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続・「死」を体験的に考える [随想随筆]

※ この稿では人の死去について語っています。「死」に対して忌避感があったり不快感を感じる方は読まない事をお勧めします。

子供の頃から何度か「死」に直面してきたためなのか、死というものを考える事が多かった。そしてそれは決して忌まわしいものではなく、「愛」や「自由」と同じ様に人生の命題のひとつとして読み解くテーマの様に思える。
近頃「死」についてこれまでとは違う角度から考える様になった。私が高齢者になったせいもあるだろうが、世の中の最近の空気の変化によるものかも知れない。

ある日、夢で見た「死」の場面を絵に描いたことがあった。それは亡くなった自分の身を屋根裏部屋から自分が見ているという場面で、自分自身が亡くなっている姿を客観的に眺めているという不思議な光景だった。
通夜に集まった人たちに囲まれて亡くなっている私がいるのだが、私は死んだ自身を体感していて同時にそれを客観視している自分の存在も実感している。そして亡くなっている自分を憐れむこともなく単に滅した肉体として状況を眺めている。

臨死の夢_02.jpg

孤独感もなく周りを囲む人たちと同じ輪の中で、私は単に「死者」として存在していた。生者と死者との曖昧な境の際で不思議な感覚を感じていた。幽体離脱というのはこういう感じを言うのだろうか…自身を含めて全てが次元の違った世界の様に感じていた。
厳かな空気が周りを包んでいて、それを覗いている私も妙な緊張感に覆われていた。「この世を去る」というのはこういう事を云うのだろうか…。そこに死体となって横たわっている私は、もはや私ではなく「私という肉体の塊」で、それももうすぐ灰になって消えてしまう。生きている時に感じていた全てが無に帰して消えてゆき、ここにいる肉体も灰となって消えてゆく実感はこれまで感じた事のない次元のワープだった。

情を抑えて現実だけを眺めれば、死は自己を終えるという現象に過ぎない。しかしその自己を終えるという事が人間にとっては辛いものなのだろう。これは所謂「未練」というものなのだ。生きている人の多くは、これまでの人生をなんだかんだと言いながらも未練を持ちながら生きているわけだ。他の生きものと人間の違いは「過去を背負って生きている」という事かも知れない。

 
夢限.jpg

最近、自身の死について感じたことがあった。それは人生の黄昏れを迎えている者にとっては、どんな気持ちで終焉を歩んでいるのだろうか、という事。
そしていま私はこう思っている。生きて来た総括のようにこれまでの様々な場面を走馬灯として追体験するのではないだろうか…と。
そして私の場合は、自分の人生を振り返った時に苦しむ訳でもなく、淡々となぞる様に辿るのだろう。自分の人生をギャラリーに飾られる絵のように眺められれば幸いだと思う。

人生における「過去」というものをどう認識してどう位置づけるのか。人生の終焉を目前にした者が突きつけられる最後の審判なのかも知れない。
「走馬灯の追体験」そんな名称をつけた私の黄昏人生の生き方模様でもある。

人生走馬灯01.jpg

 

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