前立腺ガン手術後のPSA検査 [日々の背中2:糖尿前立腺ガン編]
術後の経過を見るためにPSA検査をするのだが、取り去ったはずのガン細胞らしきものがまだ少し確認できるという事だった。PSAの数値が三カ月の間に増えているらしい。食事内容や生活習慣は以前より良くなったと思っているので原因は他にあると思うのだが、0.01だった数値が0.1と十倍になっていて医者には要注意と言われたが、ガン細胞が診止められた頃は10.0近かい数値だったのであまりピンと来ない。…が、考えてみれば今回の手術では前立腺を左右とも全削除したわけではなく、際立ってガンに浸食されていないと思われる部分は削除せず残した(その方が手術や術後の回復も楽なため)という方法を取ったため、後日再発の可能性はいくらかあった訳だ。
来月中頃にPSA検査でその後の状態を調べる事になった。仮に大きくなっていてもすぐに削除という事はないが、経過観察をしながら薬物投与かホルモン注射か何らかの対応を考えるという事だった。
席捲する新型コロナウィルス [21世紀の種]
国によっても対応は様々だが、日本はもともと緊密な人間関係による社会習慣なので“みんなで渡れば怖くない”的な発想も見受けられる。ある意味で “義に厚い”のだがいざとなったら “社会ルールやモラルには欠ける”要素が多いようだ。それはそれでひとつの選択肢として是非も問わないのだが、緊急時の問題解決としては一向に進まない場合が多い。時には絶対的な力で、責任があるとかないとか四の五の言わずに決断実行する潔さが必要で、戦前くらいの日本にはそんな人物もいたようだが現代の表舞台では見当たらない。今回の新型コロナウィルスの騒動は政治やリーダーシップを含むこれからの社会のあり方を考えるきっかけになるのかも知れない。
生命(いのち)は思い出した時に蘇える [制作日記]
絵を描くことの価値のひとつとして「生命を表現する」という事があると気づいた。風景画にしても勿論であるが、無機物を並べた静物画であったとしても、そこに生命を表現することは出来る。
人類の絵画のルーツと言われるアルタミラの洞窟の野牛の絵は単なるリアリズムかも知れないが、人として作品として絵を描く上においては、そこに何らかの生命の断片が表現されてくるものだろうと思う。
そこに生命があるからこそ、どれだけ年月が過ぎようと褪せることなく訴え続けるのだろう。
<平成21年3月14日・記>
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この記事は10年以上も前にこのブログで書いた記事で、タイトルは「生命を描くということ」であった。
改めて時間の経過を感じる。愚痴ではないが、時の流れに流されて変化する自分の気持ちに今更ながら感嘆するところもある。人は決して進歩し続けるというものでもない。完成したと思っていた事がいとも簡単に覆される事もあって常に同じ様には生きていられない。だから人生は変化に富んで面白いのだが、一ヵ所に居座って偉そうなことを言っていては恥ずかしい思いをするだけなのだ。
ブログを続けることの良さは、このように自分の思索の足跡を振り返る事が出来ることだろう。振り返れば恥ずかしい事もあり、いつも進歩しているとは限らずガッカリすることもあるが、それでも人が生きるという事はそういう事なのだと思う。間違いながらも失敗しながらも、それでもしぶとく生き続けている…それが答えの様なもので、それしかない。
そして今わかった事は、失ったものも・消え去ったものも・亡くなったものも、いのちは思い出した時に蘇えるという事だ。
自分が生きている限り、自分と関わったものは思い出す限りの中で生きている。彼らの誇りも愛情もそのすべてが、自分の思いの中に生き続けている。そんな事を微睡の中で知った。
この世が無ではない限り、形は変わっても生命のエネルギーは生き続けている。