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「ゼロの告白」第一章/第六話 [押入倉庫A]

【限界の淵】

 人生は一度切り。過ぎた時間は返ってこないし死んでしまえばそれっきり。そんな事は分かっているけど何故か見てみたい間際の淵。
 「卵が先か、鶏が先か」という言い回しがあるけれど、どちらが原因とも判断つかない因果関係はよく見られる事で、この男の場合も死の淵に立たされる経験は何処から来るものなのかは実は良く分からないでいた。生涯に何度も体験して来た生死の境い目はもしかすると幼い頃の流転の生活がそうさせたのかも知れない、いやそうに違いないとも思えるのだった。

 若い頃から意識の中で占めていた「どんな環境でも生き延びられる人間になりたい」という願望は既に幼い頃の行動にもその兆候が見られていたようだ。どんな環境でも生き延びられるという事は裏を返せば「どんな環境が生き延びられない限界なのか」という命題を突き付けられている事になる。どこまでが可能で生きることを許される範囲なのかいつも考えては試してみたがる、気が小さいくせに冒険的な実験に好奇心を持つ子供だった。デパートの屋上に遊園地のあった時代、この少年は遊園地で遊んだ後はいつも親の目を盗んでそっと屋上仕切りのフェンスを乗り越えてしがみ付きながら片足を宙に浮かせては“この世の生存の限界”を実感しながら確かめていた。
 スリルの快感を味わっていた訳ではない。その行為は言い知れぬ不安と恐怖に襲われる逃れたいほどの苦痛だったが、それなら何故敢えて求めるのかという問いがこの男の個性の不条理な部分でもあった。学生の頃は様々な自己矛盾に悶々としながらも前に進まなければ落ちこぼれてゆく時代の強迫観念に追い立てられ、その理由を探るよりもとにかく前に進む行動あるのみという結論で行くしかない時代でもあった。

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 男の中にある臆病さが返って男を無鉄砲にしていった。周りの動向に流されず落ち着いて自分の心情を確かめる事が怖いから、感覚を麻痺させて恐れ知らずな行動に走る、そんな心理が知らぬ間に身に付いていた。
 年少の頃は高いビルから身を乗り出したり、瓦屋根から飛び降りてみたりといった幼稚な驚かしで済んでいたが、社会人になると車での危険な賭けレースをしたり、街のヤクザに絡んでみたりという荒業に発展していった。時には正義感を看板にすることもあったが、本当のところは“自分の存在の危うさ”への挑戦だった。ひとつ間違えれば力でねじ伏せられる社会への恐怖心がこの男をそこまで駆り立てる理由でもあった。
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 どんな環境でも生き延びるためには、清濁併せ飲む気構えが必要だった。男の若い頃の半生はある意味で汚濁にまみれてその免疫を高めることを目指し続けていたとも言えるだろう。晩年になって「歎異抄」を読むことになるこの男だったが、そこに至るにはどうしても避けられない悪行という寄り道が必要だった。そして罪と悪を消化して解脱に至った時に、初めて自分の中にある「ゼロの感覚」に目覚め始めたのだった。


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