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私流カミングアウト(12)~自己形成を越えて [私流カミングアウト]

今日の私の生き様は、生まれてから幾多の因果が連鎖して影響し合ってきた結果の様に思える。そしてそれらもまた、父母や祖父母からのDNAを何らかの形で受け継いでいて、逃れる事の出来ない輪廻の様な大きな定めに置かれているのかも知れない。

思い起こしてみれば実に様々な事象の流れの中の人生ではあったが、それらを経て還暦を越えて現在に至っている。この先に何が待っているのかまだ確信はないが、かすかな予感を感じながら明日の夢に微睡んでいる。

黒の時代_雨の中.jpg

このブログを通して、私は自分の生い立ちからこれまでの人生で拾った様々な記憶の欠片を、時には懐かしみ時には検証するかのように綴ってきた。そしてそれらの中で確信したのは「私にとって人生と云うものは、歴史の大きな流れの中にある生き様のひとつに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない」という事であった。

幼い頃、名前の由来を尋ねた時に「家の後継者として久しく受継ぐ」意味を込めて命名したと聞かされていて “祖先からの家系を受け継ぎ子孫に繋げる”という意識が使命であるかのように埋め込まれていた様に思う。青年期も成人しても、そして中年になってもその意識が残っていて時にはその葛藤に苦しむことさえあった。娘二人が嫁ぎ、ついに自分の代で家系が絶える事を覚悟した時に、当時存命中だった父親の前で許しを請うたものだった。
そんな意識で生きてきた者にしか分からない感情だが、くだらない様でいてもそれは意外と長く尾を引いていい歳をした年齢になっても続いていたものだ。自己形成は様々な要因が絡み合って自分の意図とは全く別に形成されてゆくものなのだろうが、自分を形成して来た要因を改めて振り返ることによって “自分自身を書き直す”という発想を持っても良い様に思える。

人間というものは所詮ひとりでは生きてゆけないものだ。否応なく他人との関係性の中で自分を知ることになる。生きている限りは逃れることは出来ない。そして生きるということは残酷にも他人に寄生することで命を頂く場合も多い。
世間のしがらみや社会への隷属が嫌で、時には「無頼」を口にするが…そんな私は不甲斐なく誰かのお世話になって今日も生きている(苦笑)ここまで生きてきた “自分を形成して来たもの”を越えて、自分の望むままに生きてみたいと思ったりもするが…この世で生きる限り、それは理に反する事なのかも知れない。

自己を形成してきたものを越えて、無頼漢に生きることは夢のまた夢なのだろう。

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