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開眼還暦世代 [人生描画譚]

 

還暦というのは人としてひとつの時代を生き切って、次の異次元に向かう一種の扉のようなものではないのだろうか?…と、そんなふうに考えてみた。
私の中の世界観(宇宙観)では、存在する生命エネルギーは離合集散バランスの変動はあるが全体量としては常に一定で変わらないという感じで捉えている。
例えば人の肉体に魂が宿り人間社会を生きてゆく訳だが、死を迎えて肉体が滅して魂がエネルギー分解されたとしても、“まったくの無”に帰するわけではないと思っているからだ。

人生の終焉を意識し始めて、初めてこの世に生を受けた事の重みを感じることとなった。 
私が個人的な経験を通して辿りついたまったく個人的な見解であり、決して唯一絶対的な真実であるなどとは言わないが…しかし私は私個人の胸の中で断言する。
「私の魂は私の死によって終わるものではない。」
「私という存在は無くなるけれど、死とは魂が私個人の所有から解放される事なのだ。」

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還暦とは“開眼の機会だ”というふうに理解できるようになった。

人は生まれてから、ほとんど不本意な生き方を強いられて生きる。
様々なしがらみもあれば、不遇な環境に生まれる事もある。
人の一生というものがそういった宿命を含んでいるのだろう。
しかし世間から一歩距離を置いて生きる“隠居生活”に入れば、そういった諸々の拘束から解放された視点を持つことが可能になってくる。

出家という形式をとらなくても、己が囚われている社会通念の枠を取り外すことで魂の解放は出来る。
還暦とは社会通念から一歩退いて、大局的に自己を眺める良い機会、人生における唯一生き直しの機会なのだと思う。
この時期に目を覚まさなければ、人生を知らずして自己を終わることになる。

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偶然と必然のコラボレーション。それが人生ではないだろうか。
…そういった諸々の事柄も、頭脳だけでなく身をもって全霊で自覚出来るようになった。
頭脳を超えた理解と把握、これも一旦人生を締めくくり「還暦」を経た境遇だからこそ得られる感覚のように思える。

自分の能力や意志で物事が叶う訳ではない。
学ぶ事は必要かも知れないが、努力に比例して能力が得られる訳でもない。
自分の存在を無視して無関係に起こる様々な偶然を受け入れる覚悟がなければ
“偶然と必然の綴れ織り”のような人生模様を描くことは出来ない。

         ☆

…そういった諸々の悟りは、これからを生きてゆこうとしている青年たちにとっては無用であり、時として有害でさえある。
私は未来に希望を託して未開の領域を開こうと考える人たちに、年寄りの訳知り顔で道を諭す事は間違っていると思っている。
還暦を経た者の覚醒は、それより先の人生を生きることに於いてのみ有効な悟りなのである。

剣豪・宮本武蔵は60歳を過ぎてから思い立ち、九州・熊本の霊厳洞に入って「五輪書」を執筆したという。
私も宮本武蔵に倣って、人生から学んだ個人史として「還暦・五輪の書」でも記してみたいと思っている。

 

『還暦世代』の章~了> 

 

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