写真作品としての「猫」 [ねこ次元]
[猫]
もしもこれが絵画であったなら「猫」というタイトルはつけないであろう。(そもそも構図的に「絵」として成り立たないかも知れない) 私が絵画でネコを描こうと意図するなら、それは対象を画面の中に配置して観察するように描こうとするからだ。
しかし一枚の写真として、その場面と時間を切り取った作品として感性を表現しようとした場合は、ねこの存在感だけで充分だと考える。
「描かれていない絵」は無さそうだけれど、「写っていない写真」というのはあるのかも知れない。
“眼で見ることの不自由”
“時空に囚われることの不自由”
芸術はそれらからの解放に向かって、挑戦的な一面を持っているように思える。
ねこの次元 [ねこ次元]
何故絵を描くのか?
何のために絵を描くのか?
何を求めて絵を描くのか?…
何故人は生きているのか?
何のために生きているのか?
何を求めて生きているのか?…
そんな類の事は何十年もの間、考え続けて生きてきた。
人を愛してきた。人を憎んできた。
信じることもあり、裏切ることもあった。
正しい事も、間違った事も、成功も失敗も繰り返してきた。
生きようとしてきて、死のうとしたこともあった。
それほど深く人生の旅路を続けていても、ねこの次元をも知ることはない。
一冊の絵本さえも、まだ仕上がらずにいる。
まだ猫たちのこころを僕は捕らえ切れずにいるようだ。
「猫の描いた絵本」との出会い [ねこ次元]
セピア色した暖かな記憶が 僕の中には眠っている
目くるめく日常の中で 引き出しの奥にうずくまっているけれど
もしかしたら それはとても大切な思い出なのかも知れない
☆
僕がヒトになった頃 当然のように傍にはネコがいた
名前は「ミーコ」 僕が親姉妹の名前よりも先に口にした名かも知れない
寝起きを共にする仲良しだったくせに
時々イタズラで火鉢に突き落としてみたりする 僕は迷惑な家族だったようだ
そんなミーコも13年間生きて 夢にまでみた新居に引っ越した年に亡くなってしまった
友だちも居なくなった新しい環境が たぶん暮らしにくかったのだろうね
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その後も たくさんの猫たちが たくさんのメッセージを届けてくれた
そして僕は若者になって 大人になって 初老の扉の前に立ち
ようやく 一冊の大切な絵本を見つけることが出来た
それは たくさんの猫たちが僕に届けてくれた命
ひっそりと納屋の奥に仕舞い込まれていた 『猫の描いた絵本』
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「猫の描いた絵本」に魅かれて… [ねこ次元]
我が家にたくさんの猫たちが集まり始めたのは、もう四年も前のことである。一番最初はトラ猫の「ミカン」。そして続いてほぼ同じ日に「ブッチ」と「シロチビ」。それからブッチに子どもが生まれて…、どこからか子猫が舞い込んで…、でも何匹か貰われて行っちゃって…
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猫たちにとって、この世界ってどんな感触なんだろう?陽ざしがポカポカして気持ちいいときは、ベランダに天国を見つけるんだろうな。好物のキャットフードを目の前にしたときも幸せに違いない。
…でも、そんな猫がこっそり描き綴った絵本が どうやらガレージの奥にしまってあるらしい。そんな噂に魅かれて私は ガレージの隅っこをのぞいたり、地面にへばり付いてみたり…。
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もう後一週間くらいで今年も終わり、年を越すことになるけれど、まだ猫の描いた絵本は見つかっていない。
結局、『猫の描いた絵本』を見つけることは出来なかったかも知れないけれど、私にとってはその存在を知ったことは大きな幸せだった。
そんな訳で『猫の描いた絵本』を探す旅は、そのまま来年に引き継がれることになった。
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「猫の描いた絵本」って、どんなだろう? [ねこ次元]
猫の描いた絵本って、どんなだろう?
それはきっと、わがまま気ままな表情で
それはたぶん、好奇心いっぱいな表情で
それはもしかすると、悪戯っぽい表情で 私を眺めているかも知れない。
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「猫の描いた絵本」を探して… [ねこ次元]
『猫の描いた絵本』を探し始めて、もう一ヶ月が過ぎた。
猫の足どりを追いかけて、板塀のすき間や縁の下をのぞき込んだり…。
背中を丸めて、頭を屈めて、息を殺しながら…そぉっとガレージに忍び込む。
なんだか自分自身が猫になっちゃったみたいだ。
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プラスチックのトレーが落ちていた。いつも餌をあげていた入れモノだ。
どこかに無くしたと思っていたら、こんなところまで持ってきてたんだね。
もしかするとこの近くに…
絵本を描いていた猫のためのアトリエがあるのかも知れない。
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