impression [ギャラリー]
時として懐かしい風景に出会うと心洗われるものだ。
何に懐かしさを覚えるのかと考えてみれば、それは“空の広さ”であることに気づいた。
空の広いことは良い。
遥か向こうにある別世界を想像させてくれる。
そして何よりも体の中から成長の息吹があふれ出す。
これが童心の源であるような気がする。
街の佇まいが時間の逆流という錯覚を起こさせることがある。
そんな思索遊びの散歩が面白い。
▼ 珍しい鉄造りの蔵/三重県松阪市日野町
板塀のある風景が心を和ませる。
垣根の曲がり角で落ち葉の焚き火に暖を取っていた風景を
いまではもう見る事が出来ない。
才能の連鎖 [ギャラリー]
2年ほど前になるのだろうか?このブログを再開した頃、他のひとつの素晴らしいブログと出会った。
初めて訪れたとき、その個性的で溢れんばかりの才能に軽いショックを受けた。
それは知的で美的なオリジナリティにあふれたページで、内容も存在感と説得力のある…私にとっては最高の評価を与えたいようなブログだった。
発表される作品やコメント、写真などどれもが私の興味を刺激し満足させるもので、実際に才能のある人だったと思う。
その斬新な刺激を受けて、私の作品づくりに対する姿勢にも良い影響を与えてくれたと思っている。
☆
更新を楽しみながら時々訪れては感心していたのだが…、ある時から身を引いてしまったのか、まったく更新もされなくなった。
ブロガーの名は t-youha さん
一体どうなってしまったんだろう?__________________________________[ ↑ 彼の素晴らしい才能の片鱗をぜひご覧下さい]
☆
素晴らしい作品というものは、その才能が他の才能を触発させるパワーを秘めている。
良い作品というものは啓発する何かを持っていて、時間と場所を越えて新たな作品の生まれる種子を運ぶ。もしかすると新しい才能の卵子に向かう精子のようなものかも知れない。…いや、その反対で、新しい才能の精子を受けて待つ卵巣であるのかも知れない。
そして、そうやって才能の連鎖は時間を超えた歴史を生み出してゆくのだろう。
風俗系御用達桃色画集:その2 [ギャラリー]
え~ 坊ちゃん嬢ちゃんの良い子たちはこれより先は立ち入り禁止です。^^)
☆☆☆
以前アダルト系情報誌に掲載していた、ちょっとエロい挿絵の第2弾です。ネットで許される程度のソフトなものだけ更に一部公開します(^^)ゞ
お金の話 [ギャラリー]
面白動画2 常識の中に潜む罠 金融経済
動画タイトル通りのショッキングな内容です。といのは冗談で、(見る人によってはショッキング度合いは異なると思いますが5本立ての長編動画ですが、観終わった後 ほほぅ、銀行ってこういう経緯で出来あがったのかぁ、と感心する動画です。動画の内容はえげつなさと、コミカルなアニメーションが相まって僕は背筋が凍るような気持ちでした。▲興味深い動画がありましたので『ゆずけんさん』のブログからトラックバックしました。ご覧下さい。
お金についての様々な疑問を私たちは改めて考え直してみたいですね。子どもの頃からのそういった教育も大切だと思います。
世界の国々の宗教や教育・文化によって、『お金の意味や価値付け』が違うようです。日本の場合はいまだに儒教思想の影響が強くて、それが日常生活や社会通念に目に見えない形で影響を及ぼしているようです。
☆
お金は「信用」というものに全面的に乗っかったバーチャルな共通認識があって初めて成り立つものであり、社会や国家の権力を信用していなければ頼ることの出来ないものなんです。つまり、お金の価値を基準に生きているということは為政者の基準に拘束されて生きているという事になりますね。
これまでに私は大金持ちと言われる人たち何人かと交流を持ってきました。その内には、お金がある事によってとても豊かな生活を送っている人も居ましたが、羨ましいほどのお金があるのに様々な災難にあって、ささやかな幸せさえもまったく得られていないような人も居ました。
これはどういう事なんでしょう?幸福とお金には何の関係もないということなんでしょうね。お金が無くても幸せに暮らせる人はたくさん居ます。要するに、お金で買える幸せを求めるか、お金の有無とは関係のない、つまり富の幻想に呪縛されていない自主的な幸福感を求めるか?の違いなんです。お金は有るに越した事はありませんが、実はお金をたくさん持っているからこそ災いや不幸が身に起こるという事も多いようです。私はそういった例をたくさん見てきました。
そうした事象を経て来て私が理解した事は、「無一文・裸一貫で生きてゆける人が一番逞しい人なのだ」という事です。現実には難しいことですが、ひとつの理想として掲げてみたいですね。お金を崇拝して奴隷のようになってしまってはいけませんが、お金の持っている力を道具として利用する方法を見つけることは有意義かも知れません。
どんなものでも、この世界にあるものは使い方の工夫によって未来が変わってゆくのでしょうね。
●思索する風景 [ギャラリー]
風景写真を撮っている時、知らず知らずの内に被写体と語らい思索している自分を発見する。
絵を描いている時もそうなのだが、言葉を発しない静物や風景だからこそ私の方から問い掛けてしまうのかも知れない。
▲神宮徴古館/伊勢市
☆
三菱と並ぶ日本の財閥『三井家』発祥の地と言われる松阪市には、国学者・本居宣長の暮らした棲家が保存されている。
昼間は医者として、夜は古典の講釈と研究に勤しんだ本居宣長は12歳から72歳まで人生の大半をこの家で過ごした。
右奥二階に見えるのが、「鈴家」と呼ばれている書斎である。このわずか四畳半の空間で宣長は古事記の世界に思索をめぐらしていた。
▲宣長の書斎「鈴家」<パンフレットより抜粋>
学者の書斎とか画家のアトリエとか、そういった場所を訪れるとそこに思索のエナジーのようなものを感じることが多い。これは一種の魂のようなものなのかも知れない。思考を深めた生活はそこに魂の足跡のようなものを遺してゆくのかも知れない。
▲本居宣長が学習に使用していた「万葉集」の教本。たくさんの付箋が貼ってある。
「古事記」を研究しようと決意した宣長は、その旨を賀茂真淵に伝えると「古事記を解釈するためには、まずは万葉集を理解出来るようになりなさい」と教えられ、万葉人の歌を体得するために自身もたくさんの詩歌を詠んで真淵に添削してもらっていた。宣長が学者としての道を歩む黎明期のことである。
風俗系御用達桃色画集 [ギャラリー]
え~ 坊ちゃん嬢ちゃんの良い子たちはこれより先は立ち入り禁止です。^^)
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アダルト系情報誌に5~6年前まで連載していた、ちょっとエロい挿絵です。初めは仕事だと思ってやっていたのがいつの間にかひとつのジャンルとして興味が湧いたので飽きずに続けられました。
数年前に一度本ブログにアップした事がありましたが、ネットで許される程度のソフトなものだけ改めて一部再公開します(^^)ゞ
武士(もののふ)の心 [ギャラリー]
「侍の心」とは何だろう?「武士の魂」とは何だろう?…
城下を歩いていて、ふとそんなことを考えさせられてしまった。
城外に出るとすぐ近くに警備を受け持つ武士たちの暮らした「御城番屋敷」が立ち並んでいる。
いざという時の待機をしながら、ここを棲家にして暮らしていたわけだ。
▲前方にお城の石垣が見える。落ち着いた佇まいは武家の生活を物語っている。
150年が過ぎた今でも実際に人が暮らしている。
ここに流れている時間はまるで別次元のようだ。ゆったりと、それでいてしっかりと確かめながら息づかいをしているように思える。
▲縁側にはお正月飾りが飾られている。誰に見せるためでもない内なる信仰の証しだ。
奥の間には縁側から障子を隔てて、明治の頃のものだろうかミシンが置かれている。左の押入れの部屋には紋付袴が掛けられている。お役付き武士のごく日常的な生活風景が感じられる。
☆
私は思う。侍と言っても人の子、刀を持っているからと言って決して武勇を求めて生きているだけでもなかっただろう。極ごく人並みの家庭的な暮らしを築いていたことだろう。
武士の日常的暮らしからは、家族や家庭に対して清廉潔白な家父長意識が感じられる。我が身を律して生きる事の強さと優しさを日々実践する気持ちが侍の信条だったのではないだろうか。
主君に仕えながらも決して己の家族や家庭をないがしろにはしていなかったように思える。“己を虚しゅうしてして滅私奉公する”といったような思考が一般的だったとはとても考えられない。
人としての強く優しい生き方を手本として実践する、そんな誇らしい自意識で生きていたのではないだろうか?だからこそ家族・子孫を思いやる心が今日まで受け継がれてきた家の伝統として生き続けているのであろう。
諸人挙りて [ギャラリー]
もろびとこぞりて迎えまつれ… 久しく待ちにし 艱難の向こう側に抱かれた安らぎの魂を
[もろびとこぞりて]
☆
天より降りそそぐ星のきらめきは ひとときの童心を呼び起こさせる。人を救うということは貴方自身が救われるということである。
[降り注ぐ星]
☆
☆
本当のことを言うなら、人には誰もがたどり着きたい場所がある。そしてそれに気づいていない人がいる。気づいていない場所に人はたどり着くことは出来ない。
[光のミサ(礼拝)]
☆
何に魅かれて人は足を進めるのか?何を求めて人は手を差し出すのか?何を伝えようと人は口ずさむのか?すべての答えが出揃っているというのに、人は何故問い続けるのだろうか?
解明への入り口に向かって今日も人は歩み続ける。愛するために疑い続けながら…、許すために恨み続けながら…。
☆
【I'm not dreaming of the white christmas./ギルバート・オサリバン】
魅惑のイルミネーション [ギャラリー]
人を魅了する光の業は神々しさの中に存在する魔性のようでもある。人は自制をするためにタブーを生み出した。タブーとは光の解放を遮るための大義名分のことである。
☆
暗黒の夜空に向かって拡がる光の樹は、聖なる衣を纏った天使や悪魔たちと共に魂の解放を賛美する。それはまるで粉々に砕け散った教会のステンドグラスのようであった。
☆
光のテラスに出てみると、そこには青味懸かった人影が亡者のように彷徨っていた。悦楽の歓喜の中で、それでも人は言い知れぬ不安から抜け出すことが出来ないで居るのだ。
☆
聖なる夜を前にして人々は集う。心地よい香りのシャンパンと賑やかな談笑が室内を満たしている。私たちはもうすっかりマッチ売りの少女を忘れていた。玄関を出た曲り角に身を屈めて震えるマッチ売りの居た事を…。
あまりに華麗な光の輝きは眩しすぎて目をそむけたくなるものだ。
☆
世界を見る眼~視点と角度 [ギャラリー]
私の子供の頃は、まだ自然に対して畏怖の念というものがあった。
遠くの山から大入道が顔を出すのではないかというような、そんな想像を働かせる前頭葉が健在だった。
猫の腹の下から世界を眺めてみると、小さきものの視点が共有できる。
身を屈めて生きるということは、どんなことなのかがよく分かるというものだ。
☆
これからの世界を創造してゆく若者たちに必要なものは、外の世界をしっかりと見据える眼力と 内側のイマジネーションを働かせる力だろう。他人の言いなりにならないで自分で判断する力。
I・M・A・G・I・N・E
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リセットという名の癒し [ギャラリー]
地球から見れば陽が沈んでいるように見えるだけで…
実際には回転し続けているだけで“陽が沈む”という現象は起こっていない。
人間はどこかに基準線を引かないと、もの事や現象を認識できないので
自分の許容サイズに切り取って“理解した事にしよう”とする。
真理は線引きなど出来ないし、切り取ったりする事もできない。
人間に都合の良いようには出来ていないものなのだ。
だから人間の世界においては
「リセット」の感覚は必要なのかも知れない。
すべてが永久に継続し続けるなんて
とても耐え難いのだろう
幻想のリセットを許してあげなくては
人間は発狂してしまう程に、か弱い生き物なのだ
☆
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離島へ… [ギャラリー]
何故か心魅かれるものがあって、スケッチブック片手に離島に渡ってみたいという気持ちがあった。何だかちょっとした小旅行気分で桟橋に向かった。絵の題材を追いかけて、と言うよりもいつの間にか脱日常のレジャー志向になっていたようだ。…ま、それも良いでしょう。描けるかも知れないし描けないかも知れない。見つかるかも知れないし見つからないかも知れない。…それが人生であり、それが表現というものでしょう…なんちゃって!
陸地を離れて海原を進んでゆくとチラホラと小さな島々が点在している。どれもが陸から遮断され独立して存在している島々たちである。私は何となく分かったような気がしてきた…離島の何が私を魅せるのか?それはきっと、周囲の大海に飲み込まれずに独立を保っている島の暮らしの姿に違いない。
離島の何を、一体私は描こうというのか?…ってそんな大それたテーマなんて持っていないのだけど。とにかくこの“離島”ってものが好きなんですよね。
なんとも言えない「閉鎖感」
閉じ込められた中にある「祈りのような光」
無邪気で純粋なバイタリティ…
外界から切り離されている部分にこそ、何か貴重なものが存在するような予感がする。それを感じてみたい。確かめてみたい。そんな気持ちが私を陸地から切り離したに違いない。
何があるのだろう、この向こうに。
私に何かを気づかせてくれる…そんな魂を揺さぶる何かが待っているというのだろうか?それとも幻想に導かれた結末は、幻滅と言う過酷な現実なのだろうか?
ただ黙々と船は波飛沫を上げて、遥かな離島をめざしてゆく。
☆☆☆
いくつかの小島を脇目に抜けながら、めざす離島に到着した。土曜日の朝9時。けっして早朝という訳でもないが、船着場は閑散としていて人の気配がまったく無い感じだった。
8年ほど前に訪れた事があるので周辺の道は知っている。ゆったりとぼとぼ…と何のあてもなく歩き始める私であった。
☆☆☆
離島に到着してさっそく町の中心に向かって歩いて行ったが、実に閑散とした状態で人の気配が全くしない。島の住民たちの生活感や喧騒を期待していた私には意外な展開だった。「みんなまだ寝ているのだろうか?もう時間は午前10時を回ろうとしているというのに…まさか、ね」 土曜日を含めた三連休の初日ということもあって、皆さん島を出てレジャーやショッピングを楽しみに陸地に向かったのだろうか?
町の外れから歓声のようなものが聞こえてきた。近づいてみると、そこには小学校があって運動会の真っ最中。大勢の人たちが集まっていた。なるほど、今日は運動会で町中みんなが出払っていたわけだ。…ということは、今日は運動会が終わる夕方頃までこんな状態なんだろうな。
実は私が到着した船着場はこの島の西側で、なだらかな山を越えた向こうの東側の方が人家の密集度も高く、賑やかな町らしい形態になっている。
時刻も早いことだし、徒歩で島の向こう側まで行ってみる事にしよう。ひと山越えるのは大変かも知れないけど、何か面白い発見があるかも知れないし…。
そうして私は、島を縦断する道路を一路東に向かってぼちぼちと歩き始めたのだった。
☆☆☆
離島の家々は全体的に平地面積の少ない地形の事情からか、長い石段の丘陵に沿うような段々形で建っている。
ここの暮らしの形状には何だかとてもノスタルジックなものを感じてしまう。それは何処から来るものなのだろうか?
島の向こう側に着くために、まずは長い傾斜道を登ってゆく。なだらかではあるけれど延々と続く車道には相当足の疲れを感じさせられた。とても風景をスケッチするなんて気持ちにはなってこない。
そしてふと、ささやかな疑問が湧いてきた。「素敵な風景は所どころあるけれど、ただ美的な風景に出会いたくて離島まで来たわけではないし…こんな調子で、題材としてインスピレーションを感じられるのだろうか?」
…しかし、まあ難しい事は言うまい。離島の空気を吸っているという事で充分な筈だ。ただひたすら歩いて、見て、感じていれば、その場でスケッチ描写出来なくても何かが私の中に蓄積されてゆくだろう。
言葉も理論も解説も、そして作品も…すべてが後付けと言えるだろう。まずは“実存の今”を感じることが無くてはその先はない。そんな独り言をつぶやいてふと眺めると、家々の屋根から眼下に垣間見える遥か向こうに、青々とした海が広がっているのを発見した。
そうだ、この風景はアルジェの町のカスバから見た港の風景によく似ている。アルジェの港を眺める風景は、ジャン・ギャバンが恋焦がれていつも眺めていた映画「望郷」の風景なのだった。
☆
夏が終わる [ギャラリー]
ん。
長い夏休みだった。
そろそろ歩み始めようかと思う。
少しばかり遠慮していた世界に向かって
自分らしさを抱いて。
ふぅ
これまでは、これまで
いつまでも加減を考えていても仕方がない。
悔やむまえに遂げてしまおう。
自分自身を裏切らないように。
夏は終わる。
それがチャンスだったと気づく前に
夏は後ろ姿で過ぎ去ってしまう
人生を“上手く生きろ”と言い残して…。
だから夏は青春の香りがするんだ。
そぅ
波の彼方の 遠い島影に滲む光…
夏は過ぎ去り 夕闇に覆われるけれど
これから私はその光を掴まえにゆく。
夏が終わる。
☆