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/還暦百態物語/二:後ろ髪 [押入倉庫B]

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◆第二話「後ろ髪」


 退職をしてから十数年が経っている。刑事に憧れて就いた職業だったが、警官という職業は不条理を抱えながら暮らさなければならない職業だと痛感したのが結論だった。
 退職金に多少の補てんを受けてのリストラ対象の早期退職で、その後は民間の警備会社に勤めたりしながら還暦の今日までやって来た。長らく役人の世界に勤めていると退職した後は“陸に上がった河童”で民間企業では物事の基準が馴染みにくいものだと改めて痛感した。


 若かった頃の正義感はいつの間にか変色していて、今でも街を歩けば様々な不条理に出くわすのだがもう俺の出番ではないと自分に言い聞かせては自重している。
 そんなある日、俺の眩しい過去を振り返らせるひとりの女性が現われた。ショッピングセンターの片隅で時間つぶしの様相で商品を眺めていたら目の前に見覚えのある後ろ姿が目に入った。つい気になってチラ見していたものがいつしか真剣にその行き先を追うようになっていた。


 もう三十年近くが過ぎている。自分の気持ちを抑え切れずに苦しんだ、そんな恋をした過去が俺にもあった。こんな偏狭な人間にもロマンスを夢見る人の心があったのかと思うと不思議だが、人の心というものは儘ならず、気まぐれな偶然で鬼にも仏にもなるというのが還暦を迎えた俺が得た信条でもある。
 心ときめく恋心などと云うものは押し隠していた自分の反面が触発されただけの事でなにも驚く事でもなく、今の俺では少し遅すぎたというのが正直な感想なのだが…それにしても見覚えのある後ろ姿の細いうなじが気になる。今更何に心を震わせるのか、それは自分の本能を触発する危険な匂いのする何かだという事を、もうこの歳になれば理解できる。けじめを付けたある時期から長らく封印をしてきた若年の猛々しさとでも言おうか、夜空に乱れ咲く花火にも似た破壊のエネルギーの様なものだ。


 胸の高鳴りをクールダウンさせて我に返って考えてみた。この歳になるまでどこか裏腹な人生を歩んでいる気がしていたが、それは自分の恋愛観にも影響を及ぼしているかも知れない。今ここでもう一歩を進める意欲というものに躊躇してしまうのは何故か?青年時代には暴走する事もあった俺が、社会人になって警官という職業に就いてからは“自制”という言葉に縛られ続けて来たものだ。
 目の前の彼女は店の立ち並ぶコンコースを足早に渡って少しづつ視界から遠ざかってゆく。
「いいのか?もう二度と出会う事のないかも知れない彼女を、目の錯覚だったと言い聞かせてやり過ごしてしまう。これまでの様に願望から目を逸らせて幻の中に押し込める人生で終わりたいのか?」
 戸惑いながらも少しずつ確実に彼女に近づいている自分自身がいた。あれこれと理屈を並べてみても自問自答は己に許可を得るための儀式だという事に気がついた。懐かしさをこの手の中に納めることに躊躇は無くなった。そこには少しずつ早足で記憶の後ろ姿を追いかける俺がいた。もうすぐ彼女の背に手が触れる…俺はかつて並んで歩いた懐かしい仕草で彼女の肩を叩こうとした。


 その時、突然何者かに腕を掴まれた。振り返れば紺の制服を着た警察官らしかった。
「お忙しいところをすみませんが只今職務質問させていただいています。最近この辺でストーカー行為が頻発しているとの情報が入ってパトロール巡回中なんです。」
 言葉は優しい口調だったがその眼差しは明らかに疑いを表していた。還暦の男が中年女性の後姿を眺めてはおどおどしながら近づこうとしている、そんな状況を見れば誰もが怪しいストーカー行為と捉えたとしても間違いではないだろう。しかし今の俺にはそんな冷静な判断が出来なくなっていた。どんな事があっても見失い掛けた彼女との時間をもう一度共有したい。こんなところで中途半端な遺物にしてしまいたくない、そんな執着が頭に血を登らせたようだ。
 気が付けば警官の胸を掴み押し倒していた。目の前の彼女に気づかれたくない一心で咄嗟にもみ消そうと行動してしまったのだ。迂闊な事だと気づいた時には遅かった。傍にいた二人の警官に取り押さえられて事態を取り巻くような人の輪が出来た。


 不甲斐ない自分の姿を彼女に見られてはいないか、それだけが気になって辺りを見回した。かつて彼女とよくお茶を飲んで過ごした頃に警官であった俺は自分の仕事と生き様の話をよくしたものだったが、そんな律儀な話を好意的に聞いてくれた彼女を前にしてとんでもない醜態を晒すことになった。
 興味深げに覗き込む人込みの顔・顔・顔…目に映った彼女の表情は正面から見るとどうやら人違いの様だ。ショッピングセンターでは熟女を狙ったストーカー被害が相次いでおり警報を受けたために婦人警官を泳がせておとり捜査をしていたらしい。そんな事も知らずに元警官だった俺はまんまと網にかかった訳だ。
 還暦というやつは現役時代の夢・憧れを目覚めさせる作用があるようだ。俺はかつての恋心が幻想だった事を悟り二度と振り返ることのない若気の河を渡り切った。


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