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カモメのジョナサン~思想のタイムスリップ [タイムスリップ忘備録]

 70年代初頭にアメリカで発表され日本でも一大ブームを起こした短編小説『カモメのジョナサン』のことをふと思い出していた。

あの時代、確かに世界中が混迷の時代だったときに若者たちは何か新しい価値観と哲学的な道を求めて試行錯誤していた。
そんなときに登場したのが、世界の多くの若者たちのバイブルとなった Richard Bach 著 『Jonathan Livingston Seagull』だった。

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考えてみれば、私たちの世代は安保闘争、東大安田講堂、三島由紀夫、あさま山荘などなど、嫌でも社会の激動に直面せざるをえない空気が充満していた時代だった。今の時代のように軽く生きてはいられない何か強迫観念のようなものがあった。せめて何にも属さずに生きる“無思想ノンポリ”というスタンスがあったが、その立場を維持する事にしてもそれほど簡単なことではなかった。

「昭和元禄」などと呼ばれ、アングラ、ヒッピーの気だるいドロップアウト文化(今にして思えば、文化というよりはファッションでしたが)と、その後に来るフラワーチルドレンのラブ&ピースに囲まれる若者と、片や『ベ平連』や学生運動に参加する事によって自己の社会的存在と政治的意見をアピールしようと悶々とする青年たち…。

そんないつの時代にも見られる“早すぎた青年の主張”は案の定、若さと共に色褪せて老獪な既存社会の前に朽ち果てた。

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丁度そんな頃に「カモメのジョナサン」は、まるで社会に傷ついた戦士を癒すかの如く現われたのだった。
そしてジョナサンの生き様…群れから離れて、ただ自己の精神的満足のために肉体的挑戦を続ける姿は、混迷から抜け出すためのひとつの癒し方であったのかも知れない。
ここにも肉体と精神の相関関係がバランスの必要性として具体的に表わされているような気がする。

人の一生というものは、その生きた時代の影響を無しにしては考えられないものだ。そして生きた時代とは、まさしくその時代の“状況と思想”のことだと思う。

その時代のトレンディで顕著な思想的側面をタイムスリップしてみることも“思想の「温故知新」”として今に通じる思考の道筋があぶりだされてくるかも知れない。
私たちは時には時代に洗脳され、時代に教育されながら、何らかの確信らしきものを抱えて次の時代を築いてきた筈なのだから…。


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