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小説「ゼロの告白」/第十三章 [小説「ゼロの告白」]

【ゼロの告白/第十三章~培ってきたもの】

 生い立ちを振り返り、原風景を追憶して気づいたことは “はかない自意識の積み重ね”だった。
 どんな人生を歩んで来ても、それは自分自身が生きている内の話に過ぎない。名誉も業績も生き様にしてもそれらは自意識の作り出したものであり、この世で自分が生きている内にしか感じられない自己満足の塊だとその男は思った。若い頃は考えもしなかった事だったが、この先の人生が何処に向かっているのか何となく感じられるようになった時に、男は人生の総括の様な視点を持つようになった。
 昭和生まれの男が二十一世紀を迎え、平成・令和とふたつの年号を経るなどと考えた事はなかったが、奇異な経験を積みながら気がつけばすっかりいい歳になっていた。そしてこの歳になれば、かつて若かった頃の情熱や思考は変色して、すっかり月並みな市民のひとりになっている事に改めて不思議を感じ、また納得もしていた。

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 市井の中で無名の人々に混じって陽炎の様に生きている私のことを他のだれもは認識すらしないだろう。それは私だけでなく他の大勢の人々でも同じ事だ。自分が生きている事を自覚する手段として、自己顕示欲や願望達成欲というものがあるが、所詮そう云ったものにしても自己満足の範疇でしかないと知ったとき、人間としての限界を感じる。何故そうまでして人は自分の存在を理屈や概念の中で確かめたいと思うのだろうか…。
 季節は冬の始まりをみせて、男の背中にも少しずつ枯れ葉がこぼれ始めているのだった。

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 生まれた時から行く先の見えている者はいないだろう。そして人生とは良く出来たもので、終焉を迎える頃になってようやくその真髄がみえてくるものだ。波乱に富んだともいえる人生を歩んできて、酸いも甘いも噛み分けて来た筈の男だったが、この歳になって考えてみればそれらは全て幻だった様な気がしていた。“幻”という言葉は適切ではないかも知れないが、真には実体のない “自分の生きている内に現われるだけの思考の世界”という表現をしよう。

 「0」という数字はインド人が発明したものらしい。何かの本で読んだ覚えがある。確かに日常生活の営みの中で実体としての「ゼロ」は感知出来ない。「無」を掴めないものである事と同じだ。数字というもので物質を把握するために「ゼロ」という基準の概念が必要なのだ。つまりゼロは人間世界にのみ存在するもので、あくまでも脳の中で展開される理念や合理性の為に必要なものでしかないとも言えるだろう。
 この男は幼い頃から何かしら使命の様なものを感じていて、それを背負いながら生きてきたと思っていたがそれが自分の中に巣食う幻想であったと気づいた。殆どの人間は生まれながらの環境や運命の流れによって作られた幻想を無意識の内に背負って生きているのだろう。意識的に生きてきたと思っていても実は無意識の世界に縛られていたという事を知った時、虚無感や絶望感を越えてはじめて本当の開放感を得た。この真実を知るにはあまりに時間がかかり過ぎたが、男は「ゼロの視点」で森羅万象全ての物事を捉える勇気を得たのだった。

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<この物語は「一人の男が自己に内在するマイノリティと対峙しながら成長してゆく」といった自伝的フィクションですが、無計画に執筆を始めたもので進行具合も遅く、今後の展開はあくまで未定です。あらかじめご承知おき下さい>


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