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'72年6月、北に向かう~北帰考 [青年は荒野をめざした/番外編]

 

'72年・初夏。私は迷いながらヒッチハイクを続けていた。
「アルバイト先を見つけてこの先もヨーロッパでの放浪生活を続けるのか?」それとも「当初の目的は果たせなかったが、見切りをつけて帰国して日本のデザイン学校に入って勉強をするのか?」
そういった自問自答を続けながら、スイスからドイツを経て北欧に向かってのヒッチハイクの日々だった。

北アフリカ・アラブ諸国でのヒッチハイクやスペインやオランダでのドラッグ体験という、シッチャカメッチャカ体験はして来たものの、まだ日本を出てから一年余りの新参者だった私はまだまだ海外生活の経験も乏しく、とてもこんな中途半端な状態で帰国する気にもなれなかった。
デンマークやノルウェーなど北欧のユースホステルに働き口の打診をしながら(当時はメールなど無かったから郵送で、返信は先に滞在予定のユースホステル宛てにしていた)、パンと牛乳の食事でお金を切り詰めながら文字通りの貧乏旅行で、豊かな気分で観光など出来る余裕はなかった。

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 ▲スイス・チューリッヒの風景 (絵葉書より) 

そんな時に起こったのが『テルアビブ事件』だった。
日本赤軍の一人、岡本公三によるイスラエル・テルアビブ空港での無差別乱射事件。日本人が外国で起こした最大級のテロ事件としてその反響は海外に暮らす同胞にとっては大変なものだった。
背中にリュックを担いで薄汚いジーンズに無精ヒゲの様相で放浪している私などは最も怪しまれる対象で、これまでヒッチハイク中に一度も無かった国境での厳しいチェックを初めて受けるようなこともあった。
この2ヵ月ほど前はアラブ諸国をヒッチしていてパスポートには入国ビザの印があったから余計に疑われたのかも知れない。リュックの中の下着から胃腸薬の類いまで全部放り出して調べられた。
(※余談だが医薬品に関して、後に北欧に暮らしていた時に風邪薬を他の荷物と一緒に梱包して日本から送ってもらった際、税関の許可証が添付されていなかったために薬物違法持ち込みに引っかかって全部捨てさせられた事があった)

以前に真夜中のヒッチハイクで、ワーゲンのボックス車にイタリア、フランス、アメリカのハイカー達が乗り込んで国境を越えたことがあった。国境の警備員が自動小銃を構える中を国際色豊かな面々が通過する様はまるでスパイ大作戦のドラマのようなスリルがあったが(別に何も悪い事をしていないのだけど…)今回は実際に起きた乱射テロ事件の後だったので緊張感は全く違っていた。

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 ▲ドイツ・ケルンの風景 (絵葉書より) 

この頃、日本では「よど号ハイジャック事件」に次ぎ「あさま山荘事件」など日本赤軍による破壊活動が頻繁に起こり、国家公安はかつての東大紛争や70年安保などに関わった学生運動家リストをもとに不審者をしらみつぶしに探していた。
そんな状況の中で、高校を退学して海外を放浪している私などは当時としては珍しい部類らしく、どうやら何らかの形でマークされていたらしい。

後日、親から聞いた話によると、突然に警視庁公安から二人の刑事がやってきて色々と聴収して行ったらしい。
「息子さんは今どこにいるのですか?」「政治的な信条は?何か活動をしていませんか?」「海外では何をしているのですか?」といった事を細かく聞かれて、身がすくむ思いだったと言っていた。
それは確かにそうでしょうね。子どもが海外に居て、今何処で何をしているのかもさっぱり分からないのに、テロ事件の参考人であるかのようにわざわざ警視庁からやって来て質問攻めをするのですから、たまったもんじゃありません(笑)
私はこの頃から自分の個人データは完全に国家に掌握されていると自覚しました。40年以上も前の話しです。

さて、本当なら海外で働きながらデザイン学校に通学して、今風に言うならグローバルなキャリアを磨いて凱旋帰国する筈が…いつの間にか日々の飯にも困る放浪のボヘミアンになってしまった。
でも正直言って心の奥底では、こんな生き方をしてみる事に少しの好奇心のあったことも確かだった。
国を発つ時に友人たちから「大学進学も棒に振って何でわざわざそんな苦境に向かうのか?」と嘲笑まじりの言葉を受けたものだったが、還暦も過ぎた今確信できることは“これが私の生き方だったのだ”ということだろうか。
何はともあれ、私の1972年は異国で職を求めてひたすら北に向かう青春の日々だった。

 


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