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[覚書]我思う故に我在り/2010 [【アーカイブ】]

◆このブログを再開して四年が過ぎた。初めは、ただ何となく…次に作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見することもあった。
◆これまでの思いつきメモの2010年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。

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花は何のために美しく咲くのか…

花の蜜は何のために甘いのか…

花の蜜は種を運ぶ虫たちのために甘く
その姿は人のために美しい。

そして花は何のためでもなく咲き伝える…

<2010年1月>

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【川辺】

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形を留めようとするな。

…出来るかな?

瞬時の美を凍結させるよりも

美しく朽ち果てる様を受け入れよ。

…出来るかな?

即ち、形を成して留めようとするな。

真実の姿とは形の無い姿である。

絶対なる永遠とは流れ続けて留まらない事である。

全ては未完成であり永久に完成の時はやって来ないものなのだ。

だから未完を愛せないものは…永久に愛を知らずに終わる。

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完全などというものは無く、完成などというものも無い。永久なるものは未完成であり、答えのないものこそが絶対なのだと思う。
だから不備というものを、不具というものを侮ってはいけない。
人間は愚かにも完全な答えを求め、全てが揃うことを“優れたもの”と考えるから…何も得られずに空虚な生き物になってしまう。

<2010年2月>

半月間程の治療入院から退院をして自宅に戻ってきた。2年前に続き2度目の入院だった。今回は診察にかかった時点で、血糖値が580、ヘモグロビンA1Cは14,5という前回以上に危機的状況だったようだ。
ここに至るまでには“のどが渇き、視力が著しく衰える”“唾液が出ずに満足な食事が出来ない”“体重が
10キロ落ちて顔面が痩せこける”などなど自覚症状はあったのだが、我慢してやり過ごすだけで対処をしてこなかった事が結局、悪化の一途を辿った訳だ。…わかっちゃいるけど、ねぇ。
糖尿という病気は完治するという事はないらしい。代謝のバランス・コントロールによって一見治まったように見えているだけで、自己管理を放置すればいつでも安定ラインを突破して、二度とは戻れぬ恐怖の「合併症」という世界に突入してしまう。ここに入り込んでしまうと、それはもう笑っていられない生き地獄を味わう事になる。私ももう少し遅ければ“昏睡状態”や“失明の危機”だったようだ。
点滴を両腕に射つなどして緊急処置でとりあえず難をのがれたが、今回の入院は私にとって最後通牒を突きつけられたようなものだった。

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<病室はお隣がカーテンで仕切られているだけの6人部屋でした>

<2010年4月>

 退院してから初めての検診をしてもらった。摂生をした甲斐あってヘモグロビンA1Cの数値はほぼ目標に近い6.2%だった。入院した時の14.5が如何に異常であったかがわかる。数値がそこまでいくと身体がどの様な状態になるのか痛いほどよくわかったが、糖尿病の困ったところは「痛み」や「苦しみ」がほとんど感じられないまま、ほぼ最終状態まで進行してしまうところにある。気付いた時には遅すぎたというケースが実に多い病気のひとつだ。

 一度糖尿病になってしまうと完治する事はまず無いと言われている。その事が糖尿病と診断された人が落胆してしまう最たる理由のようだ。常に恐ろしい合併症と向かい合わねばならないと考えると、まるで牢屋に入れられた終身刑の身であるかのように感じてしまうのだろう。
 しかし見方を変えれば、これは実に「生きるチャンス」なのだ。右の高血糖に片寄っても左の低血糖に片寄っても危険な方向に向かってゆく、常にバランスを取りながらの生活は…まさに生きてゆくための実地トレーニングをしているようなもので、ボサ~っと生きて知らない間に死に直面してしまうよりは、ずっと価値ある生き方が出来るように思える。

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昔の写真に色を着けていたら、なんだかSFっぽい雰囲気になってしまった。

<2010年6月>

人権に関わる仕事に就くようになって、改めて自分に課せられたテーマが再発見できた。それは「マイノリティという存在の価値」である。
考えてみれば、幼い頃から私が自主的に、または運命的に直面してきたものは、マイノリティそのものであった事に気付いたのである。

◆力の有無や強弱で結果が変わる事においては認められる(弱者救済の思想は、また別課題として考慮される)しかし、数の理論(多い少ない)によって有利不利の差別を受ける事は是認されるものではない。

     勝負に敗れた者にも生存の権利を与えること。これが基本的ルールであろう。それはリベンジの機会を与えることになるかも知れない。しかし、それを恐れて根絶やしを画策し完膚なきまでに抹殺するのが前近代的な考え方だった。

     表の歴史は勝者によって作られる。ならばマイノリティの生き様はどのように伝えられるというのか?

     民主主義(デモクラシー)の原則は「多数決の理論」のように言われているけれど、それは大きな間違いである。本来の民主主義とはマイノリティを受け入れる事である。


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こどもの頃には空の向こうに遥か大きなものの存在を感じたものでしたね~

<2010年7月>

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長く生きていれば、そりゃあ争いに巻き込まれ傷つく事もあるだろうさ。自分の気持ちとは裏腹な場面に遭遇して、すっかりボロボロになってしまう事だってあるさ。しかし、ね…それでもなんとか生きていれば、きっと何処かにたどり着いて、何かいい道を見つける事だってある。そしてその時に言うのさ…「この傷跡が生きてきた勲章なんだ」って。

☆☆☆

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戦争の焼け跡をさまよう…狂気が去った後の虚脱感
小説の挿絵風に描いた絵です

瓦礫の中を飛び出して、たくましく“そして優しく”生きる…そんな生き様を絵にしてみたいですね。

<2010年9月>

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強い人と弱い人の2種類があるのではなくて、強さと弱さはひとりの人間の中にある。
人には誰にでも弱さがあって、悔しいことや悲しいことがあります。
違いは、それをどう表現するかです。

いつも泣いてばかりの人もいれば、一方でいつも威張ってばかりの人もいる。
外見上は正反対ですが心の中は同じです。
違いは、それをどう表現するかなのです。

<2010年12月>


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斗夢

理解しきれないほど深い内容・・・ゆっくりと読ませていただきました。
by 斗夢 (2012-12-03 10:20) 

扶侶夢

読んでいただき更にコメントをいただいて恐縮いたします>斗夢さん

私の言葉の半分は自分自身に言い聞かせているところもあります。解釈というものは人それぞれですから、理解されるかどうかよりも、内容を読んでいただけるだけで幸いです。
by 扶侶夢 (2012-12-03 22:01) 

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