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「ゼロの告白」/スピンオフ [小説「ゼロの告白」]

この世にはおびただしい程の価値観があって、今を生きている人々は自分なりに生きる何らかの価値を抱えているから生きている。生きているという事は、言葉にしないまでも生きる事の価値を見い出しているから生きている筈だ。生まれて来たのは全く自分の意志ではないが、生まれて来てしまったからには生き続ける選択をしていると言えるだろう。
では何故生きる事を選択しているのか。それは多分欲望から来るものだろう。その欲望は人それぞれで他人には理解できないものもある。生まれて来て、命があり、欲望があり、何か訳があって生きているこの世界はつまり“何かが在って『無』ではない”という事だ。

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波乱万丈とも言える人生を様々な世界で縦横無尽に生きて来た男がいた。生きて来た世界には一見何の脈略もない無節操で不条理なものに見えるだろう。目的もなければ使命らしきものもなく“何のために”という動機や理由が凡そ似つかわしくないこの男の人生だった。
いつからか男は自分の事を“無頼”と呼んでいた。これまでの人生を辿ってみればいつ頃からそんな性質は形成されて来たのだろうか、自己形成の歩みを振り返り始めたときに彼はそこに魂の深い因縁の様なものが息づいているのを感じたのだった。
人というのは空の箱に何かを押し込んで満たさなければ生きていけない宿命的な生きものだ。若い頃はその箱を満たそうと飢えた眼をギラつかせて街を歩いた時代もあった。若気の愚かさで失敗も多かったが、めげる前に周囲に八つ当たりをしながらも挑み続ける根性があった。
そしてその習性は歳を経てシニアと呼ばれる年齢に達しても、心のどこかに燻り続けて決して空の箱を空のまま認めようとする気配はなかったのだった。若しかしたら何か勘違いをしているのかも知れないと思っても、決してそれを認めようとはせず、過去に眺めた栄光の偶像を現実のものだと自分に言い聞かせて突き進むしかない。醒めた気持ちの裏側で陽炎と知りつつ楽しむ酔狂なのだった。

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男は自分の期待に何度となく裏切られて来た。そもそも空白を満たす願望自体が決定的な間違いである事に気がついた。そんな事に心を奪われていると人生はあっという間に終わってしまうのだ。殆ど多くの人間が“人間であることの自意識”を持った瞬間から、幸せになろうとして生きている。生きるという事イコール幸せになる事、そんな意識で人生を眺めた時にそこにある空っぽな箱を満たすことに専念し始める。
「空っぽな箱」は生まれた時は空のままだったが、この世を去る時には満たされているのだろうか?空っぽのままで一生を終わることは“失敗の人生”と云う事なのだろうか?土から生まれて土に帰るかの如く、ゼロから生まれた者がゼロに戻ることが人生の総括ではないのだろうか。男は一生を賭けて問い続けてきた魂の告白を語ろうとしていた。

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闘うという概念 [21世紀の種]

21世紀も早20年が過ぎた。今世紀中に『日本国憲法』は改正されるだろうか?日本国憲法・改正論議の焦点はやはり戦争に関する捉え方になるだろうが、日本人にとっての戦争の概念は実に多様であり論じるにしても論点が定まらない。どこの国もよく似たものかも知れないが、戦争ひとつ取ってみてもまとまった考えに落ち着かないところをみるとこの国も彷徨いながら進んでゆくしかないのだろう。

人々は「戦争」についてあれこれ意見を言ったり語ったりするけれど、その以前に人間の持つ闘争精神について論じる事は少ないように思う。
「戦争」などという言い方はかなり大雑把で曖昧な言い方だ。歴史的時代や世界情勢、そしてそれぞれのお国事情によって意味合いは全く違ってくる。一様に是非を問うというのもおかしな話で、それこそ宗教論議と同じでどちらが正統かという争いの種を増やすだけである。
語るべきは人間に本来備わっている“闘争精神”についてであろう。これはいいとか悪いとか、無くすとか無くさないとかいう事ではなくて、どう活かすかという事が話の本筋なのである。闘争精神は人間が生まれついた時から、いやそれ以前から存在する本質的原理だからである。そもそもこの世に存在する生きものは、命の始まりの闘争を経て生まれ出でたとも言えるのだから。

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生きることは闘うことである。私はそう思っている。そして闘うという事は“今を捨てない”という事である。今この時を軽んじて捨て去ったり諦めたりしたときに、ひとつのものが死滅する。人は生き続けようとする限り闘い続けなければならない。それが必然で宿命なのだと思う。命を存えるという事は闘うという事なのだ。
時代と共に暮らしの状況も変わって生きる条件も変わったが、最も変わったのは闘うという意味が希薄になった事だろう。自力で闘いながら生き抜くという本来の動物としての宿命から目をそらせて、何かに従属する生き方にシフトする現代社会の罠だろうか。

闘うという概念を今一度確認したい。人が人として自立する為に闘う気持ちが必要なのだと考える。迷信から解放され、恐れの呪縛を克服する意味でも闘う気持ちが必要になる。
体内に無数に存在する様々な病原体、例えばガン細胞の様なものにしても犯されないための抵抗力が必要になって来る。と同時にそういった不可避なものを背負いながらも負けずに生きる気持ちが必要になって来る。人は実際は情けないくらい弱いものなのだ。それを背負ったうえで覚悟して生き抜くには“闘う気持ち”が有るか無いかだと思う。

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「闘うという概念」を様々な面から検証してゆきたいと考えています。人間にとって闘うという事は如何に原則的な事か…そんな観点でいずれまた記してみたいと思っています。

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ライク・ア・ローリング・ストーン~激動の'68~'71年 [青年は荒野をめざした/番外編]

私が海外に出て、知人も友人もなくたった一人で枯れ葉の様に漂う旅をしていたのは、その時代の空気のせいだったのだろう。
思えば '60年代は学生だった私にとって、政治や社会問題を突き付けられて逃げ場のない時代だった。そして文化面ではいわゆる前衛芸術がパワーを持って社会にテーゼを投げ掛ける時代でもあった。そんな時代の嵐が過ぎ去ろうとしていた頃 '70年代初めに日本を飛び出して何かを求めて海外に向かってから、もう半世紀が経とうとしている。

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ビートルズがいた、ボブ・デュランがいた。ベルリンの壁は幾多の悲劇を生み、ソルボンヌ大学で始まった学生運動は瞬く間に世界中に拡がった。ポップアートやサイケディリックアートが席捲し、プロテスタント・ソングやプロテスタント・アートで世の中に抵抗し物申す事が若者の特権でもあった。今はそんな空気もそんな若者もお目にかかる事は少なくなった。どこかには居るのだろうがマイナーな存在として埋没しているのだろう。

こんなに激しく動く時代の中で揉まれながら青春を過ごした私たちには、今の時代がもうひとつ掴み切れず納得しがたいものがある。かつては世の中に対しての距離感というか、理想と現実がぶつかり合い混沌とした中での“今を生きる気持ち”の切実さがストレートに感じられた。今時こんな事を言っていても始まらないだろうが、何かの拍子に口をついて出てきてしまう事がある。同世代を生きてきた者すべてが同じだとは言えないが、あの時代の中で何かに歯向かってがむしゃらに叫んできた暁に、時代の変化に付き合えず調子はずれの不器用な生き方を続けるしかなかった者どもが…この社会の片隅にまだ棲息しているという事を信じていたいからなのだろう。

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思えばあの時代に海外に飛び出した若者たちは、どこかアナーキーな雰囲気を携えていた。当時の海外で無銭旅行、ヒッチハイクと云えば月並みな社会からドロップアウトした若者のひとつのスタイルでもあり、時代劇で云うところの“旅から旅への股旅暮らし”というヤツだ。ヤクザな気質たっぷりで野放図な輩も多かったような気がする。後に流行った「傷だらけの天使」でショーケンが演じていたキャラクターを彷彿とさせる、そんな今の時代には見られない若者像が巷に溢れていた。

歴史が連続性で成り立っているのなら、今の時代も激動の過去の積み重ねなのだろう。そう考えてこの世の中を眺めてみると少しばかり罪悪感めいた心苦しい気分になる。
あんなに怒涛の時代を生きて来た筈の、歪んだ社会に抵抗をして生きて来た筈の私たちの多くが世の中に迎合してゆく姿には恥ずかしいものがある。そしてそれ以上に恥ずかしいのは世の中の抱える問題に対して無関心だった者たちが、いい大人になってからそれなりの肩書を背負って立派に社会問題を評論している事だろう。世の中はいつの時代も“既成概念という古ぼけた偽り”に騙されながらそれと葛藤している。
激動の時代に闘って来た情熱も“一期一会 夢幻の如くなり”

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死を食べる-アニマルアイズ