SSブログ

「何でも見てやろう」とコミューン思想/思想のタイムスリップ [タイムスリップ忘備録]

『思想をタイムスリップする』

自身の生きてきた道程を検証する。それは時には大きな過ちを見い出す事もあり、時には辛い振り返りになるかも知れない。
しかしその愚かさも含めて、自分というものを包み込み救い上げることが「自己を生き抜く」ということなのかも知れない。

思想の変遷をタイムスリップすることは、表層的なレトロ・ブームとは一線を画す“知の散策”と呼べるものだろう。 

何でも見てやろう.jpg 

小田 実の「何でも見てやろう」や五木寛之の「青年は荒野をめざす」に代表される“若者の海外放浪ストーリー”は当時の若者の思想的生き方に少なからぬ影響を及ぼした。 

「何でも見てやろう」で世界を旅した小田 実はその体験から帰国後ベトナム平和連合(ベ平連)を立ち上げて反戦活動を推進したが、それはフランスのソルボンヌ大学で燃え上がり世界中に拡がった学生運動と連動し、70年安保を前にした日本の学生達も巻き込んで日本国内では最大の社会運動として発展していった

社会的オピニオンや価値観に影響を与えるマジョリティな団塊の世代たちの起こした行動はその後も環境問題などの市民運動に変遷して、共同体をイメージしたイデオロギーとしてのコミューン創造をめざしているようにも思えたが、しかし結果から見れば無意識のうちに単なるファッションと化していったように思える。

当時、世界の若者たちが唱えていた“コミューン思想”とは一体何だったのだろうか?結果的にそれが幻想であったとしてもどのような幻想を抱いていたのだろうか?
「思想のタイムスリップ」として、私はいずれ改めてこのコミューン思想を検証してみたいと思っている。何故ならこの団塊青年の思想的遺伝子が時代を経て今日の“絆思想”に受け継がれているように感じられるからである。

ともあれ社会の矛盾や不平等に抵抗をしていた筈の若き志士たちが挫折を経て見い出した生き方とは、アンチ・イデオロギーの刹那的な社会の構成員となる事であってその後およそ20年後に訪れるバブルの享楽時代にこの世の春を垣間見ることだった。

青年は荒野をめざす本.jpg
▲ '60年代後半、一部では当時の若者のバイブルとも形容された五木寛之の著書。

「青年は荒野をめざす」と言って疾風のように過ぎ去ってきた若かりし日々は、時として砂時計の砂のように逆流する事もある。
夏の陽射しにも似ためまいが欧州での過去を切れ切れの幻燈のようにフラッシュバックさせてくれる。 

「放浪」という言葉が一種の「求道」にも似たニュアンスで受け止められていた部分もあった。そこには真実や叡智を追い求めるハングリーな若者の精神があった筈だった。
社会の新しい動きや文化を牽引していた当時の若者は今ではすっかり変容して、社会に飼い慣らされた分別のついた老人になっている。

70年代初めのヨーロッパを放浪する若者の間ではフラワーチルドレンやヒッピー文化の流れを汲んで「コミューン思想」が拡がっていた。
世界の各地に国籍を越えて共同生活をするキャンプのような場所があり、その代表的なひとつとしてイスラエルに「キブツ」という共同開拓地があった。
わずかの賃金と衣食住が確保されているというので私たちの間でも結構評判になっていて、キブツに向かう日本人も少なからず居た。

当時からコミューン思想とか市民コミュニティとか、国際感覚とかインターナショナル志向とか、そして最近ではグローバリズムとか…あれこれ時代に応じて言われ続けているものだがいまだに規範も何も確立されず、同じような事を繰り返されているのが現実だ。
そして書店には同じような内容の啓発書が、何年周期かで装丁だけ変えて出回っている事に気がつく。

<2014年5月・記> 


nice!(24) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 24

Facebook コメント

死を食べる-アニマルアイズ