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絵を描くという生き様~落描きから漫画へ [人生描画譚]

 

一休さんが子供時代に悪さをして柱に縛られたまま、足の指を使って涙でネズミの絵を描いたという逸話を読んだのは幼い頃の思い出だ。

私の「絵描き人生」は、他所の家庭で勧められて描いた“馬の絵”が始まりだったと記憶している。
その頃の私は、両親が毎日の行商で手をかけられないものだから、当時よく見られた一般家庭に託児される幼児として他人の家庭で過ごしていたのだが… 

午後のひと時だったように覚えている。わら半紙のようなものに描かれていた一頭の馬の絵を見て、私の世話をしてくれていた若奥さんが「あら、お絵描き上手ね~」と感心してくれた。

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有頂天になった幼い私は、早晩自宅に引き取られてからも両親の目の前で馬の絵を描いては得意げになっていたものだ。
子どもにとって何かの得意技が出来るという事は、それはもう天下を取ったようなもので、それ以後の私は紙の切れ端を見つけると何かと落書きを描いていたらしい。

私の父は映画が大好きで幼い私をよく割引のナイトショーに連れて行ってくれたせいか、そして歳の離れた姉が映画女優志望で俳優の付き人をしたり、「大映」の所属で撮影所に務めていたせいもあって、
私は幼いころから邦画洋画を問わず、同世代の子供としてはかなりの数の映画を鑑賞していたようで、この原体験が私の絵心を培ったように思える。

私の絵心とは、つまり物語性の事である。
生き物を描いても風景を描いても、そこに何らかの物語性を求めてしまう…というか、独りよがりかも知れないが感受性のようなものが発揮されてしまうのだ。描き手でもあるのに鑑賞者でもあるというふたつの立場に引き裂かれてしまう。

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絵を描くことの楽しみを知った私のそれからは、部屋の隅で夢中になって落書き三昧の日々だった。
そして近くに貸本屋があった事もあり、毎日のように漫画を借りては読んでいたのだが、自然とそれに影響されて自分でも描いてみたいと思うようになっていったらしい。

絵の模写は苦手だったが、物語は好きな映画や漫画の中から真似をして描いていた。
小学校に行くようになり高学年になる頃にはすっかり評判になっていて、クラス中で回し読みする読者がいて隣のクラスからも借りに来る者もいた。いつの間にか教師の間にも伝わって学校中で知られるところとなり、学校新聞や行事のポスターなどは私が一手に引き受けるというような立場になっていったのだった。

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人を喜ばせ人から待ち遠しくされる事がこんなにも楽しい事だと知って、漫画に飽き足らずに落語寄席やパーティー・イベントのようなものまで開催する、興行師みたいな小学生になっていった(苦笑)
只の落書きから人を楽しませる漫画を創作していったことは、孤独な環境にいた幼年時代の私が周りの人々と繋がる貴重な体験だったように思える。

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中学生になると漫画を描くことよりもっと面白いことに次々と出会って、その内に趣味のひとつとして置き去りになっていたのだが、
中二の夏に一度だけ何を思ったか、メジャー出版社に投稿をした事があった。

当時はまだビッグコミックや少年ジャンプなどは発行されていない時代で、「COM」と「ガロ」という二大雑誌が若者漫画のバイブルだった。
青林堂伝説の編集長・長井勝一氏が発行していた「ガロ」 に憧れて、いかにもそこにマッチした画風の作品を投稿したのだが、まだまだ稚拙だった私は甘さを酷評されるのみだった。

 

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▲ 初めて雑誌に投稿した漫画

 

その後、中学を卒業し高校生になってゆくのだが、学生時代に描いた絵の殆どは日記やポエムに添えるイラストやカットばかり描いていた。
それはやはり思春期の悩み多き恋心に捕らわれていたせいだろうか。今読み返してみると赤面するほど恥ずかしいイラストで埋められている。

学生時代には学校の課題で県のコンペに応募したキャンペーン・ポスターなど数々が賞を取ったりして認められ、漫画よりもデザイン・イラストの方に興味を向ける事になっていった。
しかしそれが後に起こる様々な出来事と絡み合って、私が18歳で海外に出て北欧のデザイン学校入学をめざす人生の一大転機になってゆこうとはまさか思ってもみない事だった。

 

 


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