或る弾き語りの青春 [人生描画譚]
かれこれ30年近く過去の話しになってくる。
友人が音楽をやっていて、都内のライブステージを借りてミニコンサートを年に数回やっていたのだが、或るスポンサーが現われていよいよレコーディングをすることになった。
それまでも、デモテープを持って知人の紹介で広告会社にアプローチを掛けたりはしていたが、いまひとつキッカケが掴めずいたので、今回の巡り合わせは千載一遇のチャンスだった。
私が彼と知り合ったのはヨーロッパ放浪中の頃で、ホテルのレストランでアルバイトをしている時に職場で知り合った。
話を聞くと、友人と二人で音楽をやるためにロンドンに来たのだが、その後一人になってドイツに渡りクラブのステージなどでギターを弾きながら歌っていたらしい。
私自身も絵を描きながら放浪している身だったので共感することも多く、ある時には共同生活をしたりして交遊は続いたのだった。
同居している時には、私もギターを弾きながら“岡林信康”なんかを歌ったりもしていた。その時ほとんど彼はビートルズナンバーを歌っていたが、何曲かオリジナルを聞かせてくれた事もあって、その時に聴いた一曲が「君死にたまふこと勿れ」だった。
それは彼の高校時代の友人が与謝野晶子の詩に作曲したものだったが、若者らしい素直なメロディラインが印象的で記憶に残るものだった。
海外の小さなクラブや、時には路上でもギターを弾きながら歌っていた生活はそれなりに良い経験となっていたのだろう。
その後、日本に帰ってからはそれぞれの生活環境に戻って顔を合わすこともなく暮らしていたが、私が突然思い立って画業無宿を志して上京した事が再会のきっかけとなり更に交友を深める事となった。
まだまだ互いに未熟者同士が社会の片隅で悶々としている状態で、私はデッサン教室に通ったり彼は山本丈晴さん(女優・山本富士子さんの夫で、南こうせつさんのお師匠さんでもありました)のギター教室に通ったりという、まだまだ先の見えない日々だった。
しかし継続は力なりで、活動を続けて年を追うごとに関係者や認知される機会も増えて、その数年後にいよいよ例のレコーディングの話しが持ち上がったのだった。
<平成27年2月18日・記>
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