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[覚書]我思う故に我在り/2017 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2017年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

☆☆☆☆☆

2020年から小中学校で導入されると言われているプログラミング教育。
21世紀の子ども達の必須項目として注目されています。
私も少しばかりかじってみようと文部科学省が運営する『プログラミン』サイトに登録しています。

このサイトは文部科学省が広く一般に啓蒙するための体験用ウェブアプリケーションで、自分のパソコンからアクセスしてお絵描きやゲームをしながらプログラミングの基本が学べ実感する事が出来ます。

 

とりあえず無理せずに出来る範囲での習作をアップしておいて、もう少し慣れてくれば音などを入れたものを後日更新のテストも兼ねてやってみようと思います。

昨年に大きな転換期のようなものがあり、年が明けた現在でもまだ空白状態が続いている感じで、年が明けてもしばらくブログの更新もしていませんでした。
ブログ以外にもあまり積極的な行動をしていなかったのは、当面の日課が病院通いで忙しかったせいもあります。

2月中旬に手術が決定して、そのための準備検査が続いています。年が明けてからすでに2回、脳MRIと眼底検査を行いました。
今回のロボット手術という選択は総合的には一番リスクの少ない方法だという事で決めたのですが、唯一の問題点としては、身体を逆さにして施術するためにそれに耐えられる肉体的機能を検査されるというわけです。
次回の検査では前立腺MRIということで造影剤を注入して癌の進行具合を調べるそうです。現在得られている画像データが半年ほど前のものなので、手術直前の状態を見ておくためなのでしょうね。

病院パンフ.jpg

これまでの掛かり付け病院の紹介を受けて、近くでロボット手術の出来る病院として大学の附属病院を選んだのですが、初めて受診する病院なのでなかなか勝手が分からず院内では苦労しています。
IT管理された現代的なシステムなのですが、窓口には勝手が分からず戸惑っている高齢者が結構いるように見受けられます。

<平成29年1月>


 新聞雑誌、テレビやネットなど多くの情報に接するたびにふと頭をよぎる事がある。

「私たちはこれらの過多な情報にまつわる論評をどこまでまともな気持ちで聞いているのだろうか?」
真に受けて信じ込んでいるとしたらそれは危険な事でもあり、反面また単に聞き流して真に受けていないのならその風評は何といい加減に世間に垂れ流されてゆくものなのだろう。

時代が今のような様相になってからは、言葉の真意が曖昧で取りとめのないものに変色してしまったような気がする。
改めて自分の幼かった頃に周囲の年配の人たちが話していた内容を、とりわけ父親との話を思い出してみると何か本質的な部分で違いを感じずにはいられない。

私の父親は明治44年生まれだったので、最後の一年間の明治時代を含めて大正、昭和、平成と四つの時代を生きたことになる。
その父は34歳の頃に召集令状が来て戦地に赴いたという事だったが、この年齢では高齢の部類で身体検査も下のランクだったので、まさか軍隊に召集されるとは思っていなかったらしく、昭和19年で戦争も末期の頃だったから周りの知人たちからは「お前が兵隊になるようでは日本の軍隊も終わりだな」などと冷やかされたらしい。

戦前の日本で現代と違いを感じるのは、社会がまだ整備されていなかったせいもあるが、アウトロー的な知識層が多かったという部分だ。一匹狼とか無頼とかいう言葉が生きていてそれを自負する作家や芸術家も多かった。
学校制度も戦後のGHQ指導とは違っていたから、父の通っていた学校では能力に応じて自由に上級に上がれる合理的な学年編成のシステムを採用していたらしい。

「末は博士か大臣か」という言葉が流行った時代があって田舎出身の父も外交官を夢見て東京の大学に進んだのだが、帝都の文化的な刺激に魅了されていつしか文学や芸術の世界に足を踏み入れてしまったという多情で意志薄弱な親父でもあった。
昭和初期という時代は立身出世というビジョンで単純に社会的向上心を煽られる反面、呑気で刹那的な享楽を求める厭世感も浸透していたのは今の日本社会ともそれほど変わらないのかも知れない。

社会は未成熟でインフラもシステムもまだ未整備だったが、人々の気質は自立心の強い無頼の精神が見受けられた社会だったように思える。
最近よく言われる『空気を読む』といった慣れ合いの生活感覚などとは程遠く、意外と自分の領域を自覚して迷いのない生き方をしている市井の人々も多かったようだ。

文庫:戦前の日本.jpg

新聞やラジオでしか世間のニュースを得ることもなく、その情報量の少なさから戦前の日本人は文化的水準までもが遅れていたようにイメージされがちだが、確かに社会生活基盤といったインフラの部分では未開発部分が多かったものの、民族的な文化水準はある意味で今よりもオリジナリティが高かったようにも思える。
欧米の“リーガル・マインド”は浅かったかも知れないが、“法の基準”としての日本的な任侠や道徳の意識は幼児期から培ったものとして一般社会・日常生活のコンセンサスとして根付いていた。

そういった自覚あった筈の人々がいつの間にか戦争に取り込まれ邁進していったのは、やはり人間本来の「力」への憧れと一般世論から外れて独自に社会的に生きることの難しさというものなのだろう。
父から聞いた戦前の話を思い出し改めて振り返ったとき、今の時代の意識が“強い者の力に屈する軟弱な思考”で、生きる権利や万人平等といった綺麗ごとで受け売りの善人願望などはオセロの駒のように一気に裏返ってしまうような気がしてならない。
丁度戦前の市井の人たちが戦争を避けたいと思いながらもいつの間にか同調して受け入れるに至ったような社会的ムードに近いものが今日の私たちに迫っているような気もする。

戦前の日本人のものの考え方として私が憧れるのは「気骨ある精神」というヤツだ。情報量が少なかったことも事実だし、知識が洗練されていなかったことも事実だろう。しかしそんな事を自覚はしていても頓着はしない懸命な一途さがあったように思える。
現代ではあまり聞かれなくなった「無頼漢」「一匹狼」という呼称は、“長いからといって巻かれない、強いからといって屈しない”毅然とした生き様の象徴であり、戦前の社会では大衆から求められていた何かがあったのだろう。

単なるひねくれ者や暴力に媚びるやくざ者とは根本的に違う「無頼漢」は今の社会では認められにくいストイックな美学なのだろう。

<平成29年2月>



病院受付.jpg

先日、前立腺がん手術前の心臓検査と前立腺MRIを行なった。
最後のMRIが一年程前だったので、その後の状態を手術直前に確認する為だった。
そうしたところが…何と!PSA値20.39ng/mL で手術の準備をしていたものが、2.79ng/mL と摘出の必要のない程度で消滅に近いくらいに収縮していた。

担当医師曰く「もう手術の必要性ありませんね。と言うよりこの数値では手術が認められません」
検査の翌日にその結果と手術段取りの説明を受けるために妻と同行で病院に伺ったのだが、医師からの言葉を聞いて呆気に取られた。(妻は嬉しくて心の中で万歳を唱えていたらしいが)

前立腺写真.jpg

こんな事ってあるんですねぇ。
運がイイというのか何というか…今週末には全身麻酔で手術入院と覚悟を決めていたのですっかり拍子抜けしてしまいました。
「癌細胞って場合によっては消えてしまう事もあるんだ」世の中というものはとにかく自分で経験してみなければ分からない事ばかりです。特に大事な事は他人の話を鵜呑みにしない事ですね。

中央放射線MRI.jpg

考えてみると私はどうやら運の良い人間のようで、これまでも幾度となく奇跡的な幸運に救われたという経験があります。
例えば、鉄柱にあと1mもずれていたら即死だったような自動車事故や、喉が乾いてろれつが回らなくなり急いで病院に駆け込んだら血糖値が530でヘモグロビンA1Cが14.5というとんでもない数値で昏睡状態に陥る一歩手前などなど…。
今回も癌の宣告を受けてから手術が嫌で何だかんだとズルズル引き延ばしていた事が、私の場合は自然消滅につながったという訳で迅速な行動が必ずしも良い結果を導くとは限らない“世の名言 必ずしも的を得ず”という事ですね。

とりあえずこれで前立腺ガンとの闘いは一段落した訳で、改めて根本体質となっている高血糖の糖尿病に向き合うことにします。実はこちらの方が厄介なんですけどね。

<平成29年2月>


私が風景を描く時は、きまって落書きのような気分でスケッチブックを弄(もてあそ)ぶ時だ。

童心に帰って憧れの風景と向き合っている時間、それが魂の開放された時間の様に思える。
だから私の風景画はまったく個人的な感情移入と意味付けがされていて作品と言うものではないと思っている。

近頃では自分にとっての風景画が“原風景を探索する手段”のような気がしてきた。
幼い頃の風景の中にはノスタルジーに浸れる部分もあるけれど、それ以上に人生の謎を解く鍵が埋まっているようにも思える。

choko-kan_01.jpg 

二十代の頃に描いたスケッチを見つけたので、その場所に行ってみた。
周囲の風景はすっかり様変わりしていたが、スケッチした周辺だけは時間が止まっているかのように変わらぬ空気が流れていた。

徴古館の裏.jpg 

過去のスケッチを通して何となく若き日の絵描きの魂にタイムスリップした。

そこは心落ち着く空間だった。
そこには紛れもなく未来に希望を求める生命感あふれた若者がいた事を知った。
そして時が過ぎた今、そこに私が発見したものは再生という希望の姿だった。

少し辺りを散策してみたら、腰掛けるには丁度いい切り株を見つけた。
何だか昔に見たことのあるような懐かしさを醸し出している。
あの頃もこんな風にぼんやりと座って未来へのイメージを膨らましていたのかな…。

切り株風景.jpg 

ふとしたことから原風景を求めて、そして辿り着いた処は憩いの空間だった。
心機一転、再生をイメージさせる憩いのひと時はタイムスリップのその先にあった。

家に戻ってからさっそくスケッチブックを取り出して頭に浮かんだ切り株を素描してみた。
今日のこの一枚が新しいテーマと創作意欲を生み出す再生の一枚のような気がした。

切り株描画A02.jpg


<平成29年2月>


 

新聞雑誌、テレビやネットなど多くの情報に接するたびにふと頭をよぎる事がある。
「私たちはこれらの過多な情報にまつわる論評をどこまでまともな気持ちで聞いているのだろうか?」
真に受けて信じ込んでいるとしたらそれは危険な事でもあり、反面また単に聞き流して真に受けていないのならその風評は何といい加減に世間に垂れ流されてゆくものなのだろう。

時代が今のような様相になってからは、言葉の真意が曖昧で取りとめのないものに変色してしまったような気がする。
改めて自分の幼かった頃に周囲の年配の人たちが話していた内容を、とりわけ父親との話を思い出してみると何か本質的な部分で違いを感じずにはいられない。

私の父親は明治44年生まれだったので、最後の一年間の明治時代を含めて大正、昭和、平成と四つの時代を生きたことになる。
その父は34歳の頃に召集令状が来て戦地に赴いたという事だったが、この年齢では高齢の部類で身体検査も下のランクだったので、まさか軍隊に召集されるとは思っていなかったらしく、昭和19年で戦争も末期の頃だったから周りの知人たちからは「お前が兵隊になるようでは日本の軍隊も終わりだな」などと冷やかされたらしい。

戦前の日本で現代と違いを感じるのは、社会がまだ整備されていなかったせいもあるが、アウトロー的な知識層が多かったという部分だ。一匹狼とか無頼とかいう言葉が生きていてそれを自負する作家や芸術家も多かった。
学校制度も戦後のGHQ指導とは違っていたから、父の通っていた学校では能力に応じて自由に上級に上がれる合理的な学年編成のシステムを採用していたらしい。

「末は博士か大臣か」という言葉が流行った時代があって田舎出身の父も外交官を夢見て東京の大学に進んだのだが、帝都の文化的な刺激に魅了されていつしか文学や芸術の世界に足を踏み入れてしまったという多情で意志薄弱な親父でもあった。
昭和初期という時代は立身出世というビジョンで単純に社会的向上心を煽られる反面、呑気で刹那的な享楽を求める厭世感も浸透していたのは今の日本社会ともそれほど変わらないのかも知れない。

社会は未成熟でインフラもシステムもまだ未整備だったが、人々の気質は自立心の強い無頼の精神が見受けられた社会だったように思える。
最近よく言われる『空気を読む』といった慣れ合いの生活感覚などとは程遠く、意外と自分の領域を自覚して迷いのない生き方をしている市井の人々も多かったようだ。

文庫:戦前の日本.jpg

新聞やラジオでしか世間のニュースを得ることもなく、その情報量の少なさから戦前の日本人は文化的水準までもが遅れていたようにイメージされがちだが、確かに社会生活基盤といったインフラの部分では未開発部分が多かったものの、民族的な文化水準はある意味で今よりもオリジナリティが高かったようにも思える。
欧米の“リーガル・マインド”は浅かったかも知れないが、“法の基準”としての日本的な任侠や道徳の意識は幼児期から培ったものとして一般社会・日常生活のコンセンサスとして根付いていた。

そういった自覚あった筈の人々がいつの間にか戦争に取り込まれ邁進していったのは、やはり人間本来の「力」への憧れと一般世論から外れて独自に社会的に生きることの難しさというものなのだろう。
父から聞いた戦前の話を思い出し改めて振り返ったとき、今の時代の意識が“強い者の力に屈する軟弱な思考”で、生きる権利や万人平等といった綺麗ごとで受け売りの善人願望などはオセロの駒のように一気に裏返ってしまうような気がしてならない。
丁度戦前の市井の人たちが戦争を避けたいと思いながらもいつの間にか同調して受け入れるに至ったような社会的ムードに近いものが今日の私たちに迫っているような気もする。

戦前の日本人のものの考え方として私が憧れるのは「気骨ある精神」というヤツだ。情報量が少なかったことも事実だし、知識が洗練されていなかったことも事実だろう。しかしそんな事を自覚はしていても頓着はしない懸命な一途さがあったように思える。
現代ではあまり聞かれなくなった「無頼漢」「一匹狼」という呼称は、“長いからといって巻かれない、強いからといって屈しない”毅然とした生き様の象徴であり、戦前の社会では大衆から求められていた何かがあったのだろう。

単なるひねくれ者や暴力に媚びるやくざ者とは根本的に違う「無頼漢」は今の社会では認められにくいストイックな美学なのだろう。

 

<2017年2月>

病院受付.jpg

先日、前立腺がん手術前の心臓検査と前立腺MRIを行なった。
最後のMRIが一年程前だったので、その後の状態を手術直前に確認する為だった。
そうしたところが…何と!PSA値20.39ng/mL で手術の準備をしていたものが、2.79ng/mL と摘出の必要のない程度で消滅に近いくらいに収縮していた。

担当医師曰く「もう手術の必要性ありませんね。と言うよりこの数値では手術が認められません」
検査の翌日にその結果と手術段取りの説明を受けるために妻と同行で病院に伺ったのだが、医師からの言葉を聞いて呆気に取られた。(妻は嬉しくて心の中で万歳を唱えていたらしいが)

前立腺写真.jpg

こんな事ってあるんですねぇ。
運がイイというのか何というか…今週末には全身麻酔で手術入院と覚悟を決めていたのですっかり拍子抜けしてしまいました。
「癌細胞って場合によっては消えてしまう事もあるんだ」世の中というものはとにかく自分で経験してみなければ分からない事ばかりです。特に大事な事は他人の話を鵜呑みにしない事ですね。

中央放射線MRI.jpg

考えてみると私はどうやら運の良い人間のようで、これまでも幾度となく奇跡的な幸運に救われたという経験があります。
例えば、鉄柱にあと1mもずれていたら即死だったような自動車事故や、喉が乾いてろれつが回らなくなり急いで病院に駆け込んだら血糖値が530でヘモグロビンA1Cが14.5というとんでもない数値で昏睡状態に陥る一歩手前などなど…。
今回も癌の宣告を受けてから手術が嫌で何だかんだとズルズル引き延ばしていた事が、私の場合は自然消滅につながったという訳で迅速な行動が必ずしも良い結果を導くとは限らない“世の名言 必ずしも的を得ず”という事ですね。

とりあえずこれで前立腺ガンとの闘いは一段落した訳で、改めて根本体質となっている高血糖の糖尿病に向き合うことにします。実はこちらの方が厄介なんですけどね。

 

<2017年2月>

とても多くの人たちがこの So-net ブログに繋がっていて、その中には“小説より奇なり”といった体験をされている方もたくさん居られるようだ。

実際、世の中には小説や物語を超えた現象・事件・体験が驚くほど多くある。
私の父もその人生に於いて比較的多くの事件に遭遇した人で、生前中に聞かされた話にはいくつかの驚きの事実があった。

私が生まれた時には既に鬼籍となっていた祖父が生前は地元の顔役として名を馳せていた事や、祖母の知己には“腹切り問答”で有名な政治家・濱田國松という人物がいたという事実などなど父の生前中には興味もなく聞き流していた事を惜しく思う。

濱田國松翁.jpg
 ▲衆議院議員時代の濱田國松翁(Wikipediaより抜粋) 

私の父親は明治44年生まれだったので、最後の一年間の明治時代を含めて大正、昭和、平成と四つの時代を生きたことになるが、改めて父から聞かされた逸話の数々を思い返してみると父の気概のようなものを知ることが出来る。

祖父にしても私にしても我が家の男たちはどうも波乱万丈で普通の人生を歩まない運命らしく、父も同じくドラマチックとも言える様な人生を生きた。

父の画像_02.jpg

そういった事もあって両親や祖父母の出自や身辺事情にふと興味が湧き、改めて家系を調べて整理してみたいと思うようになった。
丁度タイミング良く雑誌の特集で「自分史と家系図」の特集をやっていて、役所の戸籍謄本は死後150年間保存されている事を知ったので、早速父親の本籍地の役所まで行って発行してもらって来た。

そこには色々と新しい発見があった。そのひとつは私自身の出生地が思っていた所と違っていたことだった。子どもの頃の話の中から勝手に決めていたもので、思えば誰からも確かめたことはなかった。今回の謄本から初めて分かったことだった。

自分自身のことをより深く理解しようと思うとどうしても両親や、そのまた先の祖父母の人生に触れることになる。
私は精神面では父親の影響を多く受けて育ったように自覚しているが、その父自身は祖父と対立し祖母を背負って生きて来た時代があったように聞いている。
三男として生まれ育った父だったが、長男・次男の二人が夭逝したために一家の柱という立場になってしまった。東京の大学まで進んで将来は外交官になる夢を持っていた父だったが、祖父の負債や親族間のトラブルなどで家庭崩壊した後の一切を背負って生きる事となったのは事情を知る者にすれば不運という風に理解できるだろう。
 

そして父が面倒を看続けて来た件の祖母は私が物ごころつき始めた4歳の頃に亡くなった。かすかに残っている記憶ではとても品のある物静かなお婆さんだったように覚えている。
地元で有名な旅館の次女として育って、どういう訳か遊び人の旦那衆だった祖父の所に嫁に来たようだ。たぶん明治時代の昔の事だから、たぶん自分の意志ではなく祖父の強引な求婚と周りの者たちの口添えだったのだろうと推測する。何故なら、祖母の結婚生活は淋しいもので、祖父は妾をつくって晩年には名古屋の別宅で暮らしていたという話だから、今では考えられない理不尽さだったようだ。

祖母と姉.jpg 

それでも彼女は明治の女性らしく慎ましやかだけれど気丈夫な女性だったようで、祖父を亡くして未亡人となった後にも戦禍をくぐり抜け息子に世話を掛けぬよう心掛けて天寿を全うした。

私の父はその様な独り身の祖母を背負って生きて来た不本意な時代があったわけだが、遊び人で放蕩三昧と言われた祖父に対して若い頃は否定的で反発していた父も晩年になってからは亡くなった祖父の生き様を弁護する事はあっても批判する事は無かった。
父からよく聞かされて覚えているのは「祖父は子供好きで子供を可愛がる人だった」という事だ。反抗もしてよく喧嘩もしていたという割には大切にして貰ったような口ぶりに不思議な感じがしていたが、私も年齢を経てから親子として男同士としての関係に理解が出来るようになった。

ひと頃は父親の生き様を反面教師と呼んで否定した事もあった私だったが、考えてみればその父の背中を見て育ったのも私である事に違いがない。自身の考え方や生き方の方向性を形成してゆく過程で父親の数々のエピソードが影響を与えていることに気づくのは私が父親を越えて成長したと思える後のことだった。

nostalgia-2.jpg

<2017年4月>

 今週末に前立腺その後の経過検診の予定があるのだが、それ以前に一難去ってまた一難、糖尿の方の具合がよろしくない。
毎年春頃になると年末年始の食べ過ぎや、汗をかかない季節のためか血糖値は上がって来るのだが、先日測ったHb(ヘモグロビン)A1cは何と10.8に上がっていた。5~6.5が正常値というものが近年中では最悪の数値になっていた。本来なら入院治療しなければならない状態である。

去年から前立腺ガン問題が浮上して治療や対策にあれこれと時間を割いてきたが、実は私にとって一番の問題は「糖尿病」であるという事だった。
糖尿病と診断されてから早9年になるが、決して模範的な患者ではない私はその時々の自分の意識や気分の変化によって病気との付き合い方が変わってくる。合理的に理論的に機械的に症状に対処出来ない人間なのである(苦笑)
(※ちなみに親戚の中で同じ様に糖尿病を患っている叔父がいるが彼は私とは対極の模範的な患者で、カロリー計算も正確に測って食事制限や規則正しい生活をしている。妻からも咎められている私の日常と比べると恥ずかしくて頭が上がりません)

病院の食事.jpg

ではその様な生活態度の私はあまり真剣に深刻に病気の事を考えてはいないのか、と言えばそんな事はありません。やはり一番気にかかるのは「合併症」のことです。
実は妻にも正確には伝えていませんが、手足の指先が常時しびれているのです。足の方が特に厳しく一ヵ所に小さな鬱血の跡が見られます。この症状が現われ始めたのは昨年の暮れからで、その頃は前立腺ガンのことで頭がいっぱいで壊疽(えそ)の可能性は気にしながらも後回しにしていたのでした。本当はもっと早期に医師のチェックが必要だったのでしょうけれど、一ヵ月ほど前にようやく相談に行った結果…心配していた合併症にまでは進んでいなかったようですが、どうやら動脈硬化が始まっていて血流が末梢神経まで行き届かない血栓症であることが原因と診断されました。

しかしこれはこれで脳血栓から「脳梗塞」などを引き起こす可能性の考えられる恐ろしい状態でもあるので、あまり呑気な事を言っている場合ではないようです。
私には「闘病している」という自覚が足りないのでしょうね。そんな遮二無二になっては判断を見誤りますが、やはり病人である事の自覚と謙虚さは必要なのでしょう。
食べたいように食べて、生きたいように生きることは願望ですがそれが叶わぬ状況にしてしまった現実をしっかり見据えて生き方を調整してみる事も可能性を広げる工夫と言えるかも知れません。

かつて「糖尿ロッキー」なんて言う“病魔と闘う馬鹿真面目なヒーロー”を考えたことがありましたが、自分の病魔と対峙して闘う姿は人生そのものでもあり、どんなに無様に見えても見方によっては勇気を与える生き様かも知れません。
…なぁ~んて事を言いながら、闘病の自覚を背負って明日に向かってモアベター!

インシュリン注射.jpg

<2017年4月>

『人』というものは洗礼を受けなければ強く生きられない生きものなのかも知れない。
痛みを伴わなければ本当の快感が得られない様に、不幸を知らねば幸福を知ることが出来ない様に。
全身全力で絵を描く事に没頭するという状態からしばらく遠ざかっている。そういう時は成り行きに任せて放っておくのが良く、モチベーションというものはけしかけて湧き出るものではなさそうだ。人の運命と同じ様に必然と偶然が混ぜ合わさって形づくられる、時を待てる者にしか得られない成功のカギのようなものだろう。
博徒勝負.jpg
欧米で洗礼と言えばクリスチャンのバプテスマの意味に直結するのだろうけれど、ここでは『艱難汝を玉にする』の“艱難”と捉えて考えたい。艱難がオーバーなら、自分の最も避けたいもの、忌み嫌うものといった意味に置き換える。
敢えて自分から進んで向かってゆく艱難なら覚悟もあるし厭わないだろうけれど、避けたくても避けられない意のままにならない宿命的な苦難は一体何のために受け入れなければならないのか?もみ消すことも無かったことにも出来ない“悲観の業”をどうやって背負ってゆけば良いのか?
この問いを考え、答えを探し求める中に解法のカギが埋まっている。
還暦号_02.jpg
悲しみも苦しみも通過儀式なのだと思う。
避けようとしたり無視しようとしたりは出来るかもしれないが、決して自分から離れ去る事は無い。通過して遠くから眺められるようになるまで背負い続ける、多くの人がそうやって経て来た生きることの重みなのだろう。
時を待つ 時に願う 時を信じる。
<2017年7月>

'71年から'73年の二年数ヵ月の間、ヨーロッパ諸国と北アフリカをヒッチハイクで廻って得た様々な体験は当時としてはとてもユニークなものだった。
日本を発った当初はアルバイトをしながら現地でデザインを学ぶという崇高な(?)目的があったのだがいつの間にか海外数ヵ国の諸都市で働くボヘミアンとなっていた。

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海外で働いていた事はそれなりに面白い経験として私のその後の生き方にも影響を及ぼした。その影響については別の機会に廻すとして、ここではルポ風に記憶を辿ってみたい。
 ロンドンでのアルバイト・エピソードは拙ブログ「青年は荒野をめざした~ロンドン編」でも触れています)

旧ソ連のシベリア経由でヨーロッパに到着して三日後にはアルバイト探しを始めていた。物価の高いスウェーデンだったから日に日に目減りしてゆく所持金を心配しながら仕事探しに追われる毎日だったが、日本を出発する前に得ていた現地アルバイト情報がまったく当てにならないと知ったときには目の前が真っ暗になったような気持だった。

期待と失望の繰り返しで国から国を転々とした結果いくつかの都市で就業の経験をしたのだが、オーナーがユダヤ系であったり華僑であったりそれぞれの国民性や人種の様相を反映していて興味深い体験でもあった。
イギリスでは正式な労働許可を取って働いているわけではなくいわゆるモグリの不良就労外国人という身分だったので、ポリスが見回りに来ると店のオーナーがキッチンや倉庫の裏に身を隠してくれた。万一見つかりでもすれば運賃自己負担の強制送還で日本に帰されてしまうのでこちらとしても必死の逃亡者気分だった。
就労ビザを取得していない者は当時は滞在が3ヵ月と限られていたが、外国人向け語学学校に籍を置いていた私は何とか更新を許可してもらえた。この許可が下りないと一旦国外に出てまた入国するという怪しげな方法を取らざるを得なくなる。
時代が半世紀も前の話しだから今では考えられないような事が常識だったり他愛もないことが困難だったりもした。世界は米ソ冷戦の真っ最中で、日本赤軍も暗躍していた時代。海外での日本人の評価はミステリアスな存在で好奇心はあったがまだまだ低いものだった。
ロンドン公園にて.jpg
'70年代のヨーロッパでは北欧はアルバイト天国というのがもっぱらの評判だった。北欧では夏になるとサマーホリデーとしてほとんどの人が一ヵ月ほどの休暇を取るために商業施設では人手が足りないという事情があり、ドイツやイタリアなど近隣諸国から多くの若者たちがアルバイトに来ていた。北欧の中でも一番人気だったのはスウェーデンで、賃金も他の諸国と比べて高いうえに一緒に働くスウェーデン人の女学生が美人ばっかりだったのでイタリア人などはガールハント目的で就業に来ているものも多かった。
女性が絡むと男たちの世界ではどうしてもいざこざが起こる。小遣い稼ぎで働きに来ている筈なのがいつの間にかマドンナの争奪戦となって民族意識丸出しの争いに発展する事もしばしばだった。目的は美女をゲットする事なのだが、ドイツ人ならドイツ人同士、アメリカ人ならアメリカ人同士、もちろん日本人も日本人同士でそれぞれのお国意識で固まって応戦することになる。スウェーデン、フィンランドは当時求人も多くお金を稼ぐには最適と言われていたが、外国人労働者同士のいざこざが絶えなくて社会問題視されることも少なくなかった。
HELSINKI_HOTEL.jpg
それぞれの国に数週間から数ヵ月、ヒッチハイクでの流れ旅ではあるけれど気に入った街にはどうしても腰を下ろしてしまう。旅をする事も好きだったが、本来は生活をすることが目的で海を渡って来た。そこで生活をするということは当然その土地で働くわけなのだが、じゃあ何のために働いているのかと考えると時々分からなくなってしまう事があった。
ロンドンではホテル洗い場、サンドイッチ・バー、パン職人の店、ヘルシンキではレストラン、ホテルラウンジ、コペンハーゲンではチャイニーズ・レストラン…ひとつずつ数えてみるとその国のネイティブに就いたのはヘルシンキのレストランやホテルで働いたときのみだと気がついた。
イギリスではドイツ人シェフ、ユダヤ人オーナーとイタリア人のパン職人。デンマークでは中国人オーナーにそれぞれ就いて働いた。仕事ぶりや指示の仕方も見事なくらい異なっていて各国の文化的素養の違いを感じたものだった。

海外で働いて感じた事は「働く意識も国民性によって全く異なっている」という事だった。当時日本では「モーレツからビューティフルへ」というキャンペーンもあって、それまでがむしゃらに働いてきた労働意識を変えようという時期だったが、懸命に働いている国は決して日本ばかりでもなければその国の労働意識の高さからくるものではなく、国民の生活水準の問題である事に気づかされた。
当時は“日本人は勤勉でよく働く”という評価を自画自賛していたが、滅私奉公で従属的に働く感性は決して日本人の美意識からくるものではなく、それは社会構造という現実的な政治の問題でもあった。
<2017年7月>
日々、目覚めてはこの世の現実を過ごし 幻夢に誘われて安らぎに入る。
穏やかな時間を至福と思え。
悩み彷徨うことが人生ならば 時には解脱して外れで休む。
人の世は「肉の世界」であるから、そこには快楽もあれば苦痛も併存するのは当たり前の事である。楽あれば苦あり。良薬は口に苦し。快楽の一面だけに目を向けて語るのは人の世を理解していない表われである。
世間という人の作った社会を「肉の世界」とすればそれで把握できないものは「魂の世界」で捉えるのが良いだろう。
生きものとしての命を感じ取ること、それが全ての始まりかも知れない。
切り株に腰掛ける02.jpg
  ▲シリーズ「切り株」のラフスケッチ
醒めて考える事も必要かもしれないが、時には微睡(まどろみ)の中で思い巡らす事も良いのかも知れない。
覚醒ばかりが賢明とは限らないだろう。
<2017年8月>
人の心というものは数値で推し測ったりセオリーで解析したり出来るような単純なものではない。何層にも重なった時間と環境を織り交ぜてひとつの人格を形成してゆく。根源的な魂の次元から深層心理としての精神性があり、表層的には社会教育や成長環境によって作られる人格性格が何層にも亘って築かれる。人間が多面的であることの所以だ。
自分自身を語るとき、殆どの場合は自己防衛が働くもので決してすべてが真実であるとは言えないことが多い。少なくとも主観的な観察であるからには公正な判断とは言えないからである。
幼い頃の原風景をあぶり出してみる事が自分を振り返り考えてみるひとつの方法だろう。年月が過ぎた今でも記憶というよりも心のどこかに染みついて、時にはトラウマの様に時には慕情となって目の前に表われるカットバックの一場面。それは不思議な感覚で私であって私でない別次元にトリップさせてくれる。私が原風景というものに惹かれる理由はそんな処にある。
母と台所.jpg
「裸電球の炊事場」「枕元で眺める絵本」「真冬の朝の停車場」諸々の状況の欠片にはそれぞれに物語がある。人生は個人的に秘めた創造の物語なのかも知れない。怒り悲しみ憎しみがあるから輝いて見えるものもある事に気がついた。
冬の停車場.jpg
いずれまた何処かで何らかの形で私の原風景という玩具箱をひっくり返してみる事があるだろうと思う。人生の棚卸しの時に納屋にしまってある原風景の一つ一つを噛みしめて改めて検証しながら振り返る事だろう。
<2017年10月>
往く川の流れは絶えずして かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし
徒然なるままにカメラに向かいて そこはかとなく何をか写し出さんとや
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かつて遊郭のあった界隈。品の良い遊び人たちが集まっていた古の処には風情を大切にする仕来りがあった。
武家屋敷の名残りには侍の生活が垣間見られる。
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 ▲本居宣長の棲家・鈴家。二階が書斎
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歳を取ったせいか、落ち着いた佇まいが恋しくなる。
我が町の身近なところに見つけたモノクロームの庵。
<2017年12月>
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ひと頃は十二匹もいた我が家の猫たちが、独立の旅立ちやら病死、事故死などで去ってゆき今では猫年齢で還暦を迎えた老猫一匹を残すのみとなっている。
それぞれに思い出深い生き様の歴史を残して去っていったが、それらを絵本の形で表そうと思ったのが『猫の描いた絵本』の始まりだった。
そんな個人的モチベーションとは関係なく世の中はすっかり猫ブームになっていて、文字通り猫も杓子も“猫オマージュ”でいっぱいだったものだが、へそ曲がりの私はそんな流行りのブームが肌に合わずドロップアウトしていた。
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一匹残った老猫もすっかり衰えた様子で、最近はあまり遠出もせずぼんやりと周りの景色を眺めていたりする。その姿を見ていて、ふとそれはまるで私自身の姿ではないかと思えてしまった。
日々頭の中を様々な思索が流れてゆくが、気がつけばただ取り返しのつかない時間だけが流れ去っている。何も起こらない日々が目の前を通り過ぎてゆく。
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部屋の隅に放ってあったスケッチブックを、正直のところ少し億劫な気持ちで引っ張り出してきた。不慣れになった手つきで恐る恐る筆を執る。芯から沸き起こるものが見当たらないが、それでも何か背中を突き押すものがあって絵を描き始めた。
賑やかな猫たちの喧騒もすっかり聞こえなくなって、ただ静かな思い出の時間だけが流れている部屋で、置き去りになっていた『猫の描いた絵本』に再び会うことが出来た。
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<2017年12月>

 

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