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[覚書]我思う故に我在り/2020年 [【アーカイブ】]

◆最初はただ何となく作品づくりのモチベーションを高めるための思考メモとして始めたこのブログも年を重ねるとちょっとした回顧録にもなり…そして書き綴っている内に新しく取り組むテーマを発見するワークブックになったりもする。
◆これまでの思いつきメモの2020年一年間の中からいくつかの雑記をピックアップしてみた。自分自身の“今”を、思考の流れを辿って俯瞰してみるのも何かの発見になるような気がする。


病院で年を越すというなかなか貴重な経験をした。
街がクリスマスムード溢れる時期に入院、イブに手術という素敵な贈り物でそのまま年の瀬を迎えた…なんて言うと楽勝ムードの入院生活の様に聞こえるけれど、実は術後の一日目はきつかったのです。
全身麻酔の手術は二度目だし、以前は難病指定されていた頚椎手術だったので、それと比べれば軽いもんだと甘く見ていたのだが思ったよりはハードだった。痛みはほとんど無かったのだが術後の集中治療室での一日が体中にパイプを繋げられて苦痛だった。
摘出した前立腺を詳細に調べた結果、当初よりも進行していた事が分かった。レベル2になっていたらしく(レベル4は末期症状)ガン細胞は切り取った前立腺の端っこの方にあったらしいので100%取り除いたとは断言できないという事だった。(医者のコメントには絶対大丈夫というものは無いですから)今後も月一回のPSA検査で様子を見てゆくらしく、完全に癌の心配とはオサラバという訳にはいかなかった。
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しかし何はともあれ前立腺の問題が一段落して新年を迎え、めでたしめでたしという事で今年一年の抱負でも考えましょうか。
<令和2年1月・記>

私が海外に出て、知人も友人もなくたった一人で枯れ葉の様に漂う旅をしていたのは、その時代の空気のせいだったのだろう。
思えば '60年代は学生だった私にとって、政治や社会問題を突き付けられて逃げ場のない時代だった。そして文化面ではいわゆる前衛芸術がパワーを持って社会にテーゼを投げ掛ける時代でもあった。そんな時代の嵐が過ぎ去ろうとしていた頃 '70年代初めに日本を飛び出して何かを求めて海外に向かってから、もう半世紀が経とうとしている。
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ビートルズがいた、ボブ・デュランがいた。ベルリンの壁は幾多の悲劇を生み、ソルボンヌ大学で始まった学生運動は瞬く間に世界中に拡がった。ポップアートやサイケディリックアートが席捲し、プロテスタント・ソングやプロテスタント・アートで世の中に抵抗し物申す事が若者の特権でもあった。今はそんな空気もそんな若者もお目にかかる事は少なくなった。どこかには居るのだろうがマイナーな存在として埋没しているのだろう。
こんなに激しく動く時代の中で揉まれながら青春を過ごした私たちには、今の時代がもうひとつ掴み切れず納得しがたいものがある。かつては世の中に対しての距離感というか、理想と現実がぶつかり合い混沌とした中での“今を生きる気持ち”の切実さがストレートに感じられた。今時こんな事を言っていても始まらないだろうが、何かの拍子に口をついて出てきてしまう事がある。同世代を生きてきた者すべてが同じだとは言えないが、あの時代の中で何かに歯向かってがむしゃらに叫んできた暁に、時代の変化に付き合えず調子はずれの不器用な生き方を続けるしかなかった者どもが…この社会の片隅にまだ棲息しているという事を信じていたいからなのだろう。
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思えばあの時代に海外に飛び出した若者たちは、どこかアナーキーな雰囲気を携えていた。当時の海外で無銭旅行、ヒッチハイクと云えば月並みな社会からドロップアウトした若者のひとつのスタイルでもあり、時代劇で云うところの“旅から旅への股旅暮らし”というヤツだ。ヤクザな気質たっぷりで野放図な輩も多かったような気がする。後に流行った「傷だらけの天使」でショーケンが演じていたキャラクターを彷彿とさせる、そんな今の時代には見られない若者像が巷に溢れていた。
歴史が連続性で成り立っているのなら、今の時代も激動の過去の積み重ねなのだろう。そう考えてこの世の中を眺めてみると少しばかり罪悪感めいた心苦しい気分になる。
あんなに怒涛の時代を生きて来た筈の、歪んだ社会に抵抗をして生きて来た筈の私たちの多くが世の中に迎合してゆく姿には恥ずかしいものがある。そしてそれ以上に恥ずかしいのは世の中の抱える問題に対して無関心だった者たちが、いい大人になってからそれなりの肩書を背負って立派に社会問題を評論している事だろう。世の中はいつの時代も“既成概念という古ぼけた偽り”に騙されながらそれと葛藤している。
激動の時代に闘って来た情熱も“一期一会 夢幻の如くなり”
<令和2年2月・記>
二人の姉の事を書いてみようかと思った。理由はいくつかあるのだが、ひとつは彼女たちの人生を総括して改めて私との関係を書き記しておきたいという思いからだ。
それぞれ母親の違う私たち姉弟だったが、死別した上の姉と違って下の姉の方は生き別れだ。父親の連れ子同士の再婚は上手くいかず殺伐とした関係の中で育ち、そして結局離婚した時に二人の間に生まれた姉を父が引き取って連れて来たという話だった。姉はその頃の話を一切しない。実母の顔も覚えているのかどうか定かではない。時を経た今、思い起こしてみれば私も彼女に実母に関わる疑問を尋ねた事なく今まで来たことに気づいた。かろうじて耳にしたエピソードとして、姉が小学生だった頃に近所のお節介な女が(半ば興味本位で)姉に実母に会わせてやろうとしたことがあったらしいが、姉は怒って「私のお母さんは一緒に暮らしている人だ」と言って後妻に入った継母(これが私の母なのだが)を最期まで実の母として見ていた。
父親に連れて来られた姉は、子どもの頃から苦労の連続だった。上の姉は母を亡くした子供として可愛がられても居たが、次女の方は母と生き別れの上に初めの頃はすねた処もあって、祖母・長女・父の三人家族の中で馴染みにくかったようだ。
小学生の頃から家事を手伝ったり近所の大人たちに混じって生活していたから長女よりも自立心の強い子供時代を送ったように思う。そんなどこか孤独な心境だったから、父が後妻を迎えて弟になる私が生まれた事を一番喜んでいたのは彼女だったかも知れない。小さい頃からよく遊んだし、両親が共働きで留守がちだったので身の回りの世話を焼いてくれてある意味では私にとって母親代わりだったと言える。
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彼女が社会人になって初めて就いた仕事は看護婦だったが、手術に立ち会って貧血を起こした事が原因でやめてしまった。その後、最終的に会計事務所に勤めて寿退社するのだが、それまでの姉は決して恵まれていたとは思えない。それでも貯金をしてためたお金を家を建てる時の元金に提供したりして親孝行な娘だったと思うが、何故か父親には上の姉以上には可愛がられなかった。派手な生き様の“ひまわり”の様だった長女に比べて彼女の青春は地味な下積みで育った“月見草”だった様に思える。
人の一生は不可解なもので、それ以上に運命というものは不思議なものである。自由で恵まれた青春をおくった上の姉が結婚後は悩み多い生活が続いたのとは対照的に、下の姉は経済的にも精神的にも幸せな結婚生活に恵まれた。どちらの人生が良いかとは簡単に決められないが、若い頃の不遇の時代が多かった事を身近で見て知っている私は、彼女が幸せになってくれたことが安心でもあり嬉しかった。
七十歳も中頃になって、体の痛みでは以前から悩まされていたが最近アルツハイマー兆候が出てきて家族に負担を掛けると困っていた。夫唱婦随で歳を取っても二人でよく外出していたのが出来なくなって残念がっている。
<令和2年3月・記>


もう何年も前に還暦を経たかつてのヒーローたちを主人公にした漫画を描きたいと思った事があった。
私が幼少だった頃にテレビや漫画雑誌で活躍していた懐かしのヒーローたちが還暦になった今も実は秘かに活躍しているという設定で、当時の映画でも流行った “オールスター総出演”というスタイルのオムニバス形式の漫画を考えていたのだが…著作権の問題もあって流れた。
私の少年時代と云えばあらゆるものが未完成で未成熟だった時代だから、今とは違って社会的な許容範囲も広く緩くて、物語のリアリティーにしても “まさに漫画的、なあなあ表現”で許される事も多かった。例えば「まぼろし探偵」や「少年ジェット」などは子供でありながら拳銃を撃ったりオートバイやスクーターに乗って事件を追いかけたり、「ビリーパック」の主人公ビリー少年は父親がアメリカ人、母親が日本人の混血なのだが父親がスパイ容疑で拷問を受けて殺されたのに、わざわざアメリカに逃れて教育を受けてから日本に帰って来て社会正義のために活躍する姿は少年とは思えない行動力で、コートを着てハンチングを被ったスタイルはどう見ても大人の男だった。一世を風靡した「月光仮面」は私立探偵・祝十郎の変身した姿なのだが、一体何のために変身するのかがよく分からない。正体が分かったところで何の不都合もないのに、単にその格好良さを楽しんでいるとしか思えないほどである。
突っ込めばきりのないヒーローたちなのだが、この矛盾だらけの楽天的とも云える爽快さが、高度成長期を後押しする未来の大人たち(注※団塊の世代たちの事)の精神的下支えとなっていた様にも思える。
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行く川の流れは絶えずして万物はその形を留めることはなく、時代は移り変わり善悪も時の写し鏡の如く変容してゆく。時代のヒーローも今はなく、彼らの闘ってきた歴史だけが伝説となっているのみだ。
21世紀の今の時代となっては彼らの姿は時として陳腐に映るだろうが、例え滑稽と云われ無用と云われても時代に刻んだ足跡には人々の心に築いた業績が生きている。
<令和2年5月・記>


手術後のPSA検査で予想外の数値が出たので少し慌てたが、五ヵ月後の再検査では 0.02という正常値に戻っていたのでとりあえず安心した。こういった事は時々あるらしい。術後しばらくは体調が不安定なため、ガン細胞は切り取ったはずなのにその余韻からか一時的にPSA数値が異常に上がるらしい。人の身体と云うものは中々理屈通りにはいかないものだ。
まぁ取りあえず一段落という事で、前立腺ガンとの闘いの日々は終了にしたい。今後は厄介な糖尿病との付き合いだ。前立腺の問題で放置していたが実は糖尿の方が深刻だった時期もあったのだ。
個人的には糖尿病で一番恐れているのは「合併症」の問題だ。糖尿病は一度患ってしまったら完治するのは “ほぼ考えられない”という事なので、如何に合併症を起こさず上手く付き合ってゆくかを心掛ける様にしている。…の筈だったのだが、一年ほど前から「壊疽」の心配が出て来たのだった。と云うのは足の指先が痺れているのでよく見てみたら指が鬱血している様子で、血栓があるかどうかは分からないが毛細血管が詰まっていて血流に異常がある事には間違いなさそうだった。
お風呂で指先を揉んだりマッサージしながら当分はやり過ごしてきたが、いずれ落ち着いたら病院で何らかの処置を受ける必要はあるだろうと思っている。以前に糖尿で入院した時に同室した患者が壊疽で指先を切断したという話を聞いていたので、頭の中にはその事がしっかりインプットされているみたいだ。
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人それぞれに病との向き合い方はあると思うけれど、私は基本的に自分の感覚を信じる事にしている。医学の知識や医療の情報も必要なのだが、それ以上に “何を拾い何を捨てるか”といった覚悟の道筋の選択眼を感覚的に持つことである。
決して「根性論」ではないつもりだが、私は人間は最終的な部分に於いて「気力」が大きく影響するものと思っている。その「気力」と「知恵」のバランスのとれたものを「人間力」と呼んでいるのだが、ややもすると知識や情報に偏りがちな病状対策にその人の “人間的総合力”というものが係わっている気がする。人間は生物であり、理屈で組み立てられたロボットや機械とは違うのだ。
持病から逃げるのではなく背負ってゆく覚悟をすれば、それに対する見方も付き合い方も変わってくるものだ。勿論つらいとは思うけれど、それが素直に生きるという事の意味なのだろう。
<令和2年5月・記>


【紙芝居屋の思い出】
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<紙芝居屋> 昭和20年代後半から30年代の初めまで子供たちを楽しませる娯楽商売として人気を誇った。後に登場したテレビは別称「電気紙芝居」と呼ばれたほどで、そのテレビの登場によって紙芝居は子供たちの娯楽アイテムから衰退していった。
大人たちには映画や観劇という娯楽があったが、テレビが登場しても街頭テレビくらいでまだまだ普及していない時代に子供たちには路上の紙芝居という楽しみがあった。
週に一回くらいだったと思うが、昼下がりの三時頃になると(当時は三時という時間を “おやつの時間”として、洒落て言うならティーブレイクとして一日の労働の小休止として位置付けられていたものだ)太鼓や笛の音が鳴り響き、自転車を漕いで紙芝居屋の叔父さんが登場した。ちなみにまだまだ女性の社会進出は成されていなかったので “紙芝居屋の叔母さん”というのは全国に一人もいなかったと思う。
紙芝居を積んだ黒塗りの自転車には菓子の入った箱が取り付けられていて、紙芝居の観覧料五円だったか十円だったかを払うとその中からお菓子を取り出してくれた。お菓子には当たり付きのものもあって、代表的なものは「ひようたん抜き」という薄く出来たベッコウ飴を瓢箪型に切り抜くものだった。他にも名前は忘れたが、穴をくり抜いてそこに親指が通れば景品を貰えるというものや、おみくじの棒の長さでドーナツを貰うといった駄菓子屋風のお菓子満載だった。そして手に入れたそれぞれのお菓子を口に入れながら紙芝居が始まるのを待ったものだった。
肝心の紙芝居の演題は何故か不思議と思い出せない。記録には「黄金バット」や「鞍馬天狗」「ターザン」等が列挙されているが、私の地域には訪れなかった。日本全国、地方によって様々なのかも知れない。ただハッキリと言えることは、けっして教育的で道徳的な “綺麗事でつくられた物語世界”ではなかったという事だ。小学校に通う様になると教育紙しばいという退屈なものを見る機会が増えたが、子供たちにとってもそういった時代の尺度の転換期でもあったのだろう。
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<令和2年6月・記>


近頃『SDGs』という言葉がビジネス界や社会のムーブメントとして言われている。それで思い出すのは、かつて同じ様に社会的なコンセプトとして登場していた『CSR』である。サステナビリティ・企業の社会的責任と言われて一部の人たちから期待されて登場した新時代のコンセプトはその後どうなったのだろうか?かつての時代に戻って思想の変遷をタイムスリップすることは、表層的なレトロ・ブームとは一線を画す“知の散策”と呼べるものだろう。
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『CSR』のコンセプトは第七代国連事務総長コフィー・アナン氏の提唱した「グローバル・コンパクト」に始まる。世界の南北格差や自然破壊の閉塞感をブレイクスルーするために 1)人権 2)労働 3)環境 4)腐敗防止 の四つの指針を打ち出した。そしてこれらを監督・監視するためガイドラインを設けて市民レベルでの第三者的存在オンブズマン制度も検討された。それまで経済的強者であった企業組織が勝手気ままに振る舞えない様な民主的なシステムの発想だった。
今では日常的に使われるようになったが「サステナビリティ」という言葉は我が国ではこのCSRの啓発と共に生まれた言葉だった。サステナビリティとは「持続可能性」という意味を持ち、
自然環境や人間社会などが長期にわたって機能やシステムの良好な状態を維持させる考え方で、バブル崩壊の後の日本社会が求めていた概念でもあった。
私は一時期CSRの研修に取り組む機会があったのだが、当時は日本社会をバブル崩壊の余韻が閉塞感を漂わせていた時だったので、新しい成長路線に乗せるという意味で多くの企業が賛同していたものだ。日本企業にありがちな “お題目”だけ唱えるキャンペーン・フレーズが多かったが、消費者側の意識を変えさせることに少しは役だった様にも思える。
考えてみればその国々で注目する部分が違うのだろう。日本人の多くはリサイクルや環境問題に興味があるためCSRのその部分に多くを割いていたように思える。新型コロナ・ウィルス禍でも顕著に現われたように日本人の大方は環境衛生から身を守る事には長けているのかも知れない。企業もその辺は理解しているのでCSRの中でもその部分には力を入れていたものだ。行政に於いても環境問題への取組みが一番で労働・人権は二の次、腐敗防止に至っては殆ど問題にしないというのが実情だろうか。これは何も日本だけではないだろうけれど…。
世界の経済活動の本質部分に対して問題を投げ掛けるという意味で『CSR』の登場は画期的でもあった様に思える。決して正しく理解・運用されていたとは言い難いが、新しい概念というものは常に幻想と理想を含んでいるものなのだろう。
<令和2年7月・記>


 気まぐれに思いついたことを記してみる。若い頃と違って最近では戦争を語ることが少なくなった。それに自分自身が実際に戦争を体験した訳ではないので熱意を持って語る事には違和感がある様になったとも言えるだろう。
 しかしそんな私だったが最近のコロナ禍に揺れる世情をみて、ふと過去の戦争に翻弄されたこの国の世情を思い出した。あの頃も今の様に国民は右往左往していたのだろうか?大本営発表の戦禍の情報に一喜一憂しながら日々の暮らしを送っていたのだろうか?
 戦後数十年が過ぎてから、戦争を知らない若者たちが過去の戦争を総括した時代があった。私が学生だった頃、やや年齢が上の団塊と呼ばれた世代で反戦運動が盛んな頃だった。戦後生まれの数の多さで圧倒していた若い世代が、過去の年配の人たちの思考や文化を否定的に見ていた時代でもあった。そして当時の価値観から来る時代的判断や選択を一方的に否定する風潮があった。当時の人たちは、それほど無策で愚かな生き方をしていただろうか?私の祖父や叔父や父親たちは無策で戦争に埋没してゆくほど、それほど愚か者だっただろうか?
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 顧みて今のコロナ禍に翻弄されている私たちを考える。いまの私たちの暮らしぶりを太平洋戦争の中を生きてきた人たちの生活に置き換えてみる。当時も戦況報告という情報はあった。大本営から発表される報告は初めの内は威勢よく、まるで勝ち戦の如く発表されていた。しかしその後状況が変わって敗戦の色が濃くなれば竹槍で最後の一兵まで、いや民間人も駆り出されるほど追い詰められて、それに参加しないものは非国民として周りから石を投げられる様な有様だった。
 そういった民衆を扇動する様な情報を何の疑問もなく受け入れて異論に対しては徒党を組んでバッシングしたりする戦時下の姿は、まるで現在のコロナ禍に於ける数々の評論やそれに対するネットでの過熱状況を彷彿としてしまう。マスコミでの評論家も然りだが、SNSで様々な論を展開する“自称・評論家”にしても、これがかつて太平洋戦争の時代に戦争を論評していた者たちと変わらぬスタンスで論じている事に気づかないのだろうか?そして私が言いたいのは、今尤もらしく論じている “その場ご都合・評論家”たちはこの“戦争”が過ぎ去った後にかならず当時の“戦犯”を引きずり出し批判する立場を取ることで、自分たちの語った事を有耶無耶にしてしまうのだろう。
 事が過ぎた後で批判をする者の大半は、かつてそれに組みした者である事を私は知っている。 毎年8月15日の終戦日が来るとマスコミなど各方面で太平洋戦争に関わる番組があるが、今年令和2年の夏はぜひ現在のコロナ禍に於ける世情を重ね合わせながら考えてみたいものである。
 過去の戦争に於いては国家として提供された情報とそれを受け取る民衆との間に誤解とギャップがあったが、それは今でも同じで本来の目的である戦争忌避から離れて扇動される形で勝手に非難し合って自爆しているという姿が至る所に見受けられる。民間での討論争いに気づかなければ、今回のコロナ禍の様に「国難」に姿を変えて民衆は右往左往して同じ過ちを犯すことになるだろう
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<令和2年8月・記>


あらかじめ説明しておきますが、これは愚痴や文句でもなければ誰かを否定したり反論したりするものでもありません。現代の人間とその人間たちが作り出している社会現象を洞察して私が感じている「時代人の有り様」です。
昔は良かったとか時代は悪くなっているとか時代を比較したり回顧賛美するのではなく、現象としての変化を読み取りこれから必要とされる生き方を考察するものです。世界の流れと云うものは “いつの時代が正しくて、いつの時代が間違っていた”とか言えるものではありません。常に最善と思われる選択をしながら進んでいると考えます。そしてまた、時代が進めば物事は必ずしも進歩しているとは考えません。全てにおいて過去よりも現代の方が優っているとは思わないし、現代が特別に退化しているとも考えていないのです。
私の考えはこの一点、「時代は偶然と必然の掛け合わせで、常に最善の選択で進んでいる」
前置きが長くなりましたが、今私が問い始めているのは「人間力の概念」です。何故ならここ近年の我が国では人間が質的に低下した様な感じがするからです。しかし実際には低下した訳ではありません。先にも言いましたように、時代の変化に進化も退化もないからです。基本となるベース(基軸)が変わったのでそれに伴ってそこに立つ諸々の価値観が変化したのです。
科学の進歩や技術の進化は間違いないですが、表層的に起こっている社会の出来事を過去と比較すると向上しているとは言えない様に思えます。世の中の便利さや快適さが進んだのは確かですがその事が様々な事件や問題を引き起こしている部分もあったりします。トータルにみて良くなったのか悪くなったのかは見る人の観点によって違ってきます。つまりどんな進歩や改革であっても功罪混じりてそれを意見するのは個人的感情でしかないという事です。
人間が悪くなったとか、世の中が堕落したとか、将来はもっと悲惨になるといった「一点観測の総括論」は正しいものの見方ではなくて、今の社会で忘れられていて今後もっと大切になって来る課題は「人間力」についての考察ではないかと思うのです。
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私の考えを端的に言ってしまえば「人間力」というのはヒトが生きてゆく上で必要な “本質的要素”と位置付けています。そしてそこには人間特有の知恵や生命力などが含まれていて、それによって “人として逞しく生きてゆく要素”を表わしていると考えます。
国家とか社会とかの概念を持ち込んで運営している人間世界。そういったもので縛らない限り人間と云うものは暴発してしまうのでしょうか、いわゆる “十戒の様な”戒めを持つことで安定した状態を保とうと考えます。しかしそれはあくまでも他力に頼った考え方で、自己の確立から離れてゆくばかりです。本来の理想を言えば、個々人が他人を侵さず自己完結で生きることが平和と安定への道なのですが…そう簡単ではありません。この自己完結に導く力が「人間力」だと思うのです。
人は決して一人で生きてゆけるものではありません。しかし社会的に繋がって互いに利用し合う生き方も本来的なものではないように思えます。助け合いとか協力団体とかいう形容をされますが、それは誰が仕切っているのでしょう?自主的のように見えて実はそうでも無いのが実態ですね。一人一人がバラバラになれと言っているように聞こえますが、その様な誤解こそ “分かっていない”構造の始まりなのです。人が美しい言葉に弱いのは遥か昔からの習性ですね。
「人間力」とは “あるがままの自分をコントロールする力”とでも言いましょうか、精神と肉体のバランスをコントロールしながら人間である事に信頼を置いて生きる力なんです。仮に危機的状況に置かれたら、その危機的状況の中でバランスを保ちながら生き切ることこそが「人間力」を発揮するときの様に思います。
<令和2年9月・記>


21世紀の幕が開いてまだ四分の一も過ぎていないが、コロナ禍の世界的な蔓延によって人間社会の根本的な見直しを問われる機会が現われたようだ。
これまでの人間の歴史から見て、100年単位で起こる社会的改革や革命とそれに付随する数々の戦争の流れから、今世紀も中頃の2050年くらいには “従来の常識をひっくり返す”大きな変動が来るものだと思っている。20世紀に起こった第一次・第二次世界大戦が世紀の中頃に終結してアメリカ・ソビエト主導の東西二陣営に分かれ、その後中国の台頭やイスラム国の存在によって世界の宗教を含む線引きに数々の変化が訪れた。頻繁なテロ活動によるボーダーレスで不安定な国際社会の始まりでもあった。
人間の歴史は進歩してきたように言われる事もあるが、それは価値観と視点変化という状況の変化に過ぎないとも考えられるのではないだろうか。決して人間だけがこの地球上で、もっと広く考えるならこの宇宙空間に於いて世界観を持って生きている生物ではない筈だ。私たちの知らない知的世界はもっと他にもあるに違いない。身近な猫や犬にさえも彼等独自の価値観や生き様の認識をしているに違いない。
そうやって考えてみると、人間は人間としての思考概念の世界で考えるしかないという結論が出る。そして本当に必要なものはと言えば人間社会に於いての生存力に限らず、宇宙世界に於いての存在力なのではと考えてしまう。いつの時代もそうだったのかも知れないが私たちが常に意識していなければならないのは人間として存在する力、つまり「人間力について」なのではないだろうか。しかしそんな命題よりもその時代によって幾多の時代的課題を突き付けられて人間世界は迷走してしまう。そうやって歴史はこれまで「宗教戦争」や「植民地戦争」というシェアの奪い合いに明け暮れて来た、進歩と発展の名のもとに。
しかし21世紀になって人間は果てしない繰り返しに飽き飽きして、コロナ禍をきっかけにまずは個人の価値観の転換を図ろうと思い始めたのかも知れない。そしてキーワードとして改めて「人間力」という概念を取り上げる。「人間力」を磨くことによってこれまでの社会通念に縛られた生き方とは別次元の逞しい人生を手にする事が出来る。
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「人間力」とは “知を越えた知であり、五感を越えた第六感を求める事”もそのひとつではないだろうかと私は考えている。人間は他の生きものたちと同じ生物でありながらどういうわけか「知恵」という特別な能力を背負っていて、この知恵というものが人間独自の幻想を世界に生み出している。
愛も平和も飢えも戦争も、そのすべてが幻想が生み出した代物のように思える。まさにジョン・レノン『Imagine』の歌詞の様だが、それを越えなければ人間である事の “蹉跌”を越えられないのだと思える。「人間力」とはそのための能力なのだろう。具体的な分かりやすい言葉に置き換えることが今の私には出来ないが、私的表現という事で云えば、合気道で気の世界に過ごした経験から “万物を飲み込みバランスを整える力”とでも云おうか…。
21世紀の内にはきっとより明確な「人間力」についての解答が得られるだろうと思う。何故なら世界は新しい生き方の指針を求め始めているからだ。これまで使い古されて来た知識や思考や能力・暴力とは別の、まだ開発されていない人間の価値観の可能性をきっと見つけることだろう。
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<令和2年11月・記>


今年も一年が終わろうとしている。コロナ騒ぎの一年だった。今年は保健所でコロナ関係の仕事をしていたので多少なりとも身近に影響を感じた一年だった。まだまだ他人事で語っている人が多くいる。自分の身に降りかかるまで本当の怖さを知らないというのが人間の常なのだろう。
コロナを契機として様々な事を考える切っ掛けを得た。そのひとつは太平洋戦時下での全体主義的なムードに覆われた暮らしについて。私たちの祖父母や父母たちが国家の流れに右往左往して生きていた時代にも、社会的雰囲気が作り上げる “さも正しい事であるかの様なもっともらしい意見”がまかり通って、一億玉砕の危機にまで突入しようとしていた。戦時中とコロナ禍を比較して語るのはやや乱暴ではあるが、そこには多少なりとも似通ったヒントがあるような気がする。
世の中はわずかの権力者だけでコントロール出来るものではない。世論や世の流れと云うものは国民大衆を含めた大多数の人間が絡み合って形成されるものだと思う。例えば戦争反対の声にしてもそれを第一義にして叫ぶ者はどれだけいるだろうか。ギリギリに追い詰められて後戻りできない様になってから初めて本気で叫び出すのが多数勢なのだ。そして戦禍が収まり災難が過ぎ去った後に過去を検証し、当時中心となって采配を振っていた者の責任を責め立てる。間違っていなかったとは言えないが、その間違いを持てはやして更に助長させたのは誰だったのか。今回のコロナ騒動も沈静化した後に改めて政界も含めた弾劾合戦の嵐が始まることだろうと思う。
流れを正しく見つめ、事の顛末を注視しよう。歴史は往々にして歪んで作り上げられるものなのだから…。
そしてそうやって表層的に時代は変わり、人々は入れ替わって時代は同じことを繰り返し続けてゆくのだろう。
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では良いお年をお迎え下さい。
<令和2年12月・記>

 

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死を食べる-アニマルアイズ