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神と仏について考える。 [日々の背中]

考え方やものの見方というものはよく変わるものである。最近PCの中に「朝令暮改」というフォルダを作った。私は日々浮かぶ色々な考えを日記の様にPCに記述しているのだが、かつての考えは今ではすっかり幻となり、新バージョンに書き換わっていて振り返るたびに面映ゆい気持ちになる。
そこで最近の私の考えなのだが、「神」というものは人間の創った架空の存在で、明らかに「仏」とは違っていると思う様になった。かつて私は子供の頃は教会に通う似非クリスチャンでもあり、家には先祖の代からの神道で神棚があるかと思えば祖母が念仏好きでお盆になると親族が集まって仏壇に向かい念仏を唱えたりして、はたまた商いを営んでいた関係からお稲荷さんが祭って有ったりと…実に宗教的に節操のない家に育った為か一貫性が無く支離滅裂である。

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さて、ここからはかなり強引な自説として独断と成り行きで進めてゆきます。正論でも何でもない只の私個人の自己満足的ひとり言ですので、不愉快な気分になる方もおられるだろうと推測しますので、腹が立ったら読むのをお止め下さい。m(_ _)m
西洋のキリスト教と東洋の仏教とはその発祥や広がり方からして宗教としてもまったく異なっている。例えばそのひとつとして、キリスト教では「言葉」を重んじる。それは戒律であったり契約であったり「法の精神」に繋がってゆく。ものの捉え方が「All or Nothing」で理論的・合理的。二者択一の絶対主義に走りやすい。だから戦争が起こりやすく世界の戦争の多くは「神の概念」が引き起こしているように思われる。例えば「愛」という概念を取ってみてもそれは私有化することで嫉妬や恨みを生み出す根源でもあり、「愛」の大義名分を武器に奪い合いや争いをする。
片や仏教の視点で物事を見てみると、観念的である。理論や言葉には頼っていないところが「神の教え」とは違っているところだ。ある意味、戒律はあるものの大らかで束縛せず自主性に任せているところがある。法に縛られない精神は東洋系民族らしさの様に思える。
例えば「矛盾」という問題にぶつかった時、論理的な思考では白黒はっきり決着を付けなければ納まりが付かないので、解決の糸口が見つからず硬直状態になってしまう。が、仏教的な思考をすれば「矛盾」も丸ごと飲み込んで理論や言葉での解決を求めず、状態として全体を受け入れて治まってしまう、つまり矛盾というものが存在しなくなってしまう。
理論(言葉)と観念(感覚)で捉える事の違いは「神」と「仏」の違いとなって表われる。どちらが正しいというものでもなく、捉え方の違いとなって人の世界を創っているというのが現在の私の考え方なのだ。

 

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文字に描く~世の中を生きる [制作日記]

世間の言葉に惑わされず、人の言葉にそそのかされず…しかし世の中の流れに沿いながら生きる、そんな生き方が心情である。

文豪・夏目漱石の有名な言葉がある「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角この世は生きにくい」明治の時代から世の中というものは変わらないらしい。世に逆らうのか、それとも世の中と仲良くくっついて生きるのか…迷うところらしい。
その時代その時代で生き方は変わると思う。どれが正しいというものでもない。世の中も対人間関係も上手に距離を保って生きるのが良いのかも知れない。そういう意味ではコロナ禍によってソーシャル・ディスタンスを知る機会を得たことは人間社会に一歩進歩を与えたのかも知れない。

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自分自身を見失わず、しかし時には自分自身を投げ打って生きることも必要だ。生きることにしがみ付いていると大切な命を失う事もある。そんなものだ、人の一生なんてものは…。
私は少なくとも三度は死にかけた事があり、一度は臨死体験までした覚えがある。その経験の中から言えることは、私たちは「ただ夢中に生きている」という事だ。
もし既に死んでいたなら、今の生きているという感覚は無い。死んでしまえばそれでお仕舞い。そう考えると不思議だ。PCの中のデータの様なもので、呼び出して再生されなければ “無いが如し” である。
(ところでPCのデータって人間にのみ知覚出来る、単なるバーチャルな存在であって結局は電子記号に過ぎないのだけれど、いずれ消えてゆく事を考えると “生命の存在” と似ていますね)

高齢者になった今こそ思うのだが、最高に幸福な生き方と云うのは…若い時代は世の中に沿って精一杯欲張って生きて、歳をとれば「世の無常」を知って生きることではないだろうか。

 

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「若者たち」の時代/思想のタイムスリップ [タイムスリップ忘備録]

一世を風靡したTVドラマ「若者たち」を懐かしく観て様々な事が頭を占めた。あの頃の私たちは良くも悪くも純粋で、世の中に希望を掲げていたものだ。

物語の全体像が分かりやすいと思われるので、ここに全文ママで映画公開された時の紹介文を引用させてもらいます。
『1966年にフジテレビで放送された連続ドラマ「若者たち」は、戦後の傷跡、貧困、学歴差別、学園紛争……など当時の世相、問題を鮮烈に描き反響を呼ぶものの、その社会批判性の強さにより、突然打ち切りに。しかし、放送終了後も圧倒的なファンの支持を得て、テレビ版と同じスタッフ、キャストで映画化。自主上映ながら、その感動と共感の輪はまたたく間に全国に広がり、1年間で300万人の動員を記録しました。
早くに両親を亡くした五人の兄弟妹──土建会社の設計技師、弟妹たちの親がわりとなって戦後の混乱をのりこえてきた長男・田中邦衛、遠距離輸送のトラック運転手で竹を割ったような性格の次男・橋本功、行動的なインテリの三男・山本圭、一家の台所を切り盛りする紅一点・佐藤オリエ、ドライで自己中心的な現代っ子だが、根はやさしい末男・松山省二──が互いに助けあい、時に猛烈に争い、ひたむきに日常を生きていく──。もがき苦しむ若者たちの姿がザ・ブロードサイド・フォーの主題歌とともに胸に迫ります。』

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昭和40年代、まだ核家族という言葉に慣らされていなかった若者たちは、人々や社会との連帯の中に生きていた気がする。経済は高度成長期で昭和元禄と云う様な流行語にもなっていたが、多くの若者たちは社会の矛盾とぶつかり合いながら純粋な生き様を晒していた。ある意味で明治維新の起爆剤となった幕末の脱藩浪士たちの様な気概を持っていたかも知れない。だからこそ社会に対して声を上げることが自然であり必然であったのだろう。

時代の若者たちはその時代の流れに翻弄されて流れてゆく。常に次の時代の起爆剤となる若者の心情は、この次の時代にはどう移り変わってゆくのだろうか?常にある世の中の正義と不義、強者と弱者そして不公平。そういった障害にぶつかりながら、どういった答えを出そうと悶々とするのであろうか?
現代の若者たちにはそんなものは問題でも何でもないのかも知れない。問題の本質は変わらなくとも表層は変わってしまう。それが時代の流れと云うものなのだ。若者の心情は変わらなくとも生きて来た時代によって問題の対象はまったく違ったものになってしまう。良いとか悪いというものでもないのだろう。

今ではもう懐かしさでしかない若者たちの心意気と辿った足跡は二十世紀の種として土深くに埋もれている。

 

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死を食べる-アニマルアイズ