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小説「ゼロの告白」/第五章 [小説「ゼロの告白」]

【ゼロの告白/第五章~ライク・ア・ローリング・ストーン】

 人生は一度切り、どう生きるかによって答えは決まる。生まれながらにして器量や才能を持ち合わせていたり、財や富といった境遇に恵まれて人生の成功を約束されているような者を運命論的で決めつけるのも勝手だが、未知への冒険を恐れない者ならそんな考えには落ち着かないだろう。

 つまり世の中や人生を悲観的な諦めた気持ちで投げやりに生きることは勇気を失った生き方という事だ。この男の場合も何度か人生を投げ出そうとしたことがあった。生きることを放棄する、そんな気持ちになって引き篭もった事もあった。しかしその度に何かをリセットして振出しに戻り、新しい目標を掲げて歩み始めるのだった。

駅舎.jpg 

 無一文で夜行列車に飛び乗り東京にたどり着いた男には失うものは何も無かった。訳も分からず怪しげな求人募集に食いついて気がつけば風俗店の住み込み店員の職に就いていた。風俗店の一員として勤めていたのは一年足らずだったが、そこで働く女性たちとは仲良く働けた。出入りするヤクザの幹部たちも懇意にしてくれて“自分はこの世界に向いているのかも…”と思うこともあった。
 この頃の男は何に対しても貪欲に吸収する欲求があるだけで、だからこそ何に対しても不満を感じることが無かったようだ。どんな処遇を受けてもどんな環境に置かれても、まるでそれを楽しんでいるかのようにさえ見えるある種の不敵さを持っていた。幼児期から大人たちの間を転々と順応を強いられて過ごしてきた少年時代は、彼にいつ如何なる時も場に溶け込んでその中核を掴む才能を磨いてくれたようだった。

 

 少し貯まった所持金を基に東京に戻って生活を始めたのだが、思い起こしてみればそれからの数年間は仕事を変わったり引っ越しをしたりと落ち着かない日々を過ごしていた。どうやら自分は根っからの風来坊なんじゃないか?と思った事もあったが、そんな根なし草の様な生活が体中に染みついてゆく時期でもあったようだ。
 まるで流れ者の様な気分で毎日を生きていた事もあった。青春を過ごした’60年代から’70年代にかけては時代そのものが流動的な感覚の時代だった事もある。生まれて来るものの全てが新鮮な価値として受け入れられた時代。何もかもがどんどん蓄積して後の飽食の時代に突き進む時代とも言えた。

 あらゆるものを吸収して肥大化する自己と自意識。気が付けばベーシックでシンプルな筈のアイデンティティが見栄と欲望の潜んだ極彩色の伏魔殿になっているという、一見前向きな輝かしい成長が実はとんでもない破滅への行進だったという事を覚った人がどれほどいた事だろうか。留まらない時代の奔流の中で、本来は無垢な“ゼロ”だった意識を自覚する事は難しいものだった。人間は成長と共に高慢になってゆくものなのだろうか。
 「ローリング・ストーン」という言葉が、イギリスのロックバンド名のみならず、いたるところで叫ばれていた時代でもあった。新しい時代に向かって混迷の続く状況に、未来の成り上がりをめざして若者たちがハングリーである事を誇らしげに掲げた時代…。都会に佇むこの男もゼロからの脱却を心に決めていた時期でもあった。

流砂.jpg

 風俗店で働いた後にも様々な仕事を転々とした。昭和50年代、まだフリーターという言葉は生まれていなくて、定職に就かない生き方は社会人として否定されていた。怠けて生きたいなんて考えているわけではない。自分なりに何とか自立してゆきたいと考えている。それなのに世の中というヤツは“無職者、風来坊”のレッテルを貼って自由気ままに見える生活を人間性の欠陥として否定する。
 “ゼロである事”を否定されることは、虚偽の自分を構築してさも価値があるかのような振る舞いを要求される事でもある。社会が嘘とでっち上げを要求しているのだ。流れる石のように揉まれながら生きる若者の幾らかは、そんな世の中の巧妙な仕掛けに気づいて裏社会に足を踏み込む者も現われる始末だった。

<続く>

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<この物語は「一人の男が自己に内在するマイノリティと対峙しながら成長してゆく」といった自伝的フィクションですが、無計画に執筆を始めたもので進行具合も遅く、今後の展開はあくまで未定です。あらかじめご承知おき下さい>


 

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