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答えの向こう側~流浪の始まり [随想随筆]

「人生如何に生くべきか」答えに辿り着いたと思っても、それは砂漠で見つけた泉の様な蜃気楼そのものである。
時間を止めて氷の中に閉ざさない限り、答えは形を変えて変幻自在の顔を持つようだ。「正しい答え」とは一体どんなものなのだろう。
答えを求めて人生を歩いてみてもそこには時間と共に朽ち果てるひと時の幻影があるのみだ。

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雲の上の虹の門。辿り着いた門を潜れば答えの向こう側に更に問わず語りの声が聞こえる。そうだ、この声が聞こえる限り私の旅は終わらず私は問い続けるのだろう…。
答えの向こう側には新しい問いが待っている。この人生に辿り着くべく “解決”というものがあるのだろうか。永遠の彷徨いこそが人としての宿命なのだろうか…。

いま私はふたつの答えを持っている。ひとつは辿りつく事のない終着に向かって今この時を生きる事。もうひとつは原風景を顧みながら出発の原点に向かっての下山を進めること。相反するふたつだが、その融合があっても良いはずだと思っている。
辿り着く事のない永遠輪廻の螺旋階段。そこにひととき命のある事が唯一真実なのかも知れない。と同時に、その瞬時を精一杯生きることでしか人の誠を示す方法はないのかも知れない。
人生を問うことは出来ても、それに答えを与えることは死を迎えなければ出来ない。それが年老いた私の偽らざる感想だ。そして、そうやってまた放浪の旅が始まる…

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※[追記]
 こういった文章を書いていて、ふと思った。文章というものは二種類あって、ひとつは他者に伝えて何かの効果を生み出すためのもの。もうひとつは、自分自身に向けて何かの効果を求めての独り言のようなものである。そしてブログで書いている私の文章の殆どは私が自己証明をするためのものの様に思える。時には他人が自分の本質に気づくように言葉を投げ掛けようと思うこともあったが、それも結局は自己愛の延長なのだと悟らざるを得なかった。つまり言葉の投げ掛けはどこまでいっても自分を愛している行為にしか過ぎないという事のように思えた。
 私が自分の言葉にそう結論づけた理由…。それは、相手に伝えようという心遣いが希薄だからである。文章の構成が、自分の考えを表わすことに重きを置いていて相手に伝わっているかは二の次になっている。相手の見えないSNSだから仕方がないとは云えそれでは街頭の壁の落描きと変わらない。他人に伝えようと思えば、相手の身になって相手の言葉で翻訳した内容を相手のためであるかのように表わすことが必要だからだ。そういう視点から考えれば、人を誑かそうとする詐欺師やペテン師の方が言葉の使い方の的を得ていると言えるかも知れない。

 私は自己の確信を深めるために自分に向かって語っているに過ぎない事を、少なくとも私自身は知っていなければならない。それが愚か者にならないためのひとつの条件だろう。

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U3

 こんばんは。
 昔から文章を書くのは好きでした。会社員時代はそれで随分と重宝されました。今は自分に向かうのと外に向かう文章が一つになった気がします。
 
 私事です。「正義の証明」の最新記事アップしました。
 その他にMacOS Montereyのバージョンアップ画面が冒頭にあります。是非見てください。
by U3 (2021-10-29 18:11) 

扶侶夢

>U3 さん、ご来訪&コメント有難うございます。

U3 さんの熱と意の籠もった文章表現には驚かされています。エッセイ、ルポ、小説、ノンフィクション…器用な分だけジャンルを絞るのは難しそうですね。

『復讐するは我にあり』の真の意味がお蔭で判明しました。神の言葉という事であれば、なるほど納得できますね。
by 扶侶夢 (2021-10-30 11:02) 

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