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エピローグ/放浪の終わり [青年は荒野をめざした]

 

 スペインに渡ってからも私の放浪は続いた。
 スペインでは2カ月も滞在して、国内を鉄道で廻ったり、マドリッドのペンションに暮しながら毎日「プラド美術館」に絵画鑑賞に通うというような生活をしたが、その頃から少しづつ旅の終りを感じ始めてきたのだった。

 マドリッドでの生活は、絵画に対する目を養ったばかりでなく、読書をしたりして様々な思索の時間でもあった。たまたまペンションの隣人であった雑誌「平凡パンチ」のジャーナリストと色々な話題で語らいもして、その語らいの中から、後に日本で流行語となった「Uターン現象」の言葉の元となる“原点回帰”のコンセプトが生まれたのだった。
 小田実氏の「何でもみてやろう」や五木寛之氏の「青年は荒野をめざす」に煽られて日本を出て来た若者が海外には大勢いたが、果たしてそこで夢とロマンに出会ったのだろうか?放浪の果てに得た答は何だったのだろうか?心地よいアルコールと紫煙の幻想の中で、私が口ずさんだ唄は「北帰行」だった。

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 スペインから再び大好きなパリを訪れ、ドイツ、スイスを越えてオランダのアムステルダムにも数週間滞在した。滞在地からノルウェーやスイスなど数カ国のユースホステルに求職の手紙を書くなどして仕事探しをしながら北に向かい、ついには北欧フィンランドにたどり着く事となった。

 少しづつ旅の終りを予感していた私は、帰国準備にはソビエトのビザ申請やチケットの購入などで数日間かかるので、その間最後の地ヘルシンキで楽しもうと考え、オリンピック競技場近くのユースホステルに泊まりながら、滞在客の日本人と連日ディスコにくり出していた。
 昼間は喫茶店で現地に暮らす日本人たちと雑談し、夕暮れになるとディスコにくり出す。何日かすると顔見知りも出来てきて、ヘルシンキの女の子とも親しくなってきた。もう少しここで暮らしてみたいなあと思いつつも帰国の準備に取り掛かっていた時、とんでもない事件が起こったのだった。

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 ソビエト経由で帰国するためのチケット代として用意してあった現金が、財布の入ったショルダーバッグごと何者かにそっくり盗まれてしまったのだ! まったくの無一文になった私は、日本に帰れないどころか、明日の飯代さえも無い状態になってしまった。(後に現地の警察からの連絡で、郊外の電話ボックスに捨てられていたパスポートだけが届けられた。しかしお金よりも大切だった、これまでのヒッチハイクの記録日記や撮りためてきた写真のすべてが失われた事がショックだった…このエッセイの添付写真が極めて少ないのは、実はそれが理由なのです)

 その後、偶然にも親切な女の子に出会って、そこに居候をしながら食事も与えてもらえた事は幸運だった。田舎の実家にも連れて行ってもらい、そこでは彼女の両親や姉たちと共に家族同様の待遇を受けた。私のこれまでの旅の中で、一番「普通の生活」を感じられた時間だったかも知れない。フィンランド人の家族と共に暮らした約一ヵ月の生活は、私の生活観や価値観そして美意識にも多くの影響を与える事となった。

 世話になった田舎暮らしに感謝して、アルバイトを見つけて暮らすためにヘルシンキの街に出て来た。結局、日本に帰る事が出来なくなってこの街でアルバイト生活を始めた私は、その後約一年間ヨーロッパでの生活を延長する事となったが、この時点で私の“放浪の旅”は終止符を打ったような気がする。海外に脱日常を求めた私が、思索と放浪の旅の果てにたどり着いたものは「原点回帰」であり、それは日々営まれる生活の事であった。

<完>

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