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絵を描くという生き様~芸術との相克 [人生描画譚]

 

人生を「絵を描く」という視点から眺めると、私にとって二十代の東京での生活がひとつのターニングポイントでもあったように思える。

十代の終わりに海外を放浪して日本に戻りデザイン学校に入った時には、すでに一般社会と常識感覚からはドロップアウトしてしまっていた。
この国の一般的な処世的考え方になかなか馴染めずいつも異邦人のような気分で生きていて、そしてついに家を出て東京に向かった。

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寝袋と現金5万円だけを持って、当時(昭和51年)まだ運行していた東京行き夜行列車に乗って故郷を後にした。
頼る宛ても金銭も無い私は野宿生活をしながら、とにかく食ってゆくための仕事探しから始めることは覚悟していた。

住み込み食事付きの仕事をしながらまとまった金額をたくわえて、とりあえず四畳半ひと間、洗い場トイレ共同という下宿先に落ち着いたのは半年先の事だった。
そしてその後も、仕事を転々としながらも何とか絵を描く生活が出来るようにならないかという葛藤の日々が続いた。
当時はフリーターという言葉も派遣という認識もない時代だから、仕事を転々と変わるという生活は地に足の着かない社会の逸脱者と見られていて、世間がそんなふうに見るものだから自分自身でも“オレは異端児なんだ”という気持ちにさせられていた。

          ☆

いわゆる社会の底辺、世間の裏側で働いているとそれはもう話題には事欠かない程の経験をするが、話が脱線しがちな自分を抑えて、ここでは飽くまでも“絵を描く生き様”というテーマに絞り込みます。(^^ゞ

デッサンをしっかりやろうと思ってデッサン教室に通ったり、時には友人の紹介でラブホテルの部屋に飾る絵を描いて生活費を得たり(私の好きなように描かせてくれるオーナーで、メルヘンタッチの童画でも採用してもらえたのは幸いでした)
アルバイトで働いている時間以外は絵ばっかり描いていて、私の人生の中で一番絵を描いていた時代だったように思える。

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絵を描いて生活していると言えば、なんと羨ましいなどと言われそうだが、その反面で実は一番苦しい時代でもあった。
それは経済的に苦しかったと同時に、自己のアイデンティティとの相克の日々でもあったからだ。

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私は家族や親戚からの影響もあって幼い頃から芸術活動に憧れる一方、それが平凡な人生を狂わせる危険性のある生き方のようにも考えていた。
祖父も父親も芸術的素養のある人だったが、私に少なからず影響を与えた父親は自身が過酷で不運な人生を経て来ているため、“もののあわれ”をベースにしたペシミスト的傾向が強かった。
時代背景が大きく影響してもいるが、例えば絵画では佐伯祐三、青木繁やモジリアーニ、ゴッホ。文学では石川啄木や中原中也などに傾倒していた時期で、生活苦の中で命を削りながら崇高なものを求める葛藤こそ真の芸術だ、などと私自身も時代的なステレオタイプに観念を縛り付けられていたのが正直なところだった。

芸術に商業的要素が認められなくて、社会的な認知を得るにはパトロンを得なければ成り立たない時代、いまでは考えられない程に自立性を打ち立てられていない時代だったから、寄生できない芸術家は必然的に生活苦と闘わざるを得なかったのも事実だった。

そんな事が痛いほど分かっていて、誰が好き好んで過酷な生活を選ぶだろうか。

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それでも若気の至りで、勇猛果敢に飛び込んで中途半端に玉砕をしたというのが私の芸術活動だった。

今こうして振り返ってみれば、時には傲慢不遜な態度で生きていた時代であった事を自覚してしまう。
またそれと同時に、
芸術というものに対しては、たくさんの“挫折と裏切りと妥協”をしてきたとも思う。

何ひとつ“やり遂げた”という思いも無く、このままで終わってしまうのか…とさえ感じていた私の人生における芸術に対する感想だったが…
何もかも無くなったと思った時に、本当に必要なものが見つかるものなのだ。

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反省すべき事は山ほどあるが、とにかく何とか還暦まで生きてこられた人生。
もうこれでお仕舞かと思っていたのに、また絵を描くことを始めたいと思うようになった。
今度は還暦を過ぎて、赤子のような“赤心”を持つ身として絵に対峙したいと考えるようになった。 

私にとって絵を描く人生とは、「人生それ自体の眼目であり、それを知り語るための過程でもあった」

 

 

▼「もうこんな処まで来てしまった」/1979年 
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