バランスの話 [制作日記]
【すべての存在はバランスによって保たれている】
体を流れる血液も体を組織する細胞も、赤血球や白血球そして塩分や糖分…一人ひとりが違った体質でバランスを取りながら生きている。
太陽とその周りを回る惑星も、ブラックホールもホワイトホールも…それぞれがバランスを保って存在している。
重心はバランスを取るために常に移動し続ける。
移動して変化し続ける理由は安定を保つためであり、固定された安定は停止であり全ての終わりである。
生き続ける限り、人は変化し続けて…その中にバランスを発見する。
バランスの基とは、愛…?そう言う人も居るようですが…。
バランスは意識の外にあるものみたいですね。あまり意識しすぎると、ますますハズレてしまうような…
(子どもの頃、自転車の練習でありましたね。溝に落ちてはイケナイ・イケナイと思うとますます溝に向かって行っちゃうみたいな…)
私のバランスは“絵を描くために思考し、絵本によって表現すること”で調整しているみたいです。
☆2011年9月21日/記
憧れを抱いて作品を創る [制作日記]
私が影響を受けた画家やイラストレーターや芸術家というのは大勢いるけれど、多感な十代から二十代にかけて受けた影響というものは、やはりベーシックな存在として生き続けているものだと思います。
私のデザイン的な面、イラスト的な指向は、二十代に出会ったミルトン・グレイザーの影響が大きいです。多分個人的な嗜好がピッタリと合ったのでしょうね。“師との出会い”というのは、案外そういった“好みの傾向”でマッチングが決まるものです。
27歳の頃に描いた絵本のイラストが見つかったので眺めていて、改めてその頃の発想やモチベーションの自由さ&素直さに、現在の自分のいくつかの部分を反省させられました。
そして、「人ってやつは、全面的に向上してるとは言えないものだなあ…」「何かを得れば、何かを失うことが多いものだ。やれやれ…。」などとため息をついてしまう今日この頃でもありました。
(ま、そんな事は当然分かってる事なんですけどね…)
☆
☆2011年7月9日/記
新・錯視の世界 [制作日記]
錯視の世界に足を踏み入れると、自身をも含めた様々な物事の位置関係を再確認して驚かされる。
私たちは、生まれてから自我を形成するよりも前に社会の枠組みの中に放り出されて、否応なく既製品の衣服を着せられたかのような人生を送っている。
ほとんどの価値観は自身が探り当てたものではなく、何者かの都合で社会が形成した「あるべき価値」として呪縛されたものだ。
こういった社会の既成概念に対するアンチテーゼを、かつて昭和の若者たちは様々な形で投げかけて来た。そして僅かながらもそのいくつかはささやかな意識の変革を芽生えさせたかのようにも見えた。
…しかし、それは儚い錯覚だったのだろうか?変革の意識は受け継がれることなく元の木阿弥となって、過去の社会問題はなんら解決されないまま平成の若者たちに手渡され保守されている。
☆
錯視の世界とは視座の変換なのである。
主であった自己が従になり、従として眺めていた風景が主の座から見えるようになる…そんなパラダイムの変換なのである。
新しいものに気づくという事は、視点が変わる事に他ならない。現存世界が変わるわけではないからだ。
視点を変えるだけの事だと言ってしまえばこんな簡単な事はない。
世界を変えたい、生き方を変えたい、そんな願望はよく耳にするけれど、本当のところ変化などというものは拍子抜けしてしまうほど実にあっけないもので、殆どの人たちは変化することを恐れたり拒んだりしているのが正直なところだと思う。
視点を変え次元を越えてみる発想と勇気が、21世紀を生きる人たちには更に求められるような気がしています。
☆
紙を広げて上から見たところ…今回はあまり3D効果は発揮できなかったようです。
☆
続々・錯視の世界 [制作日記]
絵を描くという作業からみれば邪道だけれど、絵とオブジェとを並べて撮った写真で、場合によってはエフェクトも掛ける…そんな遊びは面白い。
タブロー画家のポリシーには反するものだろうけれど、面白い発見の生まれる事もあって、一種のイタズラ描きのようなものだと思う。
私にとってトリックアートはまさにイタズラで、指先と頭脳と想像力のリハビリでもある。誰に見てもらうでもなく、ただ見た目の錯覚で裏をかいた行為が痛快で楽しい。
遊びをせんとや生まれけむ…
生真面目な生き方も素敵だが、度の外れた遊び心にも人生の妙がある。
遊びの心というものは広くに通じるが、特に学術・芸術には貴重な要素なんでしょうね。
錯視のスケッチを描いていると、人間の視覚っていい加減だなぁと思えてくる。
真面目に真剣に見つめれば見つめる程、その基準に縛り付けられて錯覚に陥る。
人間というヤツは、自分の信じている感覚が“間違いやすくどうしようもない出来損ない”である事を知っている方が致命的な過ちを犯さなくて済む…その原則を、この錯視の世界から学ぶ事が出来ます。(笑)
☆
▲角度によって3Dに変化してゆく様子をご覧下さい。
続・錯視の世界 [制作日記]
日常業務や作品づくりの合間に息抜きのようなつもりで、トリックアートをあれこれ弄ってみるのも面白いです。
今回はトンネルを通して、向こう側から飛び出してくる感じを試してみました。
少し難しいですがこれが応用出来ると、パンドラの箱から色々飛び出してくる、というような表現も可能になりますね。
☆
トリックアート専用のスケッチブックというのを用意しました。
真ん中から折り曲げて、3D表現で観れるように工夫したものです。
スケッチブックを工夫していて「ダブル・トリック」というアイデアが浮かんだので、いずれ試作をしてみたいと思います。
果たして試作の結果は自分がイメージしているものと同じ様になるか?こういった試みが多くのジャンルやテーマに於いて新しい視点を生み出すための過程なのだと思います。
錯視の世界 [制作日記]
近頃少し「トリックアート」にハマっておりまして…
本当はエッシャーのような本格的な芸術作品にため息をついたりして画集なんぞを手に入れたいと目論んでおりますが、如何せん値が高い (-_-;)
そこでトレーニングがてら…なんとかモノに出来たら自分の表現の一部に利用してみたいと…我流で取り組んでおります。
下のイラストは「風船」という実験習作で、向こう側の指を差している子どもから風船が向かって来ているように見えればお慰み!↓↓
実際に肉眼で見れば割合と飛び出して見えるのですが、カメラのレンズを透すと3Dは難しいようです。
角度をつけて描いた絵を90度に折り曲げて、斜め方向から見れば立体的に見えるというのがこのトリックアートなんですが、やりはじめると、色々な構図や場面設定を試したくなってきます。
☆
下の写真はその展開図 ↓
基本のX軸・Y軸から角度をつけた下書き用ベースラインを引き出すグリッド線の法則的な計算式が分かればもっと正確にお手軽に出来るのでしょうけれど…
どなたか方程式の分かる方がみえれば、コメント欄にでもご教示ください。
私が初めて試作したのが下のスケッチです。
シンプルな構図と絵柄が効果的だったようで、気を良くしてその後もあれこれと制作意欲が湧きました。
こういうものは、最初からあまり立派なものを作ろうなんて目論んではいけません。挫折してヤル気を失くします。
今後十数枚くらい描いたら、この手法で少しばかりテーマ性のあるものも手掛けてみたいと思っています。
見せかけという錯視の世界。
目に見える世界と見えない世界。
表面的なものとその裏にあるもの…etc.
そういった多次元的思考が表現できる制作手法が見つかれば面白いですね。
久しぶりに離島を描く [制作日記]
訪れようと思っていて機会に恵まれず、ついに寒い季節になってしまって春まで待つことになった。
それでも離島の景色に触れたくなって、スケッチのまま放っていた一枚に手を入れることにした。
私にとって「離島」は内面の世界でもあるので、一般的なアングルとはどうしても違ってしまう。
だから島を外側の海からの視点で俯瞰して見る構図にはならない。
離島の内側、生活の匂いを追い求めてしまう。
☆
それでもこの次訪れるときには、また別のアングルから描いてみたい。
視点を変えるということは価値観の尺度を変えてみるということでもあるからだ。
離島に暮らす猫の様子もスケッチしてみたい。
離島はどこまでいっても、私にとっては心象風景になってしまう。
越えてゆく感覚 [制作日記]
何かを描き残したくて絵に向かっているわけではない。
今の私には、日々を生きている行為として、呼吸をするように絵を描かせているだけの事なのだ。
落書きのような位置づけでとても作品と呼ぶものではないが、それでもひとつひとつ描き下ろしてゆくたびに、何だか゛越えてゆく感覚”を得ることがある。
何を越えてゆくのか知らないが、余分なものを削ぎ落としてゆくのかも知れない。
若いころと比べると、本当に「逸る気持ち」が無くなったと感じる。
…とは言っても、一生懸命な気持ちになって絵を描いたり表現物を創作したりするときもある。
それは何故だか分からないが、切実な気持ちになって「何かを言い伝えたくなる時」
そんなモチーフがまだ自分の中に残っているのかと思うと、それはそれで愉快だなとも思う。
そして今は、「まだまだ先はあるんだなぁ」という感覚に浸っている。
この社会の中でものをつくる心得 [制作日記]
宮崎駿氏がインタビューに応えて言っていた「迷惑を掛けずに生きるなんて言うな。人は迷惑を掛けながら生きているものなんだ。」
耳ざわりの良い言葉を免罪符代わりにしてはいけない。私が時として言葉を嫌うのはそんな理由からなのだ。
犯している罪は罪として認めることが唯一許される可能性なのだと思う。
☆
私たち人間というものは 他人の犠牲の上に成り立っている。その事実を深く知るべきだろうと思う。
生きているということは、誰かがそのための糧となるものを提供したからこそその恩恵を受けて生命を維持出来ているとも考えられる。
しかし“だから世の中に感謝して生きる”などとは決して言うつもりはない。
ここが世に流行る似非説教や偽慈善勧誘の盲点だから気をつけないといけない。
☆
この世に生まれ出でたということは、すでに罪を犯す宿命を背負って生きることなのだと思う。
しかし人間の感受性はそんな事を許すことが出来なくて苦しんでいる。
何故、善悪だとか正義だとか言っては罪の上塗りをし続けるのだろう?
☆
何のために制作しているのか、そんなことを考えずに無邪気にものを作りたい。
優しい木 [制作日記]
無意識の内に画面に木を描いている。
これは子供の頃からの習癖のようなものだ。
なんとなく落ち着くからというのがその理由だ。
フロイトもどきの心理学的考察によって幾らでも解析はできるのだろうけれど
大切な事はそんなことではないと思うので深くは考えない。
☆
私が好きな物語がどれも「木」をテーマにしているというのも、単なる偶然でもなさそうで面白い。
ひとつはシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』(原題:the Giving tree)
もうひとつはジャン・ジオノの『木を植えた男』
『おおきな木』はいつか自分なりの手法でイラストかミニ・アニメで表現してみたいテーマだ。
本というものは様々な形で自分の人生に影響を与えるものだが、私にとって『おおきな木』は単なる絵本ではなく、それによって父母に対する向き合い方に“気づき”がもたらされた啓蒙書であり、そのおかげで私は特に父親に対して悔いの無い看取りが出来たと思っている。
『木を植えた男』はジャン・ジオノ作の寓話なのだが、挿絵を担当しているフレデリック・バックのアニメーション作品は格別に素晴らしい。
物語は長い年月を掛けてひたすら木を植え育て続けた男の物語だ。特別なドラマは起こらないが人生の持つ大きな意味とその力が表わされている。
☆
☆
希望を表現するということ [制作日記]
未来に向かって期待を持ち続けることは
毅然とした勇気の要ることである。
斜に構えたり、解かったような事を言ってやり過ごすことは
実に月並みなことで、少しも難しいことではない。
☆
絶望の淵に立って、それでも明日への期待を捨てない生き様
他人から「大ぼら吹き」と言われるような生き方の中にこそ
未来の可能性が発見されるのかも知れない。
無人駅に立って、
夜空に咲く花火を眺めながらそんなことを思い浮かべていた。
好きなものとの語らい [制作日記]
[私の昭和/「冬の停車場」]
優しさは強さです。
好きなものと生きているときに、人は優しくなれます。
だから貴方の好きなものは、貴方を強くしてくれる大切な命です。
☆
好きなものを好きと言えること
好きなものの傍で一緒に生きること
そんな勇気を持つことが人を優しくしてくれる。
☆
「好き」って感じは大切です。
そんな感じ…持ってますか? そんな感じで生きてますか?
私は淋しい気持ちも 好きです。
陽だまりの席 [制作日記]
陽だまり・木洩れ日・冬吐息 [制作日記]
私の好きなものに、「陽だまり」「木洩れ日」「冬の吐息」がある。
何故好きなのか自分では分かっている。
ただ、そんな個人的な嗜好をモチーフにしようとは思わなかったから、意識の片隅にずっと寝かせてきた。
歳を取って、様々なものを失ったり削り取られたりしてくると、ようやく自分の我がままと共に生きてきた貴重なものの“けなげさ”に気づく。
私には「陽だまり」が「木洩れ日」が「冬の吐息」が愛おしくてたまらない。
「陽だまり」…それは懐かしさ。そんな時間と空間が確かにあったことを覚えている。
「木洩れ日」…それは幻想。光のオーロラが木立のブラインドから降りそそぐ。
「冬の吐息」…それは優しさ。生命の肌触りがシルエットになって映えている。
☆