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/還暦百態物語/三:芸術家 [押入倉庫B]

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◆第三話「芸術家」


 その男の後ろ姿は撫で肩で華奢なものだったが、何かしら筋の通った姿勢の良さを醸していた。スケッチブックを片手にこの界隈で見かけるようになったのは最近の事で、もっと昔から足を運んでいたのかは知らない。
 この場所はちょっとした繁華街で闊歩する人の数も少なくない。雑踏の中で黙々とスケッチに集中する姿は何かを自身に課した修行僧の様な雰囲気さえ醸し出している。


 考えてみればこの様に街頭に立ってスケッチをするのは二十代の頃、青山の表参道で筆を走らせていたとき以来四十年になる。道を行き交う若者の息吹を自分の人生に重ね合わせ表現していた、そんな自分が今では還暦を迎えた初老の男になっていた。
 自分は一体これまで何を描いてきたのだろう?その時々で取り組むテーマというべきものがあると思ってここまで来たが、総括の年齢に入って辺りを見回してみると私はまるで裸の王様のような気分に駆られた。
 何かに急かされる様に夢中になって描き続けてきたが、山の頂に立ってみれば霞懸かった空気の感触を実感するだけだった。自分の欠けていたものを満たすためだけに描きつづけて来た絵は仕上げてみれば只の醜い自画像を表しただけだと知って、何か割り切れない気持ちとやり切れない気持ちが混然となったまま、無為な日々が過ぎてゆくのだった。


 そんな男が或る日からスケッチブックを持って街頭に立つようになった。彼を知っている者からすれば不思議な光景にも思える。中年を過ぎた頃からは厭世的ともいえる生き方をして来た男が、人生の終盤に来てまるで好々爺宜しく世の中に擦り寄る様はある意味で無様にも見える。
 しかし彼には
そんな事よりもっと切実な理由があった。それは糖尿からくる手先の痺れに加えて、数か月前から視界のカスミや輪郭のボケがひどくなって現実味を帯びてきた“失明の実感”だった。年齢からくる緑内障は既に手術をして解決済みなのだが、いま迫られているのは緑内障よりも更に先にある失明の感触なのだ。仮に今回も手術で回避したとしても、この分では数年後には確実に不自由になるに違いない。たどたどしい毎日を乗り越えた先に光明の未来が待っているなら我慢の甲斐もあるだろうが、その可能性が無いのなら何のための日々の試練か。前向きな気持ちになれない日々が続き、それはまた延々と終わりのない自問自答の様に思えた。


 今日も相変わらず街頭に立っている。視界は曇り指先も痺れた様な有様で、それでも恐れず絵を描こうとする気持ちがあり続けるのはこの男が何か確固たるものを掴み取ったからに違いない。それは希望という言葉で表せる様な生易しいものではなく、今を解体してひとつの壁を通り抜けた様な一種の痛みを受け入れた結果でもあった。
 上手く描こうとは思わない。思っても出来ない自分を知っているからだ。勿論誰かに評価してもらおうとも、評価してもらえるとも思わない。それは彼にとって次元の違う話であって、手が不自由になり目を患ってからは彼は自分の出来ることの限度を正しく知るようになった。人生の皮肉な一面として“不自由であることが自由の不便さを克服する”ということもあるのだ。


 還暦を迎えてからしばらくの間は半ば茫洋とした日々を過ごしていたが、近頃は何かが吹っ切れたようにしっかりとした足取りでスケッチに出掛けるようになった。迷いのない筆跡で風景に映し出された心の中が描き記されてゆく。
 これが若かった頃に葛藤していた“自分にとっての芸術”であったことを、長い彷徨の末に見い出したことに安らぎにも似た満足感に抱えられている…そんな白日夢を見ていた。


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