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「カモメのジョナサン」とブレイクスルー哲学/思想のタイムスリップ [タイムスリップ忘備録]

『カモメのジョナサン』は70年代初頭にアメリカで出版された短編で、カウンターカルチャーとして一大ブームとなった。

あの時代、確かに世界中が混迷の時代だったときに若者たちは何か新しい価値観と哲学的な道を求めて試行錯誤していた。
そんなときに登場したのが、若者のバイブルとなった『Jonathan Livingstone Seagul』だった。

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他の群れとは少し違った一羽のカモメの物語が、何故これほど多くの若者に共感を得たのか?
“ドロップアウト”という言葉が、当時の若者たちの感覚では前向きで積極的なニュアンスで伝わっていた。

世界はグローバル化と言われているけれど、実際には各国が自国の保護政策に躍起になっていて、意識は内向きになっているのが現実だ。
自国の歴史・文化の評価を高めるムーブメントは良いが、ますます狭い意味での民族主義に囚われてしまっている輩も見受けられる。
どうして人間はもっと自由な発想、自由な存在になれないのだろうか?そもそも人間にとって“自由とは幻想の産物”なのだろうか?だからこそ『カモメのジョナサン』のようなストーリーが青年たちの寓話として人気を得たのだろう。

しかし、そのフィクションとしての寓話でさえも今の時代では理解され難いように感じる。

ビジネスの世界でこそ“ブレイクスルー”とか“イノベーション”とかいう言葉が交わされたりもしているが、所詮はアメリカ留学でMBAを取得して来たコンサルタントが輸入した言葉遊びに過ぎないと感じている。
本当にその言葉を自分のものとして理解しているのなら、人々はもっと社会を意義あるものに変革出来ている筈だと思う。 

「チェンジ」とか「構造改革」とかいう言葉もイマジネーションとして言われている耳ざわりの良い言葉のようで、血を流し汗を流すアクションとして捉えていないのが現代日本の市民感覚だ。

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 ▲ 五木寛之・訳 日本語版「カモメのジョナサン」

 「カモメのジョナサン」の日本語訳は五木寛之氏が著していた。

昨年、40年ぶりに改訂出版されたらしいが ’70年代の若者のオピニオンが現代の若者に理解されるのだろうか?
そして…なぜ・いま・カモメのジョナサンなのだろうか? 

<2013年4月・記> 

 

『思想をタイムスリップする』

自身の生きてきた道程を検証する。それは時には大きな過ちを見い出す事もあり、時には辛い振り返りになるかも知れない。
しかしその愚かさも含めて、自分というものを包み込み救い上げることが「自己を生き抜く」ということなのかも知れない。

思想の変遷をタイムスリップすることは、表層的なレトロ・ブームとは一画をなす“知の散策”と呼べるものだろう。 

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これまで多くの哲学・思想が語られてきた。そしてその時代の社会や人間に対して啓蒙してきたものも多いと思う。
私たちも時にはそれがまるで天からの声であるかのように頭の中に刻み込んできたものもあっただろう。

しかしその顛末において、その考えが生み出した結果とその後に及ぼす影響に対してどこまで検証が行なわれていた事だろうか?

歴史というものは捏造されやすいものだ。特にその裏づけとなる“時代の価値観や思想”は簡単に忘れ去られたり、意図を置き換えられたりする。 

思想をタイムスリップさせる事って大切な事の様に思える。


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