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父から聞いた戦前の話 [随想随筆]

新聞雑誌、テレビやネットなど多くの情報に接するたびにふと頭をよぎる事がある。
「私たちはこれらの過多な情報にまつわる論評をどこまでまともな気持ちで聞いているのだろうか?」
真に受けて信じ込んでいるとしたらそれは危険な事でもあり、反面また単に聞き流して真に受けていないのならその風評は何といい加減に世間に垂れ流されてゆくものなのだろう。

時代が今のような様相になってからは、言葉の真意が曖昧で取りとめのないものに変色してしまったような気がする。
改めて自分の幼かった頃に周囲の年配の人たちが話していた内容を、とりわけ父親との話を思い出してみると何か本質的な部分で違いを感じずにはいられない。

私の父親は明治44年生まれだったので、最後の一年間の明治時代を含めて大正、昭和、平成と四つの時代を生きたことになる。
その父は34歳の頃に召集令状が来て戦地に赴いたという事だったが、この年齢では高齢の部類で身体検査も下のランクだったので、まさか軍隊に召集されるとは思っていなかったらしく、昭和19年で戦争も末期の頃だったから周りの知人たちからは「お前が兵隊になるようでは日本の軍隊も終わりだな」などと冷やかされたらしい。

戦前の日本で現代と違いを感じるのは、社会がまだ整備されていなかったせいもあるが、アウトロー的な知識層が多かったという部分だ。一匹狼とか無頼とかいう言葉が生きていてそれを自負する作家や芸術家も多かった。
学校制度も戦後のGHQ指導とは違っていたから、父の通っていた学校では能力に応じて自由に上級に上がれる合理的な学年編成のシステムを採用していたらしい。

「末は博士か大臣か」という言葉が流行った時代があって田舎出身の父も外交官を夢見て東京の大学に進んだのだが、帝都の文化的な刺激に魅了されていつしか文学や芸術の世界に足を踏み入れてしまったという多情で意志薄弱な親父でもあった。
昭和初期という時代は立身出世というビジョンで単純に社会的向上心を煽られる反面、呑気で刹那的な享楽を求める厭世感も浸透していたのは今の日本社会ともそれほど変わらないのかも知れない。

社会は未成熟でインフラもシステムもまだ未整備だったが、人々の気質は自立心の強い無頼の精神が見受けられた社会だったように思える。
最近よく言われる『空気を読む』といった慣れ合いの生活感覚などとは程遠く、意外と自分の領域を自覚して迷いのない生き方をしている市井の人々も多かったようだ。

文庫:戦前の日本.jpg

新聞やラジオでしか世間のニュースを得ることもなく、その情報量の少なさから戦前の日本人は文化的水準までもが遅れていたようにイメージされがちだが、確かに社会生活基盤といったインフラの部分では未開発部分が多かったものの、民族的な文化水準はある意味で今よりもオリジナリティが高かったようにも思える。
欧米の“リーガル・マインド”は浅かったかも知れないが、“法の基準”としての日本的な任侠や道徳の意識は幼児期から培ったものとして一般社会・日常生活のコンセンサスとして根付いていた。

そういった自覚あった筈の人々がいつの間にか戦争に取り込まれ邁進していったのは、やはり人間本来の「力」への憧れと一般世論から外れて独自に社会的に生きることの難しさというものなのだろう。
父から聞いた戦前の話を思い出し改めて振り返ったとき、今の時代の意識が“強い者の力に屈する軟弱な思考”で、生きる権利や万人平等といった綺麗ごとで受け売りの善人願望などはオセロの駒のように一気に裏返ってしまうような気がしてならない。
丁度戦前の市井の人たちが戦争を避けたいと思いながらもいつの間にか同調して受け入れるに至ったような社会的ムードに近いものが今日の私たちに迫っているような気もする。

戦前の日本人のものの考え方として私が憧れるのは「気骨ある精神」というヤツだ。情報量が少なかったことも事実だし、知識が洗練されていなかったことも事実だろう。しかしそんな事を自覚はしていても頓着はしない懸命な一途さがあったように思える。
現代ではあまり聞かれなくなった「無頼漢」「一匹狼」という呼称は、“長いからといって巻かれない、強いからといって屈しない”毅然とした生き様の象徴であり、戦前の社会では大衆から求められていた何かがあったのだろう。

単なるひねくれ者や暴力に媚びるやくざ者とは根本的に違う「無頼漢」は今の社会では認められにくいストイックな美学なのだろう。

 


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いっぷく

私の父は昭和2年生まれで旧制中学の途中で予科練に行った世代ですが、戦後新学制になった1年目に上京して東京の高校に編入して新制高校の資格を取って大学に進んだようです。
進取の気性にとんでいるように見えますが、大学がキリスト教系で、実家は浄土真宗で、その上上京してから曹洞宗や真言宗の住職とも付き合いを持った「多情で意志薄弱な親父」のため、今も我が家は聖書の処分に困り、宗派の違う墓守もさせられるなど、信仰のない私は困っています(笑)
「気骨ある精神」。なんでも経済性に還元される現代ではむずかしくなっているのかもしれませんね。
たとえば、「気骨ある精神」のブログよりも、毒にも薬にもならないけれどうわべの面白さとうんちくを並べたブログのほうが、数字(アクセス数など)はとれるのでしょう。
視聴率も、本のスリ部数も、結局数字狙いだと、それなりの中身になってしまうわけです。
私は、たとえばメディアの中心である新聞が、毎朝読で合計200万部などという馬鹿げた数字を叩き出す宅配制度などは、そういう価値観を作ってきた責任の一端があるのではないかと思います。
by いっぷく (2017-02-03 01:24) 

扶侶夢

>いっぷくさん、ご来訪&コメントありがとうございます。

丁寧なエピソードをありがとうございます。いっぷくさんの宗教的素地が垣間見れて興味深かったです。そういった経験は大なり小なり情操教育に実を結んでいるようにも思っています。

>視聴率も、本のスリ部数も、結局数字狙いだと、それなりの中身になってしまうわけです。

世の中がそれを受け入れて推し進められてきた結果の是か非かを語るつもりはないですが、経済優先・数字万能のような思考が増長すると様々な欠陥が露呈されて秩序は崩壊の結果になるようですね。
いつの間にか数字を崇拝するようになってしまった現代社会の私たち…この方向性は間違いなくこれからも続くのか?そういう意味で「数字で表すことの是と非」を少し探求してみたいです。

by 扶侶夢 (2017-02-04 00:35) 

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