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/還暦百態物語/五:断崖にて [押入倉庫B]

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◆第五話「断崖にて」


 高台に車を止めてゆっくりと車外に出た。目の前に広がる景色を見下ろして、深呼吸をひとつすると私は一歩足を踏み出した。ドライブロードから離れた林道を入ってしばらく傾斜を登ってゆくと目の前には澄み切った視界が開けていた。
 かつて一度、四〇代の頃に同じ様な情景を見たことがある。返せそうもない借金を抱えて首が回らなくなっていた頃だ。バブルの崩壊と共に会社経営が破綻してそれまでの借財が一気に圧し掛かってきて、自分のすべてに自信を喪失した状態だった。その後、生活を持ち直して何とか今日までやって来れたのだが、あの頃の苦しみをここに来て思い出してしまった。


 辛かった筈の思い出だが、今になってみればどん底を這い上がってここまで来ることの出来た奇跡に人生の妙味を感じる。還暦の赤いチャンチャンコ袢纏で祝ってもらってから5年が過ぎたが今でも人生の不思議は解けないでいる。ある意味でこれまで生きてこれた訳は、その不思議に対して好奇心があったからだろう。「もっと、こうしたい」「この先どうなるのだろう」そういった目先に対する期待と願望があったから、まだこの先を読みたいと思って生き続けてこれたのだろう。そんな事に気づいたのはこの岬に立った半時間ほど前のことだった。
 ふと机の上の置手紙の事が頭に浮かんだ。昨晩思いのままに書きなぐった様な内容だったが、果たしてあれで自分の気持ちは伝わるだろうか?この世に未練はないが誤解されたままでこの世を去るのは嫌な気持ちだ。この断崖に立って今まさに自分の命を絶とうとしているのは、生活苦から逃れるための過去の心境とは全く違うものである事を理解してほしいというのが正直なところだ。私がどのような心境でこの世を去ろうとしているのか、どのような理由で死の選択をしたのか…全ては無理であっても多少の説明はしておきたい気持ちがある。


 隣の芝生は青く見えるという言葉があるが、自由気ままに生きて富を得て少しの心配事も無い生活を送るということが贅沢な幸せであるかのように、多くの人たちはやや嫉妬心も交えながらそう見ているようだ。しかし当事者の気持ちというものはそう単純なものでもない。現に私は周囲の人たちに羨ましがられて生きてきたが、それも中年の頃までで人生の後半はただ退屈な苦痛の連続だった。
 苦痛の原因を他人のせいにすることも出来ない。他人を恨むことも憎むことも無意味に感じてしまう。諸悪の根源を自分以外の者のせいに出来ないやり場のない苦しさは“金銭的な裕福さとは全く無関係”である事を世の“足りるを知らぬ人たち”は分かっていない。
 かつて親交のあったミュージシャンが自殺をした時、私は「何とわがままな」と思った事を思い出す。日本のフォークグループとしていくつものヒット曲を発表した後に、作曲家に転向した彼は他のミュージシャンとは一線を画して異彩を放つ才能の持ち主だった。しかし妥協を許さない創作魂はその才能が枯れたと感じた時に、自分の存在価値を認められずこの世を去る事でしか道が見つからなかったらしい。そんな説明を聞いても当時の私にはその深刻さは過剰にしか思えず、自分には理解出来ない感性のように思ったものだったが。今、断崖の淵に立っている私はその彼の苦悩の少しを共有しているように思える。多少なりとも世の中で成功を収めた人間がその世界で“枯れ”を悟ったときどれ程の虚勢を張り続けて生きてゆくのか…私にとってはとても認められない生き方なのだ。


 この世に生まれ出て虚と実の狭間で流されながら、富と名声を得ることが成功だと教えられてそれを実現したところで、いつか枯れ往く終焉を迎えた時には過去の栄光の日々でしかない。棚に並べられたトロフィーやアルバムの記念写真を誇示したところで、もはや役には立たず用のない存在でしかないのが現実だと思い知らされる。誰のためにもなっていない。誰からも求められない存在でいる事が如何に耐えがたいものかを、知ることのない人こそ幸せな人と言えるだろう。
 世の中は人権とか福祉とかの概念で人の命をさも大事にしている様に装っているが、その実役に立たない者は上手に排除しようとするシステムが働いている。一旦社会から役立たずの烙印を押されて商品価値のない人間になってしまうと、ただ社会に従属して寄生して生きる人格を失った生きものになってしまう。カフカの小説に出てくる虫に変身した男ではないが、アイデンティティの喪失感に苛まれた残りの人生…それが今ここに立っている私だった。


 高台に止めたままの車に向かって歩き始めた。苦しみに決着をつけるために自死を選んだ筈の私だったが、ふと自分の外の世界に目をやった刹那に迷いが生まれてしまった。自分の行いがどの様に評価されるかはどうでも構わない。ただ自分の気持ちや考えを正確に伝えて理解されたいという気持ちだけが心残りとなっている。これを未練と言うのだろうか、死ぬと決意しても死に切れない人間はこの様にしてずるずると生き延びてしまうのだろう。
 死に向かう気持ちと生に甦る気持ち、それらの切り替えは一瞬の出来事として決定されてしまう。喜びも苦しみも一瞬の感覚の中で流れてゆく…


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