SSブログ

私流カミングアウト(8)~二人の姉の話 前編 [私流カミングアウト]

 私流カミングアウトとは、未来に向かって建設的でも前向きでもない告白をそろそろ終焉が見えかけてきた人生を総括するという趣向でつけたものだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

二人の姉の事を書いてみようかと思った。理由はいくつかあるのだが、ひとつは彼女たちの人生を総括して改めて私との関係を書き記しておきたいという事だ。
それぞれが和歌山と名古屋、そして私は三重という風に離れて暮らしているが実に良好な関係を続けている。ここ五年程は会っていないが、それまでは会うことも多かった。特に姉同士は互いの中間地点「大阪」に出てよく会っていたらしい。
他所の家の事は知らないが、こんなにも仲の良い兄弟姉妹はそれぞれの育った境遇や育ての親の存在が影響している様に思う。姉たちはどちらも母親は実の母ではない。それぞれ父親は同じなのだが母親は違っている。そして育てられた母親は私にとっては実の母なのだが、その母にしても複雑な境遇で、両親は居なくて叔母に育てられたという。そして父親は三度の結婚で私の母が三人目という事になる。
そんな複雑な関係で、当時は殴り合いの親子喧嘩、姉弟喧嘩のいざこざが日常茶飯事で私は変な家族だと思っていたが、今にして思えばその露骨なぶつかり合いが良かったのかも知れない。取り繕った家族関係の多い現代では考え難いが、人間の繋がりのひとつの真相を知る様な気がする。

上の姉は私よりも14歳も年上だ。私はあまりよく覚えていないのだが幼少の頃は学生だった彼女によく世話をしてもらっていたらしい。私の記憶に彼女が登場するのは社会人になって女優志願で東京に出て行ってからの事であるが、私が小学校に上がる少し前5~6才の幼稚園児だった頃に都会の空気を漂わせて帰って来る姉が何んとも誇らしげで憧れたものだった。田舎では見かけない様な幅広く開いた落下傘スカートにパラソルを身に付けて、かなり場違いな浮いたファッションで登場するのだった。そしてその派手な装いと共に当時地方では手に入らなかった銀座「不二家」のケーキやパイを運んでくるのを私と次女は首を長くして待っていた。

落下傘スカート.jpg
 ↑ 昭和30年代に流行った落下傘スカート

女優修業時代のエピソードを語り始めると一冊の本が出来るくらいで切りがないので別の機会に譲るが、大映の俳優養成所で過ごした後は沢村貞子や初代・中村扇雀の付き人をするなどして映画にもエキストラ程度で数本出演したようだ。なかなか陽の目を見ずに悶々としていた時に撮影所に遊びに来ていた男と仲良くなって、結局普通の結婚をして青春時代の夢は消え去った。
かをり写真.jpg彼女は夢は叶わなかったものの充分自由に生きて、
やりたい事をやって来れたのだと思う。特に7歳下の次女が家に縛られて苦労の青春時代を送った事と比べれば、羨ましがられるのは当然だろう。

“事実は小説より奇なり”人の一生はドラマチックで時には深く考えさせられるものだ。華やかな青春時代とは真逆で、結婚してからの彼女の人生は辛酸を舐める苦労の連続だった。嫁いだ先が封建的な土地柄と家風もあって、心にロマンチックな夢を見ながら育った彼女には過酷なほどの環境だった。負けず嫌いで人一倍働き者だった彼女は妊娠中でも魚市場で男に混ざって重労働をする事もあった。
結婚してから幸せに恵まれた妹とは正反対の人生だったが、不思議なものでその子どもは成長して倉本聰主宰の「富良野塾」に入り、俳優を目指す人生を歩み始めた。女優の夢は叶わなかったけれど、息子が役者の世界に入った事はやはり“血の為せる技”なのだろうかと思ってしまう。

今年80歳で沢山の病を背負っている彼女は後何年生きられるだろうか?今でも姉弟の中で一番我が家の事を気に掛けて、長女の気質を持っている女性だ。


nice!(20) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 20

Facebook コメント

死を食べる-アニマルアイズ