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新世紀の発想~書き換えられてゆく思想 [21世紀の種]

【書き換えられてゆく思想】…そんなキーワ-ドが浮かんだ。
21世紀も18年目を迎えて(が過ぎて)新世紀の斬新さが褪せようとしている感じがする。

一例として挙げれば、今世紀に入って“テロリスト”という言葉がこれまでの20世紀とは違った概念で定着しているように思える。「同時多発テロ」という言葉で一般化して広く行き渡ったのは2001年9月11日の貿易センタービル事件だった様に思うが、それによってテロという言葉の意味合いと位置づけが決定的に変わったのではないだろうか。
ジョージH・W・ブッシュ大統領の時にフセイン政権のイラクが“悪の枢軸”と位置付けられたように、世界貿易センタービルのテロ行為がイスラム教徒による聖戦(ジハード)と同系列に息子のジョージ・W・ブッシュ大統領によって“世界の敵”として万民に刻み込まれた。

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私の中にある『テロ』という言葉は、例えば“暴力による世直し”に近い意味合いである。この言葉の意味合いが捉え方として正しいのか間違っているのか分からない。テロを容認する意味ではないけれど、テロ行為自体には単純に“悪意”として片付けられないものがある事を忘れないでおきたいと思う。勿論テロという暴力行為は決して許されるものではない。しかし『テロ』という言葉で括る事で問答無用の悪業行為と結論づける事には多くの危険性を孕んでいる事を忘れてはいけない。世の中の歪んだ正義感が冤罪を生んでいるのが現場を知る者の正直な感想なのだ。
明治維新、二度の世界大戦、朝鮮戦争といった国内外の動乱によって社会基盤は元よりそれまでの日本の思想的基軸は大いに揺さぶりを受けた。今生きている日本人の殆どは(勿論私自身も含めて)それ以前の価値観を実体験として知らない。プロパガンダで歪めて刷り込まれた「旧日本の時代遅れとなった忌まわしい習慣」ばかりが嘲笑されたりもする。必然性があって変化してきた価値観なのだろうが、私が重要と考えるのは「何故こうなったのか?」という因果関係の事実を知る事なのだ。決して過去が素晴らしいとか時代を戻すことを志望するのではなく、自分たちがどう生きてきたのかを検証する事が必要だという事なのだ。
何故なら私たちはいつの時代も「過去を自分の都合の良い様に書き換えて残す習性がある」ねつ造の歴史を生きているからなのだ。
<H30.06.01 記>

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 [追記:反権力に対して反社会的レッテルを貼る]

世の東西を問わず、権力というものは異議を唱える勢力を駆逐するために反社会のレッテルを貼って正義の名のもとに抹殺するという手段を取って来た。そしてその発想と手法は大きな政治問題や社会問題にとどまらず、現代では一般市民の暮らしの中にでも見られる様になって来た。乱暴な言い方をすれば“捏造と冤罪”はごく日常的な現象であり、それは煽情的な大衆の善意の鉄槌が行う愚かしくも悲しい習癖の結果でもある。
マジョリティに対して媚びと寄生で生きている者たちは結局マイノリティを貶める事でしか自己の安息を得られない。一見知性的で善良そうな人間が“身勝手な平和”を得ようとして凶暴な偽善を振りかざす原因はそんなところにあるのかも知れない。

 

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日本人にとっての正義感の推移 [21世紀の種]

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それぞれの国のそれぞれの人たちが、それぞれの歴史風土や文化土壌に価値観の基準を立てて生きている。
宇宙的な観点でみれば万物は平等かも知れないが、社会的な基準でみれば正義や正論はそれぞれの育まれた風土や時代によって異なっているのが事実である。
国際社会の戦争や争い事はどちらが正しいというよりも、そういった国家単位での考え方の相違から起こっているものが多い。(特権を持った組織による仕組まれた謀略などでない場合は、国家の主義主張や意地面子といった案外にも稚拙な考えで争い合うことがある。特に人心を争いに向けるためにはそういった幼稚で煽情的な宣伝が功を奏する)


現代では純粋な意味での“宗教戦争”は起こりにくいように思われる。宗教的信条に名を借りていてもその実は経済的支配であったり覇権目的であったりして、そのための大義名分に過ぎない。(一般大衆は扇動され間違って宗教戦争と捉えたりする事もあるけれど)
'80年代頃までのイデオロギー闘争は影を潜めて、今では国家や政治体制に不信感を持つ人々は個々の感性の基準で闘争本能を解放しているように思える。

どこまで正確であるかには疑問が残るが、地球全体が情報化社会になりネットの普及もひと役買って、諸々の国が何を考えどの様に行動しているのか大方の把握が出来るようになってきた。そして国家基盤のそれぞれの特徴や違いが分かって来ると、なかなか世界は一筋縄で束ねる事は間違いだと分かって来る。


改めて世の中を見渡してみると、我が国ほど混然一体となった国も珍しく思える。
それは様々なジャンルに於いて言えることなのだが、昔から言われている通例として“お盆には仏壇を飾りながらクリスマスが来ればケーキで祝い、新年を迎えれば神社に初詣に出掛ける”生活感覚。八百万の神の感覚はそういったものなのだろうけれど、ギリシャ神話や北欧神話の多神教でさえも宗教に対するそれ程のおおらかさは見受けにくい。
日本では古代から幾度となく国家規模での思想遍歴はあるけれど、明治維新を境にして西洋の近代化を取り入れてゆく過程で一神教的思考が価値観の基準を占めるに至ったようだ。それによって民族特有の価値感覚としての“曖昧さ”は影を潜めてしまった。曖昧であるということは“いい加減である”ということで「良い按配(塩梅)」でもあるという事なのだが、西洋文化には理解されないこの感覚が失われた。そして例えば世間一般の「正義」という概念もそれに伴って変容した。曖昧さは排除され、はっきりとした明文化・法制化に頼る、言葉を変えれば社会の基準・権威に頼る気持ちが強くなった。世の中が成熟すれば様々な価値観の雑居で混乱し、統率が取れにくくなり精神的な不安定感が高じるのは当然なのだろう。


火の粉.jpg


日本には仏教思想の流れとして独特の「歎異抄」という善悪の捉え方がある。善悪というフィルターを通して実は人々の陥りやすい「善人ヅラ」というものを看破している。慈悲とか愛情とか口には出すけれど、エゴがある限り「他力本願」の真の意味を理解できず欺瞞のままで善意を垂れ流している輩が多くなってしまったのがこの国の今の様に思える。
そしてかつての様に偽りを戒める畏怖の念を与えるものが無くなって、怖いモノ知らずの民の住む社会となった。これを進歩と呼ぶのだろうか?

普遍的な基準を見失ったこの国が必要とするものは、“温故知新”の心意気で歴史を振り返って見い出す自分たちの素顔だろう。そしてかつて人々の心に生きていた「義侠心」という曖昧で不条理な正義感を呼び戻す事のように思える。
日本にはかつて「任侠」と呼ばれる超越的な正義感覚が存在していた。“かつて”と銘打つのは、現代ではヤクザも任侠もすっかり似非(エセ)になって地に落ちてしまったからだ。法や権力では及ばない“超越的正義”の存在を信じられる社会でなければ、人生に希望を持てない世の中になってしまうだろう。


※日本人の正義感「義侠心と任侠」の概念については改めて考察してみたい。


 


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パワーシフトと視点シフト [21世紀の種]

'90年代の初め頃だった様に覚えているが、アルビン・トフラーという学者が『パワー・シフト』という本を書いて話題になった。(※既に'80年代初頭に『第三の波』で著名になっていた)来るべき21世紀を迎えて、これまで19世紀から20世紀にかけての時代を動かして来た“力の源泉の変遷”を考察した内容だった。確かに彼の推測した通り、世界を動かす源泉はこれまでにはなかったインテリジェンス・パワーが発揮されるようになった。
'80年代に『メガトレンド』を上梓して世界のトレンド予測の先駆けとなっていたジョン・ネスビッツは世界がボーダレスになりテロの脅威に晒されることを予言していた。そしてその後出版された『Megatrends 2000』ではやはりパワーの源泉が移り変わり、新しいテクノロジー能力が発揮され始めると記されていた。(※21世紀型の宗教・文化・芸術がコアな部分を形づくる)

さて、世紀末には様々な未来予測が謳われ、21世紀の初めには同時多発テロや世界中で大規模な震災などもあって、大東亜戦争や関東大震災を経験していない私たちには波乱と混迷の時代の幕開けの様に思えたものだった。と、同時に何かパワーの根源が変わってゆくような予感もして期待感もあったように思う。
相変わらず中東は戦禍の歴史を続けているし、米露は過去の冷戦時代に戻りたがっているような気配だし…表面的には何も変わらない様子だが、果たして世界の裏側では何が動いているのだろうか…。

20世紀と比べて、確かにパワーはシフトを始めたように感じる。しかし日々の生活に生きる大多数の庶民にはそんな実感はなく、少しも良くならない生活だけが相変わらず窮迫しているのが現状である。一般に指導者と言われている人たちは人々の事など全く考えていないのであって、自分たちが良くなるための社会構造を変革したり構築したりしているだけの事なのだからそんな発想のアクションが人々に幸せをもたらす訳がない。
そしてこれからの時代、私たちに必要な発想は「視点シフト」なのだと考える。社会の運営をマジョリティ権力に頼って取り仕切られている限り、従属するマイノリティとしての立場が変わらないのなら、組み入れられた社会システムの中で視点を変える事が自由な発想を殺さず歩み始める手段ではないだろうか。

私たちは既に様々な形で固定観念として洗脳を受けて社会を生きている。どこまで行っても管理統制された“1984的社会”の影響から逃れられない限り、自分らしい主体性を持って生きるには視点をシフトさせて新しい発見をしてゆく事が“始めの一歩”なのではないだろうかと考える。「視点を移すアクションは『知の革命』なのだ」

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プログラミングが小学校の教科になる [21世紀の種]

2020年から小学生の必修科目として「プログラミング教育」が加わるらしいです。
その為の事前アプローチなのか、文部科学省ホームページで『きみの絵をうごかそう!プログラミン』という面白いツールが公開されています。

プログラミン画面.jpg

さっそく私も使ってみました。
なかなか使いやすくて楽しくプログラミングの「基本的な考え方」が学べます。
文部科学省もスマートなコンテンツを提供してくれるものですね。

イヌやネコの絵が上下左右に動いたり回転したり、スピードも細かく調整できて思い通りに動かせます。
左右反転とか拡大縮小などもプログラミングで自在に指示が出来て、楽しく学べます。

とりあえず簡単なものを作って「保存」しました。途中から再開できるところが嬉しいです。

プログラミン作成画面.jpg 

慣れてくるとあれこれと効果を指示して付け加えたくなるものです。こうやってプログラミングの基本的なルールを身につけてゆくことが出来ます。

動画で使い方の説明もあります。将来の子ども達には英語学習と同じ様な感覚でプログラミングをコミュニケーション・スキルとなるのでしょうね。

こちらはワールドワイドに普及されている、ご存知 『Scratch』です。
海外でも多くの学校で採用されているらしく、世界の子ども達が作品をシェアしたりして交流をしているようです。

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国産の『プログラミン』と比べて、よりきめの細かい仕様になっています。
キャラクターも自分で作れるようになっていて、好みのカスタマイズが可能なものになっています。
「繰り返し模様」や「ジャンピング動画」「自動演奏装置」といったプログラミングはそれぞれ算数・理科・音楽などの教科と組み合わせて使えるようになっています。

こちらが作成画面。私もあれこれテストしてみました。
この『Scratch』も作業を一旦中止して保存しておくことが出来るので便利です。
慣れて来たら豊富に準備されているプログラム・タグを設定して、自分の作った物語やゲームをシェアしてみたい気持ちになりますね。

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『Scratch』はイギリスのミッチェル・レズニック教授とその仲間たちが開発したコンテンツで、NPO「Scratch財団」が普及推進を支援しています。

子どものプログラミング教育普及の発端となったのはフィンランドの先進的な教育メソッドです。
自分たちのツールを使って自主的に考え取り組んでゆく姿には学ぶべき点が多々あります。
次世代の子ども達への教育の在り方は日本でも変わりつつあるように思います。変わらなければこの国は過酷な未来を迎える事になってしまいます。

2020年から採用される「プログラミング教育」が我が国ではどのような成果をみせるのか、21世紀に蒔かれる種のひとつと言えるでしょう。

 


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時代の表層~権力構造だけが引き継がれている [21世紀の種]

過去のブログを眺めていたら、2009年にこんな事を書いていた。
大体において過去の自分の文章を読んでいると愚かしさばかりが目に付くものだが、時代に流される自己の変化を確認する意味としては面白い。_______________ 

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 21世紀になって最大の不況が押し寄せている。他の国々の状況は実際のところは分からないが、少なくともアメリカと日本は揃って経済不況のようだ。
 日本では20世紀の最後の10年でバブルが崩壊し、低成長と困窮の中で21世紀が始まった。本来ならここで従来の価値観を見直して思考チェンジをしなければならないところだったのだが、チェンジの苦手な日本国家は相変わらずの報奨を追い求めながら10年間を過ごしてしまった。そしてその結果が全国的大不況だ。

 20世紀は大不況から世界大戦が始まり、それが世界を変え20世紀の後半を形成していった。21世紀初めのこの世界経済の行き詰まりも、きっと新しい思考を発見し新しい世界を形成するための「生みの苦しみ」となることだろうと思う。
 世界を救う新しい思考、新しい価値観とは何だろう?
 私が思うのは、見直すべきは少なくともこれまで光の当たってこなかった発想であり、非現実的と一蹴されてきた事柄にヒントはあるということである。

 21世紀には「宇宙次元」と「人間の未開発部分」として、いよいよ「四次元」と「第六感」が真面目に検討されるような気がする。
 次元を超える事。そして第六感を働かせる事。これによって21世紀は生まれ変わる。

___________________________2009年2月20日・記

☆ 

未開発の部分が着手されることによって新しい方向性が示される…と、まあこんな意味のような事を考えていたらしいのだが、果たして現実は理屈どおりに展開するものなのだろうか?

ひとことで言ってしまえば、人類はその歴史が始まって以来いまだにその野望の構造は変わっていない。人類は誰が地球上の世界を支配するかを延々と企て続けている。

何を基準にどのように世界をコントロール支配出来るか?それが世界のトップを自負する者たちの中心課題であり、そのための様々な方策が行政という形でオペレーションされる。

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手を変え品を変え、それでも世界はバチカンという大きな権威とロスチャイルドの影響下にあるように、そしてこの日本はいまだに日本書紀のディレクター藤原不比等(藤原家)の末裔の影響下にあるように、歴史は奥深い権力構造を引き継ぎながらその目的を遂行する。


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宇宙は大きな合わせ鏡… [21世紀の種]

「宇宙は大きな合わせ鏡のようなものである」…というのは私の勝手な想像なのだが、ともあれ21世紀前半はこれまでの歴史的視点から様々な問題定義がなされる機会とはなっても、新しいパラダイムを発見・構築するまでには至らないかも知れない。
とりあえず、自分たちの存在を宇宙という観点から客観視するに努めるところまでが限界で、それ以上は今世紀後半の人類に委ねることになるのでしょう。

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大きな合わせ鏡、または万華鏡(Kaleidoscope)のようなもの…それが私の中にある宇宙のイメージです。
何枚かの鏡を向き合わせて眺めてみると、どこまで行っても無限の世界が広がります。実際には有限の筈なんだけれど、どうしても無限としか捕らえ様のない世界。「有限の中に存在する無限世界」というのが矛盾するようだけれど、実はその感覚が宇宙の全体像を理解するポイントのように思えます。

今、天空に眺めている星々のいくつかは既にこの宇宙空間から消滅しているものでもあります。私たちの見ているものの中には残像のように“実体は無く既に消え去っているもの”も含まれています。
360° 鏡に覆われた空間にはたくさんの自分の分身が見えますが、本当に感じて確かめる事が出来るのは“ここで眺めている私という存在”のみです。(これが哲学者デカルトの言うところの「我思う故に我在り」という感覚ですね)

自分の外側に在ると考え・見ている宇宙も実は自分の内なる世界<脳の認知能力の世界>に取り込んで眺めている訳で、「宇宙とは内なる世界の反映されたもの」というのが人間の限界なのでしょう。
三次元に生きる人間にとっては、どんなに努力してみたところで宇宙の概念を自分を超えたところで理解することは出来ないのです。

宇宙の存在や時空の不思議、多次元の謎などの他に、人類はもっと緊急に対処しなければいけない問題をたくさん背負っています。
例えばクローン問題、エネルギー問題、人種と人口の問題などなど…。だから次元やら時空やらといったお遊びみたいに感じてしまうテーマにはさっさと結論を出して次に進めなくてはいけません。 

21世紀も後半になれば、もっと違う解答が見つかってくることでしょう。

 


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ミステリーサークルと宇宙の謎 [21世紀の種]

たまたまミステリーサークルの登場する映画を観ていて、唐突にミステリーサークルの存在を思い起こしていた。

一時期よく話題になった事があったが、今ではあまりその話しを聞かない。
人びとは、それについて何らかの結論を得たのだろうか?それとも他の多くの話題同様に、結局何も突き止めもせず迷宮入り、中途半端な好奇心だけ盛り上げて途中で引き返してくるような、まるで誰かの人生の生き方にも似た『未完結な行為』のひとつだったのだろうか?

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突っ込めば突っ込むほど、とんでもない(タブーな)方向へ行きそうだったので「結局は二人のイギリス人農夫のイタズラだった」という結論で終止符を打ったようだったが、実際にはそんなものではまだまだ解決出来ていない謎だらけなのである。
安易な結論でその疑問を締めくくろうとする画策にこそ要点が隠されている事を一般の私たちは悟るべきですね。為政者たちはいつの時代にももう少し先を論じているものなのですが。

ところで、宇宙とか時空に関しては私にもSFっぽい戯れ事のように思い浮かべる考えがある。
この「三次元においての宇宙」とは、そこに映った私たち自身を見ている“大きな合わせ鏡”のようなものなのではないだろうか?…そんな風に考えて何となく自分を納得させている。

よく物語などで語られる宇宙人の典型の多くは、昔から何故か地球を侵略したり人類と戦うパターンが多い。
未知のものを拒絶し恐れるという被害妄想的な傾向は生きもの本来の性質なのだろうが、人間の場合はもっと知的な傾向があって、自分たちの持つ邪悪さや救い難さを恐れるという部分がある。

そこで考えられるのは、“地球侵略を企てているように推測される宇宙人というのは、実は時空を越えて未来からやって来た人類自身の姿なのではないか?”という事。
人類は地球環境を破壊して宇宙の他の惑星に生存の道を求め開発に進んでいるが、それはもうひとつの地球に新たな活路を見出して移住しようとする試みであった。
宇宙的な観点から見れば、私たちは私たちの影に怯え、私たち自身と戦い、自分自身を克服しようとしているのである…なぁ~んてネ。

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天地創造 [21世紀の種]

営々と営まれてきた人間の歴史に於いて、様々なものが創造されてきたが、
それらの総体としての結果、どうしようもない毒も顕著化してきた。

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そもそも「社会」とは何なのだろう?人間が集まれば必然的に存在するものであろうが、何のために、どのような機能を期待されるものなのか?
誰のための誰にとって都合のよいものなのだろうか?

誕生・生命・自由・幸福・宗教・神仏・人間・死
そういった様々な概念のパラダイムを組み替える創造的発想が必要とされている。
私たちはこれまで一体何を学んできたのか?
人間の創造能力を活性化させて新たな天地創造が求められようとしている。
それは決して“ハルマゲドン”のような意味のものでも“ノアの方舟”でもなく、
誰かに扇動されるものでなく自己の内から生まれ出る「自然な生命の感情」である。

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まずは「経済発想から脱却できるかどうか?」「生命の営みをどのように理解・把握できるか?」
芸術家と呼ばれる者たちもその感性を生かして、再生と創造の概念を指し示す必要があるだろうと思う。

…だからこその芸術。与えられた天分と才能。
それぞれの世紀・時代によってその現れ方は違うだろうけれど、今21世紀における芸術のミッションは内面世界の探求から更に進めた、自己と外世界とのバランス・アプローチなのではないだろうか?

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『創造』とは決して、現状を破壊して作り上げるものではない。
全く新しいものなどという錯覚に溺れては誤ってしまう。
『創造』とは歴史を拾い集めて“新しい組み換えをバランス良く創り上げる”ことである。

平成21年5月・記

 

【沈黙の調べ】


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信じるということは諦めないということ [21世紀の種]

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ささやかで微弱なものたちからこの世界は成り立っている。そのひとつひとつに、その一人ひとりに存在の価値があり意味が在る。

時間は延々と受け継がれて流れている。若者たちはいずれ老熟と出会い、老いたる者はその命の中に若さの因果を背負う。
答えを早く知ることには何の意味も無い。自分が利口であることを証明したかっただけの人生なんて…一体何になるのだろう?

特別に強くもなく特別に利口でもないささやかな人間の命が、この世界に愛情の存在することを証明しようとしている。
それが人であり、それが私たちの“生きている喜びの証し”なのだと思う。

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いつの時代にも狂気はあり、どんな世界にも幻想はある。私たちにとって大切な事はその葛藤の中で、求め続ける事をあきらめずに自分の魂を売り渡さないことなのだと思う。

これからもたくさんの絶望と苦悩が待っているけれど、そこから顔を背けずに向かってゆくことでその先のものが見えてくる。
逃げたり逆行することで癒されることはないけれど、前を見据えて踏み止まっていれば時間の流れが癒してくれるものだ。

【21世紀の種】


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21世紀の基本課題 [21世紀の種]

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廃棄物の問題、それも核廃棄物の問題はこれから人類が延々と背負ってゆくことになる問題になりそうだ。
最終的に地球は廃棄物処理場になってしまって、人類は別の惑星に引っ越してしまうのだろうか?

『100,000年後の安全』を観てまず思ったことは、これが今世紀に起こる様々な問題の“基本的課題”になるという事だった。エネルギー利権の争奪戦は相変わらず続くだろうけれど、その副産物として核廃棄物の処理問題は脅威となって世界中に蔓延するに違いない。

20世紀には人々の中に「ユートピア論」なるものが存在して、未来に対して何らかの希望と可能性を論じる姿勢があったように思う。
しかしどうだろう、最近あまり「ユートピア」というコンセプトを耳にしない。もはや“死語”かと思えるほど、みんなの頭の中に無いように思える。次なるビジョンは一体何なのだろうか?

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【100,000年後の安全/trailer】


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新・Uターン現象 [21世紀の種]

40年近く前に、ヨーロッパ放浪中に出会った雑誌記者との語らいの中から生まれた言葉は“都の夢に挫折した若者が身の丈の価値を求めて故郷に戻る”心象を「原点回帰」という言葉に置き換えて、それがその後の『Uターン現象』という流行語を生み出すキッカケとなった。そして今、私は再びその言葉を口にする事になる。それは当時のような意味ではなく、どこまでも間違い続けるボタンの掛け違いをストップさせて、私たちが希望を持って生まれ出でた時代の感覚に戻す「リセット」…その意味である。

歴史は常に揺り動かしの流れで移り変わっているものだ。権力の構図もパワーシフトといった感じで移り変わるけれど、芸術や文化の領域でも「ルネッサンス」のような文芸復興という名目で古典・復古に戻る時代もある。近年流行のレトロ・ブームもその類いで、人々の心も遡(さかのぼ)ろうとしている。

どこまでも永久に一方向に進む、という事はあり得ないと考えるのがこの世界の常識だろう。無限というものを感知できないのがこの世の中なのだから、永久に栄え続けるという事もあり得ない。
それに人間というものは、退屈しやすく疑いやすく天の邪鬼なものだから、一方的な方向には進み続けて行かないものらしい。幸福になりたいと言うくせに、幸福には埋もれたくない等と野暮な事を言う場合だってある。

ここまで「Uターン現象」というテーマで展開してきたが、よくよく考えてみれば、もうその発想はこれからの時代にはそぐわないのかも知れない。…と思うようになってきた。
これまでは三次元的発想で“現在・過去・未来”を眺めていたが、21世紀後半にはきっと四次元または多次元的発想ですべてが語られるようになるだろうと思う。「Uターン」という発想も直線的に過去に回帰するというものではなく、大きな螺旋の渦のようなもので“元へ戻るフリをして実は全然違ったステージに移動している”そんな発想と運動(ムーブメント)を発見することになる。

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これまでの歴史を築いてきた先輩たちには敬意を表するけれど、その発想だけで今後の課題は解決出来ないことは明白である。過去の発想の延長をどこまで続けても、残念ながらこれまで体験した事のない事柄には対処できないものだ。
原理原則に立ち返って、ボタンの掛け違いを訂正して新しく再スタートする。そして発想は「線ではなく面である事」
“過去よりも現在、現在よりも未来が進歩している”などという直線的な時間感覚を脱却して、“現在も過去も未来も、同時に混在している”というグローバル感覚を身に付ければ…多くの間違いを訂正できるチャンスがある。

【伝説 Legend 】


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退化ではなく… [21世紀の種]

 40年近く前に、ヨーロッパ放浪中に出会った雑誌記者との語らいの中で“都の夢に挫折した若者が身の丈の価値を求めて故郷に戻る”心象を表した「原点回帰」という言葉が出て、それがその後に『Uターン現象』という流行語を生み出すキッカケとなった。(更にそれは旧・国鉄のキャンペーン『ディスカバー・ジャパン』のコンセプトに発展してゆく)
 そして今、私は再びその言葉を口にする事になる。それは当時のような「胎内に帰る~帰郷~休息」の意味ではなく、高々と積み上げたバベルの塔を崩して、どこまでも間違い続けるボタンの掛け違いをストップさせて、私たちが希望を持って生まれ出でた時代の感覚に戻すこと…その意味である。

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<砂の流れ>

 私たちはこれからももっと科学を進歩させてゆくことだろう。ガンも克服し、寿命もさらに延びて、人間は月にさえ暮らす事になるだろう。…しかし。
 それはすべての人たちに与えられる機会ではない。高度に前進すればするほど、そこには大きな格差が生まれる。その格差とは平等な機会均等から生まれた競争ではなく、あらかじめ申し合わされた選別によって生まれる格差なのだ。残念ながら今の人間社会は、それ程お人好しには出来ていない。

あなたはそれでも、もっと世界の進歩を望みますか?もっともっと遠くへ行きたいですか?
ときどき「世界中の戦争がなくなって平和で幸福になる事」を“進歩”であると表現する人がいるけれど、それは本当だろうか?進歩というのは開発したり進化したりして、どんどん新しくなってゆく事象のことだが、平和や幸福の概念はそんな科学的創造物とは違う。


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種は芽となり花となる。 [21世紀の種]

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<21世紀の種-TN110108>

種は眼となり鼻となる…否、芽となり花となる。

種は魂の凝縮。そしてそれは時を超え場所を越えて復活の息吹を上げる。

種に宿った魂は生命の穀物となって昇華する。

今、世界は苦しみの渦の中に突入しようとしている。
政治がどうだとか経済がどうだとか言う問題ではなく
人間の宿命的な災難として避ける訳にはいかないものだろう。

しかし、恐れていてはいけない。
恐怖でみずからを放棄してしまってはいけない。
これは“産みの苦しみ”でもあるからだ。

この痛みと苦しみの代償として
奇跡の世界は出現する事になるだろう。

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【Say you Say me】


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糸川英夫博士にエールを贈る [21世紀の種]

’60年代の超ベストセラー「逆転の発想」は、今で言う“流行語大賞”になって一世を風靡した。日本人に“発想の転換”というコンセプトを与えたのが、この本の著者・糸川英夫博士であった。これをキッカケに、日本の一般大衆は“水平思考”とか“マルチ思考”とか様々な発想技法に興味を示してゆく。

私がこの三部作の本を読んだのは’80年代に入ってからであったが、そこで初めて糸川博士が太平洋戦争での戦闘機『隼』の設計者であり、日本のロケット開発のリーダーであり、かつヴァイオリン研究者でもあった事を知り、私の数少ない尊敬する人物の中の一人となった。

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この糸川博士は今日の私たちに様々な素晴らしい提案をしてくれていたが、その最後の著作となったものが『21世紀への遺言』であった。(正確には最後という訳ではないが、メッセージ内容としての意味合いで)
「逆転の発想」から40年…その本の中で糸川博士は私たちに、組織工学で言うところの「デセンター発想」を提言してくれていた。社会の構造を破壊するのではなく、新しくバイパスを構築する、これまで中心にあったものを移動させるという発想。

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理数系物理工学の博士の発想であり、単に時代の気分や雰囲気で語っている解説ではないからこそ拝聴に値する。私が糸川博士を尊敬するひとつの要因は“アーチストの資質”を持っている人物であったからなのだ。工学博士でも医学者でも軍人であっても、画家や音楽家と共有する“芸術性”は発見される事がある…と私は思っている。
そういった観点からも、21世紀的観点からも、私は改めて糸川英夫博士にエールを贈りたい。そして小惑星イトカワの存在は21世紀の世界に大きな貢献をするかも知れないと感じている。

 


21世紀型勝者の競争理論 [21世紀の種]

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新しい競争理論に沿った21世紀型ゲームを生み出して欲しいですね。
ゲーム的思考には時として、哲学をシミュレーションするような深い意味と価値があるような気がします。

例えば私の考えるゲームの競争理論は「アベレージ主義」というコンセプト。
これは、最高でも最低でもなくその中間点(平均点)こそが勝利者という考え方です。
スピード競争に置き換えるなら、レースの平均タイムに一番近い者が勝者となる。早すぎても駄目、遅くても駄目。意識せずに普通に走って、最終的に全てのラップタイムが出揃ってから算出されて初めて勝者が誰だったのかが分かる…という具合。スリルというものは全く無いようですけど(笑)

世界にとって本当に必要な事は何なのか?
…という事を考えるヒントになるような競技だと思うのですが
はっきり言って、ウケませんね確実に(苦笑)
ヒトはやはり「ワクワク・ドキドキ」が好きなんでしょうか?


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死を食べる-アニマルアイズ