備など頼るべき課題は沢山あっても、それに取り組む人たちの人的資質が期待外れだったりもして、結局自分の生活は自分で守るしかなく、一部の上級国民(こんな言葉は嫌いなのだが…)と言われる人たち以外は国のシステムに守ってもらう訳にはいかない。では、どうしたら良いのか?…
まず、他人の生き方ばかりを追いかけるのはやめにしよう。自分自身の「幸せ感」をしっかり心に留めよう。そして物事を単純にシンプルに捉えて考えよう。時代の趨勢、周りで起きている事の多くは単純なものの組み合わせから成り立っていて、それを複雑にしているのは人間自身の身勝手で誤まった解釈なのだから、そんなものに同調する必要はない。今の時代となっては情報の多くでさえ信頼に値しないものが多くなった。「パラサイト」で生きてゆくのでないならば、自身のオリジナリティをもっと信頼すべきだろう。

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私個人は年老いた人間のひとりとして、改めて原点を見直してはどうかと感じている。働き方にしても、PCのルーティンワークにしても、日常の時間の過ごし方にしても…もっとイージーでシンプルな “次の時代の捉え方”があるのだと思っている。
自分自身を解放させるという事はこれまでの思い込みから離れて、不条理な力に蹂躙されない「ウィズ・コロナ時代の生き方」なのだと思っている。

 

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塊より始めよ ~再び [随想随筆]

混沌の時代に、夢を求めて生きるには
決して絶望しない気構えが大切だ。


私は闘いを続けている
何度も打ち拉がれては、それでも生きてゆかねばならない自分を引きずって明日に向かう。
大きな未来も、小さな勝利から始まるのであれば
決してあきらめず「塊より始めよ」


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上記は2005年1月、拙ブログを始めた第一頁目に記したものです。
何かを見失いそうになったとき、私はこの言葉に戻ります「塊より始めよ」。
慌てることは無い。恐れることは無い。悲しみ苦しむことも無い。
すべては塊から始まるのだから、すべてを失ったとしてもそこに戻れば良い。



また今回もここに戻って来た。帰るところが在るということを忘れる勿れ。
決して自愛を失うこと無き様に。
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…And then.


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パソコンがまたまたトラブル [随想随筆]

ディスクドライブの修理から帰って来たと思ったら、今度はディスプレイ画面に線が出始めて日ごとに数が増えて困った状態になっている。正直に言って修理に出した業者が間違っていた様にも思うが今更言っても始まらないので自分で何とかするしかない。

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DIOS を初期化してみたりドライバを再インストールしてみたり、あれこれいぢって見るのだが、もしかするとハードの部分で何か問題があるのかも知れない。そうなるとまた修理に出すしかないしお金がかかる。
あと一年くらいは買い替えられないので…しばらくこの状態で我慢しながら使っていこう。それにしても、やはりPCに頼りきりの生活は何かと不安なものだ。

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パソコンを修理に出す [随想随筆]

パソコンに不具合があって修理に出す事にした。一週間くらい掛るらしい。
そこで改めて感じたのは日常の不自由さだった。空いた時間に文章をまとめてみたり、これまで描いた絵をデータ化して修正してみたり。はたまた銀行口座をチェックしたり振込みの準備をしてみたり…
それにちょっとした気づきの文章を日記として記録してみたり…当たり前のように日常のルーティンワークとして行なっていた事のほとんどがパソコン頼りだったことを改めて実感した。
手足を取られた様な、感覚の一部を削がれた様な、脳の一部が思考停止になったような…すこしオーバーだが、それくらい不自由感を感じる。
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たかがパソコンがなくなったくらいでまるで日常からボイコットを喰らい、為す術もなく呆然と過ごすなんて…何か変だ。当たり前だと思っている日常が、当たり前では無くなった時に如何に対処するか。これは一種の危機管理でもあり原点回帰の試金石でもありそうだ。
実際にはWindows XP が動くのでそれを利用して対処しているのだが、バージョンダウンしてもそれでやって行けるという事を証明してみたい。無理してパソコンから離れるのではなくて、今出来る環境でやり過ごすという事である。
どんどんバージョンアップして高度に突き進んでゆく事の必要性もあるが、そのままで別の展開をしてゆくという道もある事を発見してゆきたい。

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新しい事 Something new. [随想随筆]

比較的新しい事を考え続けて来た様に思っている。若い頃は様々な職種に手を出してきたが常に“何か新しい事”に心動かされて来た。訳もなく新しい事にこれまでに無い価値を感じていたのだが、これは自意識の一種だったのだろうと思う様になった。
月並みな事が嫌いで少しでも変わった事や新しい事にやりがいを見出すというのは、実は自己アピールをしたがっている事を意味している。自分の存在価値を他と違う事で示したいのだろう。思えば子どもの頃からそんなところがあった様だ。生まれつきのDNAかも知れない。

近頃は新しさを追い求める気持ちは少なくなった様に思う。“古い・新しい”という観念が変わったのかも知れない。歴史の長い時間で見れば、古いものは新しく生まれ変わり、新しいものはいずれ古くなるのであって、そこには時代の評価があるだけで本質的には何も変わりはしない。更に云えば、この世にあるものは“既に在る”のであって新しく生まれたものは何もないと言える様にも思う。全てが過去の焼き直しに過ぎないと言ってしまうのは乱暴だが、我々の生み出すものは何らかの形で過去を踏襲した部分が生きている。
だからと言って次々に生まれる“新しい創作物”に価値が無いと言っている訳ではない。時代の風を読みながら生み出される創作物には“今の時代に生まれた価値”というものがあると考えている。ただ必要以上に“オリジナリティー”を強調したりこだわる事には疑問を感じるという訳だ。

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時間の流れというものは例えば螺旋階段の様なものに思える。ある部分で切って見るとグルグル同じところを廻って輪廻する様にも見えるが、離れて俯瞰して見ると同じところのように見えて少しずつ変化して決して同じところには戻って来ない。進歩しているのか後退しているのかは分からないが決して同じところに戻らない。
そして更にそのトップにひねりを加えてボトムに繋ぐと螺旋状のメビウスの輪が出来上がる。これは単なる観念なのだが、私は時間というものをそんな感じで捉えている。そうやって長い歴史や時間の流れを捉えてみると、現在も過去も未来も全てがひとつになって古いとか新しいとかの観念が薄れてしまう。
いつの時代も“今がすべてであり永遠なのだ”という感じがする。

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