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[覚書]我思う故に我在り/2009 [【アーカイブ】]

◆このブログを再開して四年が過ぎた。初めは、ただ何となく…次に作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見することもあった。
◆これまでの思いつきメモの2009年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

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頚椎の手術で入院をしたのが一年半前、その九ヶ月後に今度は糖尿でまた入院生活を送った。
手足をもぎ取られた者の気持ちは、実際にその状況に於かれなければ分からないものだがそれでも尚生きてゆく事の意味を苦痛の中で探そうとする。
人間の宿命なのだろう、理屈を語ってそこに理由と意義を見出せなければいられない存在というものは。
しかし発見すれば大きく変わることになる。人間の存在に理由などなく、ましてや意義を求めているのは自分自身でしかないという事を。

<2009年1月>

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先日、NHKで「無言館」のドキュメンタリーをやっていた。映画「夢のまにまに」の一シーンに無言館が登場するという事も今回の注目の一因かもしれないが、以前に何かの機会にその存在を知り戦没画学生たちの作品を見たことがあり、記憶の中には印象深く残っていた。そして改めて作品というものについて考えさせられた。

作品とは一種の媒体とも考えられる。金銭的価値とか優劣順位とかで人間の欲望の対象となってしまうから間違った解釈をしがちだが、ただ純粋に媒体と考えれば本来の姿が見えてくる。
送り手と受け手がその魂の存在を確認しあう媒体…それが作品の本質。人間の肉体に留まっていられなくなった魂は何らかの媒体に姿を変えなければ存在できないものなのだ。

<2009年3月> 

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幼い頃に家族みんなで暮らしていた時間が描きたくなって、スケッチブックを持って自転車で出かけた。

当時借家住まいをしていたあばら家が今でも残っている。
貧しい生活だったけれど何かとても豊かだった感触を思い出す。

絵を描いていると通りすがりの人に声をかけられた。こんな触れ合いも久しぶりだなあ…

ほんのしばらくの間だったが、ひたすら自分の絵の世界に没入した静かな時間だった。

<2009年3月>

チベットの寺院の到る所には立派な砂絵が幾多とあるそうな。

数人の僧侶たちがそれぞれ半生をかけて描き上げるという、それは見事な出来栄えであるそうな。

しかしひとたび風が吹けば砂絵ははかなく消えゆく定め、これまで数千年の歴史の流れに現れては消えたる数々の魂。

砂絵ひと粒ひと粒に託した情熱はたとえその身が朽ちるとも、伝承の遺伝子となって時を駆けゆく。

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<2009年5月>

強がりの言葉を口にしていても心の逃げている人がたくさんいる。
立派な悟りを口にしていても心が放棄している人はたくさんいる。

見せ掛けにごまかされてはいけない。
立派な言葉にまどわされてはいけない。
その人が愛を実践しているかを見極めよ。

愛していればその人は見捨てない筈だ。
愛する勇気があれば目を閉じずに相手を見つめられる筈だ。

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愛情があれば問題は解決できる。

<2009年6月>

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▲父の子守唄 

私が赤ん坊の頃、父は夜泣きする私を懐に入れて戸外で子守唄を歌っていたらしい。家族を大切にする苦労人だった父のエピソードである。私が父から教わったもののひとつに「父性」があり、それは子守唄として私の中に生き続けたようだ。

父は左アゴに軍隊で殴られて残った傷跡があった。小さな飲食店をやっていた頃には近所にヤクザくずれがいて嫌がらせを受けていた。世間の不条理と暴力に揺さぶられながらも決して人としての優しさを忘れない人だった。恨みも怒りも背負っていた人だったが、決して優しさを放棄しない人だった。

父の歌う子守唄は“優しいことは強いことである”と教えてくれた。

<2009年8月>

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進む人は進めば良い
戦う人は戦えば良い
それが人の本質と言うのであればそのように行えば良い

怒る人は怒れば良い
壊す人は壊せば良い
それが人の心の業と言うのであればそのように行えば良い

しかし忘れてはならない事がある
最も誇らしい事…

弱き者を支える事
敗れし者を救う事
排除されし者を受け入れる事
…人の誇りを忘れてはならない

<2009年12月>


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コメント 4

amaguri

優しいお父さんに育てられ「弱き者を支える事敗れし者を救う事排除されしを受け入れる事…人の誇りを忘れてはならない」そんな気持ちが育まれたようですね。僕なんかすぐに逃げ出してしまいます。
by amaguri (2012-11-24 12:50) 

扶侶夢

nice! &コメントありがとうございます>amaguri さん
普通は誰だって逃げ出したいものですね、こんな生きにくい世の中からは…。私もたくさんの失敗と罪を犯してきましたが、それでも諦めずより良い方向に向かおうという気持ちを持ち続ける事が大切なんだと思っています。
私はこれまでの経験から“逃げて良かった事はなく、さらに悪くなった経験ばかり”なので他人には「向かっていった方が道は開けるよ」と常々言っています。
by 扶侶夢 (2012-11-24 16:16) 

九子

扶侶夢さん、こんばんわ。
おかげさまでほとんど良くなりました。( ^-^)
nice!ありがとうございました。( ^-^)

さっき記事を続けて読ませていただいて、「透明ランナー」というのに興味を持ちました。もちろん扶侶夢さんと同世代ですから、男の子たちはそうやって野球をしていたのでしょうが、自分はもちろん女子であると言う理由以上に、ともだちと遊べない子供だったものですから、「透明ランナー」はとても刺激的でした。

当時の子供たちには知恵や想像力がたくさんあったのですね。
発想が自由ですよね。頭が柔らかいですよね。

私もあの頃、もう少し遊びを覚えていたなら・・と、気弱になると後悔してます。(^^;;
by 九子 (2012-11-24 22:15) 

扶侶夢

>九子さん、復帰おめでとうございます^^)
倒れて立ち上がりまた倒れて立ち上がり、乗り越えてゆくたびに何かがたくましくなってゆくのでしょうね。
「透明ランナー」っていうのは、本来の子どもの持つバイタリティみたいなものでしょうね。キリストの言葉に「持たざる者は幸いなり(貧しきものは幸いなり)」という言葉がありますが、足らない者には何かで満たそうとする知恵が生まれるものなんですね。
by 扶侶夢 (2012-11-24 23:52) 

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