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前立腺ガンと肥大 決断の時 [日々の背中2:糖尿前立腺ガン編]

初期の癌の早期発見でとりあえずは経過を見る事で落ち着いていたのだが、前立腺肥大の影響もあって尿道狭窄でオシッコが出難く、何かの拍子に炎症を起こしたり黴菌が入ったりする事もあって、放置すると今度は腎臓に負担がかかって腎不全に至るという説明を受けたので、思い切って前立腺の摘出手術をする事にした。
前立腺が疑わしいと言われ、初めて生検をしてから9年が過ぎた。尿の出は少し悪くなったが生活に支障をきたす程ではなかったので様子を見ながら過ごしてきたのだが、これから先ずっとガンの心配の種を抱えているよりも、今体力のあるうちに手術してしまった方が得策の様な気がした。そうすれば前立腺の事は忘れてもうひとつの持病の糖尿に集中出来るというわけだ。

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 <↑ gan-mag.com HPより転用>

来月から早速に手術のための前準備が始まることになった。ロボット手術は体を逆さまにして6時間くらいの施術で頭に血が上るために緑内症の有無や眼圧の検査が必要となる。それと厄介なのが、私の場合は糖尿病も抱えているため手術の時までにインシュリン治療などで血糖値を下げ整える必要がある。ロボット手術の場合、輸血はまず必要ないらしいのだが糖尿はネックになるらしい。そういった諸々の調整準備に3週間ほど掛けてからの手術らしい。
令和最初の年越しは病院で過ごすことになりそうだ。これも貴重な体験だね。


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'72年4月、スペイン満喫の日々~プラド美術館

 北アフリカの旅からスペインに戻って来たのは四月の春のことだった。
ほんの通りがかりの国で通過するつもりが、マドリッドは最高に楽しく生活を享受できた街で、あまりの心地良さにほんの4,5日の予定だったのが、つい2ヵ月も住み付いてしまった。安価なペンションで下宿生活を続けていると、旅人であることを忘れてマドリッドの住人のような気分になる。
街にいる時は、ほとんど連日プラド美術館で過ごしていた。特にルーベンスの絵画に触発されて美術館通いをすることになろうとは考えてもみなかった。
また時には3,000kmまで乗り放題という鉄道チケットでスペインの国内を思いのままに訪れたこともあった。
一ヵ月近くかけて気持ちの趣くままに、郊外のトレドをはじめアビラやコルドバなど城壁の街を訪れてとてもいい旅三昧だった。


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 ▲アビラ城壁(上)、コルドバ市街(下)~スペイン観光協会パンフレットより転載


マドリッドのペンションに戻ってくると馴染みのおばさんが以前と同じ部屋を用意して迎えてくれた。
隣りの部屋には別の日本人が泊まっていて、親しく話を交わすようになった。
彼はアメリカから渡ってきた長髪に髭のヒッピースタイルのジャーナリストで、一ヵ月ほどアメリカをヒッチハイクした後に現地ルポを日本の雑誌「平凡パンチ」に送っていた。大西洋を渡って今はスペインでヨーロッパ紀行の準備をしているところらしかった。
昼間のプラド美術館通いを終えると夕飯を待つ間にこの隣人とよく会談をしていたが、ある日彼が持っていた「ハシシ」(※大麻・マリファナの類い)を勧められて体験する事となった。
その頃の私はまだ未成年でタバコも習慣になっていなかったがハシシにむせることもなく、彼の持っていた吸引パイプですんなりと馴染んでしまった。
ハシシはLSDやコカインなどとは違って薬害中毒になるようなものではないらしく(但しアタマは少しばかり酒に酔った状態のように浮いた感じになるようだ)2週間ほど瞑想状態に入っていたが何ら問題もなかった…ように思った。
マドリッドでのハシシによるトリップ体験は単に気分の良いハイな感覚というだけで、決して怪しく危険な薬物というようなものではなかった。
勿論のこと、私はドラッグや薬物を推奨するものではないが率直に言えば若い頃は何に対しても好奇心があって、また社会的常識を超えて体験を通して語る“実践主義”だったので社会通念の是か非かを気にしないところがあった。


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 ▲連日のように通ったプラド美術館。ルーブルやエルミタージュと比べると小じんまりしているがコレクションは充実。 


ドラッグ体験を正直に言ってしまえば、それは飲酒で開放感を得るのと何ら変わりはないのだが、ある種の陶酔の境地に入ることで感性は制約の枠を越えて、常識的価値観を逸脱した自由で開放的な感覚になる。多くのクリエーターたちが創作の源にドラッグ体験に興味を持つことも肯ける気がする。
しかし、その自由奔放で社会通念や規則管理を無視してしまう創作活動が、アナーキーで犯罪的な側面を持ち、時として社会権力に対抗する義賊のような偶像性を生み出す。そして多分この事が社会を管理するポリティカル・パワーからすれば厄介なものなのだろう。
(それにしても、著名な芸術家や創作家の多くが一度や二度はドラッグ体験をしているなどという話しは周知の事実として暗黙の了解となっているんですね。)


実は私がプラド美術館に通いルーベンスの絵に魅入っていたのはハシシの影響が少なからずあるように思う。
色々とカルチャー・ショックを与えてくれた隣人だったが、ある日持っていた一冊の文庫本を薦めてくれた。大江健三郎の『万延元年のフットボール』という難解な長編だったが、彼曰く「ハシシをやりながら哲学書や難解な物語を読むと、不思議と脳が活性化して思考力が拡がりその世界を理解することが出来る」…
理解が出来ているのかどうかは分からないが、難しい文章を読んでいても全然苦痛ではない事は確かだった。たぶんこれはハシシというものが、脳に対して思考することに対して苦労を与えないような働きがあるためだろう。とにかく気持ちの良いくらいの理解力で頭にスースーと入ってゆく感覚だった。
 


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 ▲ペンション屋上のテラスにて(当時19歳の私) 


スペインは当時フランコ将軍の独裁政権で街中いたる所に秘密警察がウヨウヨしていた。
独裁政権の国なんてものがあまりピンと来ない日本の若者だったのでお気楽に観光していた私だったが、或るアメリカ人がとんでもないトラブルに遭って私も他人事でなくゾッとした事があった。
マドリッドにも蚤の市があって、ヒッチハイカーたちも旅の資金稼ぎのためにちょっとした土産物を並べて売りさばいたりする事があったのだが、
そのアメリカ人はたまたま持っていた赤い表紙の『毛沢東語録手帳』のレプリカを並べて売ろうとしていたようで、文化大革命後の中国共産党員が持つ記念品として高値がつくと思ったのだろうか極右のフランコ政権の国である事をまったく気にもしていなかったのだ。…大らかで気の利かないアメリカ人らしい(笑)
国家を揺るがす思想犯として極秘逮捕からそのまま投獄され、日本では考えられないような独裁国家の事情で駐在の大使館に連絡が入ってから救い出されるまで数ヵ月も牢屋に入っていたらしい。
太陽と情熱の国というキャッチフレーズで“明るく楽天的な国民性”というふうに理解していた当時のスペインで、政治の意外な影の部分を見たようだった。 


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パソコンがまたまたトラブル [随想随筆]

ディスクドライブの修理から帰って来たと思ったら、今度はディスプレイ画面に線が出始めて日ごとに数が増えて困った状態になっている。正直に言って修理に出した業者が間違っていた様にも思うが今更言っても始まらないので自分で何とかするしかない。

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DIOS を初期化してみたりドライバを再インストールしてみたり、あれこれいぢって見るのだが、もしかするとハードの部分で何か問題があるのかも知れない。そうなるとまた修理に出すしかないしお金がかかる。
あと一年くらいは買い替えられないので…しばらくこの状態で我慢しながら使っていこう。それにしても、やはりPCに頼りきりの生活は何かと不安なものだ。

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「法」の存在意義 [21世紀の種]

大麻の広告を公に出して販売していた業者が摘発されていた。事件自体よりも“大麻の広告を出す”という業者の考えに興味を惹かれた。大麻を販売する事が少しも悪いとは考えていないから堂々(?) と広告を打った訳なのだろうが、実は大麻吸引が身体に害を及ぼす率はタバコと比べても低いという事を分かっている人は大勢いる。しかし誰も口に出しては言わないのは、それが法律に触れるからで日本の国では違法であり犯罪である事を知っているからだ。
例えばオランダなどでは公共の場で白昼堂々と大麻を吸って歓談してる姿は決して珍しい事ではない。裏取引とかで入手する訳ではないから価格だってべらぼうな高値がついている訳でもない。独特の香りがあるから好きでない人は禁止されていなくてもわざわざ喫煙する事もない。嗜好品のひとつとして自主性に任せているわけで、お国柄と言ってしまえばそれまでのものである。

私は決して“大麻なんて毒性も少ないのだから認めてあげれば…”と言っているのではなく、大麻は一例として、それを取り締まる「法」の必然性に関心があって問題提議をしているのだ。
表面的にはグローバル化が進んで世界の共通理念が整いつつある様に見えるが、その反面で各国が独自の価値観やルールでナショナリズムを打ち出そうとしている。国内の法律というものも決してグローバルなものではなく各国が独自に設定しているものなのだ。だから治外法権という言葉もある。立法とは国家の憲法に従い法律を定める事で、言い方を変えれば国に認められた法律でしか通らないという事である。それはつまり万国共通の普遍的な正義ではなくそれぞれのお国事情によって正義のかたちは変わるという訳だ。
その国に生まれたらその国の基準に従わなければならない、郷に入らば郷に従えという言葉通りでそこから逸脱すれば犯罪者になってしまう。これが冤罪の正体なのだ。

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法も正義も国とその時代によって作り上げられるとしたら、この21世紀の正義はどこに向かっているのだろうか?混沌とした時代に新しい価値観の誕生にはまだ少し時間はかかりそうだが、明らかに20世紀には考えられなかった新機軸が生まれそうな気配は感じられる。それが人類を幸せにするか否かは分からないが、AIの進化や宇宙開発からキャッシュレス社会に至るまでこれまでの常識はことごとく変更を余儀なくされている。
これまでの人類は迷走を極めると一旦カタストロフィが起こってリセットされて再スタートという道を歩んでいたが、この先はどうなるのだろうか?世界中を巻き込む様な戦争が起こる事はなさそうだし、地球規模の天災の類が起こるのだろうか。このまま人口が増え続け利権闘争や国家間の格差が拡がればとんでもない政策が展開されるだろうが、その前に既存のセオリーやルールというものが崩壊するかも知れない。

世界や人類を調整させるために「法」は何のためにあるのかという前提問題がもっと深く問われる時代がやって来る。そんな気がしている。

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死を食べる-アニマルアイズ