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[覚書]我思う故に我在り/2019 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2019年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。


万博マップ#20c.jpg
【↑ '70年・大阪万博会場マップ】
6年後の2025年、EXPO'25 が大阪で開催される。'70年の大阪万博から55年ぶりとなる国際イベントは果たしてどんな未来像を描いてくれるのだろう。
EXPO'70 では「人類の進歩と調和」がサブタイトルとされて、そのテーマに沿った数々のパビリオンが展開されていた。会場のシンボルとなる岡本太郎の「太陽の塔」もそのテーマに対する問題提議的なアートとして強烈な存在をアピールしていた。もちろんパソコンも無ければ携帯電話も無い時代で、コンピューターと言えば冷蔵庫よりも大きくてパンチ穴の空いたテープが回る仕掛けのもの、モバイルでは自動車電話が一部のVIPや富裕層に普及していたのみで、肩からかけるトランシーバーより大きなモノが未来の携帯電話として紹介されていたのを覚えている。
当時は世界がベトナム戦争や米ソ冷戦の最中で厭戦気分が覆っていた時代でもあり、人類は生活向上と世界平和を望んでいたが21世紀の今日は核エネルギーの環境問題やヘイト差別が争いの種となっている。果たしてこれからの世界をリードしてゆく先進国の取り組むべき課題とはどの様なものなのだろうか?
70年代には「人類の進歩と調和」だった万博のメインテーマが2025年では「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに題して掲げるらしい。この変化と移り変わりには興味深いものがある。21世紀型コンセプトは抽象的で曖昧な形をしているというところに今世紀の世界の混沌とした状況が伺える。ホスト国である我が国がはっきりとした建設的なテーマを打ち出せないところが今の時代の世界の状況を表わしている気がする。20世紀にアメリカと共に高度成長して、それまでの19世紀イギリス・フランス・欧州勢に代わって世界に存在を示してきた日本の国威も、今21世紀には一旦落ち着きを見せる様になった。人類史上にも前例の無い程の「超高齢化社会」を迎えようとしている我が国こそ、明治から平成の今日まで追従してきた欧米型資本主義社会の優等生モデルから転換して、未来の情勢にフィットする価値観の発想が求められているのかも知れない。我が国が貢献できることと言えば、実は文化的な側面が大きいのではないだろうか?高齢化社会の指針を提示するには日本がふさわしい国なのではないだろうか。今世紀の覇者を中国が狙っているがそんな事は尻目に、これまでの成長路線を新しい成熟路線に変更する機会なのかも知れない。
平成も終わって新元号に切り替わる年・2019年が始まった。
<平成31年1月>

ネガティブ・ケイパビリティ。それは現代版「逆転の発想」。

これまで久しく、否定的な思考や発言はマイナス思考として煙たがられてきた様に思う。
どんな時も明るく楽しそうに肯定的な見解で語る事が正しいとされて来た。

しかし本当にいつもそうだろうか?
一個人の性格にしても伸び伸びと成長し続ける事だけが正解だろうか?
民主主義と多数決の原則は整合性があるだろうか?(私たちはとんでもない誤解を教え込まれて来たのでは無いだろうか?)ものの考え方や個人の行動には“同調”なんて本当は必要ないに違いない。本来は足並みなんて揃える必要はない筈なんだが、団体行動を主軸とする組織ではやはりそれが規範となる。
異端だとか異色だとかいう呼び方は形容として仕方ないかも知れないが実に失礼な言い方の様に思える。「みんな違って、みんな良い」というフレーズもあってダイバーシティという考え方も啓発されている割には、綺麗ごとだけで実際には少しの承認も実践もされていない。みんなが一斉に声を上げるものは常に変色して本道からずれてゆくもので、だからこその“みんな違って、みんな良い”なんですけれどネ。

猫たち雑居.jpg
視点を変える事で様々な問題が解決される事が多い。世の中には沢山の難解な問題が蓄積されている様に思われているが、それは人々が本気で解決するための行動を起こしていないからなのだ。本当は殆どの問題は解決可能なのだが…。
問題解決の切り口のひとつのヒントとして“ネガティブ・ケイパビリティの視点転換”を推奨します。
<平成31年3月>

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自分を超えた世界とは [随想随筆]

すべての束縛から解き放たれて
自分自身である事からも解放された時に
はじめて命の幸福を感じるのだろう
結局は自分を悩ませているのは自分自身の在り方なのだ
私は不満や悩みを持つことに否定はしない。
それは自分自身の投影であり己だからこそ背負っている宿命の様なものだ
人間であるからには生まれた時から人間世界の価値観で生きる様になっている
犬でも猫でも無い、人間であること自体が宿命なのだ。
不条理・不本意・不満足とどの様に付き合ってゆくか…
それもその人の人間力・器量の一部だろう。

そしてそれらを経てここに辿り着いた。
自分自身を解き放てれば、初めて別の価値観が見えるかも知れない。
現実もどきの幻想も全てが自分の世界での出来事だと気づければ
その悪夢の様な幻想から解放される。

人間に生まれたことの不自由さ不快感を受け入れられず背負えないのなら
自分の人生を否定して自殺の道を選ぶ事もあるだろう。
私はそれを愚か者とか馬鹿者とか言うつもりはない。
ただ自由と解放の道を見つけられなかった残念な者だったと言うだろう。
自分の命をその手で掴み切れなかった悲しい性だったと言うだろう。

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自分を超えた世界は存在する。
自分を超えた世界とは、自分に固執しない世界でありそれが「全てを許す」という意味になる世界の事なのだ。
その世界に触れた時に初めて、自分を超えることの意味の大きさを感じ取る事になる。

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死を食べる-アニマルアイズ